溢れだす色彩の光。反響する軽快な音楽。体を押し包む熱気。
音に合わせてコールがドーム全体に響き、客席のサイリウムが力強く揺れる。彼らに応えるように勢いよく手を挙げれば、指先から汗が散るのを感じた。
「みんな、ありがとーー!!」
感謝の気持ちをマイクに叫ぶ。同時に何千、何万という声が波のようにどっと押し寄せ、脳内にまで反響する。
ああ、なんて気持ち良いんだろう。この熱量、この一体感。
あの無感動な視線なんて、気にならない。
(……ん?)
あの視線?
意識して客席を見下ろす。最前列の真ん中、熱狂するファンたちの間から、真っ黒い目が覗いていた。
ただじっとこちらを見つめるその人は、立ち上がらず膝の上に手を置いている。暗いはずなのに、どうしてこんなにはっきりと見えるんだろう。彼は穏やかな湖面のような、静かな目をしていた。
黒い宇宙に飲み込まれるように、音が、声が、遠のいていく。
彼は、ゆっくり口を開いた。
(こ、れ、は、)
その口の動きを読み取っていく。
(ゆ、め……?)
*
ナナはハッと目を開いた。
飛び込んできたのは、見慣れた白い天井。カーテンからこぼれる光に照らされ、瞬きしても何も変わらない。
「またこの夢……」
天井を見つめてぼうっと呟く。もう一ヶ月くらい、同じ夢を見続けている。広いステージの上に立って、幸福感に浸っていると、変な座り方をする男の人に醒まさせられる夢。夢なのだから、もう少し見させてくれてもいいのに。
やるせなくなりながら、もぞもぞ布団から身を起こして、ぼんやり部屋を見回す。
自分なりに可愛くしよう――アイドルはプライベートも可愛くあるべきなのだ――と、百均の雑貨で彩った部屋。しかし狭さは誤魔化すことができず、夢の世界からは程遠い。
むなしく感じて視線を落とすと、白い丸テーブルの上に置かれた一枚の名刺が目に入った。ナナの気持ちは一層沈む。『さくらTVディレクター 出目川仁』。昨日出演したアイドル番組の収録後に、ディレクター本人からこっそり渡されたものだ。裏側にはプライベート用の携帯番号が手書きで書かれている。渡されたときは特に何も言われなかったけれど、番号が書かれているということは、多分、そういうことだ。
(やっぱり、井上さんに相談した方がいいよね……)
帰りの車の中では一人で考え込んでしまい、運転するマネージャーになかなか言い出せなかった。もし断ったりしたら、ディレクターの担当する番組に呼ばれなくなるかもしれない。けれど、誘いを受けて売れるよりはいい。
甘い考えだとわかってる。芸能界で生きていくために必要なのはコネと根性だ。有名になるために、わざわざ業界人と関係を持つアイドルも少なくない。実際、友達のアイドルに誘われたこともある。断ったとき、彼女は「いつまで夢見てるつもり?」と冷ややかな笑みで自分を刺した。わざわざ誘ってあげたのに。
純粋な好意ではない。悪意があることは明らかだった。それ以降、彼女とも他のアイドルとも、距離を置くようにしている。自力で勝負し売れることは、叶わない夢と同じなのだろうか。わからない。わからないけれど、彼女たちの価値観に同調することは、どうしてもできない。それをしたら、自分の心がなくなってしまう気がするから。
沈んだ気持ちを紛らわせるため、充電していた携帯に手を伸ばす。母親からのメールが届いているはずだ。毎朝送られる、近況報告のメール。両親を説得し、半ば強引に上京してきたナナにとって、母とのやり取りは1日の中で最も穏やかで安らげる時間だった。センター問い合わせをしている最中、振動とともに画面が切り替わる。マネージャーからの着信だった。
(今日はお休みのはずだけど……)
布団を這って桃色のカーテンを開けながら、電話を受ける。眩しさに瞬くと同時に、聞き慣れた低い声が流れてきた。
『あ、おはよう、ナナちゃん。お休み中にごめん』
「いえ、大丈夫です……何かありましたか?」
『ああ、君と会って話したいと言う人がいるらしくてね……』
「私と会って話したい人……?」
『事務所から今電話がきて、僕も詳しい事は知らないんだ……今から会ってほしいと言ってるんだけど、時間ある?』
「はい、大丈夫です」
『よかった。じゃあ9時に迎えに行くから、用意して待ってて』
「はい」
別れを告げて電話を切る。
自分と会って話したい人って、誰だろう。売れないアイドルである自分に会いたいという稀有な人なんて、いるのだろうか。それに加えてわざわざ事務所に連絡し、アポを取るなんて。どこかのお偉いさんなのだろうか。
(出目川さんじゃなきゃいいんだけど……)
不安を覚えながらも、ナナは着替えをするべく立ち上がった。
マネージャーの井上と事務所に着くと、すぐに応接間に行くよう言われる。お偉いさんはすでにそこで待っているらしい。てっきりマネージャーも同席すると思っていたけれど、その方は二人だけで会う事を要望しているそうだ。
「受付の子曰く、リムジンで乗り付けてきたらしいよ」
「えっ、リムジンですか……!?」
囁かれた言葉に驚いて聞き返せば、彼は興奮気味に頷いた。
「だから、くれぐれも失礼のないようにね。ナナちゃんたまに抜けてるから……」
「だ、大丈夫です、頑張ります!」
意気込んで応接室前まで来たものの、足が緊張で震えてくる。まさか、リムジンに乗るほどのお偉いさんだとは思わなかった。そんな方が直々に事務所に来てまで、お話したいことって何だろう。
緊張を通り越して不安になる。考えられるのは、事務所からの引き抜きくらいだ。引き抜かれるほど売れてはないので、その可能性は限りなくゼロに近いが。自分で考えたことに今度は落ち込んでいると、ぽんと肩に手が置かれた。
「そんなに気に病むことはないよ、とにかく、いつも通りでいいんだ……相手はナナちゃんを指名してきたんだから」
期待に目を輝かせながら、マネージャーが勇気づける。ナナは力強く頷いて、失礼しますとドアを開けた。
最初に目に入ったのは、ティースプーンで紅茶を混ぜる大きな手。それから、革張りのソファに乗せられた足、ジーンズ、ツンとした黒髪。こちらに気付いて顔を上げたその人に、ナナはあっと息を呑んだ。服装や座り方だけじゃない。隈で縁取られた大きな目も、つんとした鼻も薄い唇も、全部見覚えがある。
「佐藤、ナナさんですね?」
「えっ、あ、はい」
思わずその場で立ち止まり、彼を凝視していたナナは、慌てて問いかけに頷き、ソファへ近付いた。同時に彼が足を下ろして立ち上がる。
「初めまして……ではないようですね。竜崎です」
初めましてではないようだと、彼は言った。彼もまた、あの夢を見ているのだろうか。戸惑いながらも、差し出された大きな手を握る。その手は温かく、この人は実在しているのだと実感する。これは夢ではなく現実なのだと、否応なしに自覚した。
「竜崎さんも、あの夢を?」
握手が終わり、手を離しながら問い掛ける。口にした後で、もう少し様子を見てから聞くべきだったとナナは後悔したが、竜崎は怪訝な表情を見せず、頷いた。
「はい……不思議な事もあるんですね。今お会いするまでは、どうにも信じられませんでしたが……」
「そうですよね、私も驚きました……あの、その隈は、本当の隈ですか?」
「? はい、本当の隈です」
「そうなんですね、私、ずっと気になってたんです。そういうメイクなのかなと……お聞きできて、よかったです」
素敵な隈をお持ちですね、と心から褒めれば、彼は驚いたように目を瞬かせた。
「……どうも。隈を褒められたのは初めてです」
とりあえず、掛けましょう。
促され、ナナは竜崎の向かいのソファへ腰を下ろす。
(あ、気になってたから思わず聞いちゃったけど、今のは失礼だったかも……)
いきなり初対面で外見のことを言うのはどうかと反省し、謝ろうと口を開きかけたが、その前に竜崎が話を切りだした。
「ナナさんは、2年前にこの事務所に入ったんですよね?」
特に意に介していないような様子に、ほっと胸を撫で下ろしながら答える。
「はい。中学を出てすぐにオーディションを受けて、運良くヨシダプロに……今は高校に通いながらお仕事させていただいてます」
「アイドルには昔からなりたかったんですか?」
「はい、小学生の頃からずっと憧れてました」
「先ほどあなたの歌を聴かせていただきましたが、アイドルにしては歌唱力が高いように感じました。歌手を目指そうと思ったことは?」
「それは、ありません。周りからは歌手のほうが合ってると言われましたが、私はアイドルになりたくて練習していたので……」
「そうですか……それで、アイドルとして武道館に立ちたいと?」
聞かれた言葉にきゅっと口を結ぶ。
そうだ。この人は毎日、自分の欲望を見ていたのだ。大勢の観客の前で歌い、恍惚とする自分の姿も。
途端に恥ずかしくなり、目を伏せて頷く。竜崎はこちらの様子を気にせず、そうですかと呟くと、ティーカップへ手を伸ばした。親指と人差し指で器用に耳がつままれ、ゆっくりとカップが持ち上がる。その持ち方にナナは、以前出演したバラエティ番組で得た知識を思い出した。小さなティーカップは、指を通さずつまむように持ち、他の指は揃えるのがマナー。これがなかなか難しく、意識してみてももう片方の手を添えてしまい上手くいかなかった。
手慣れたようにカップを口に運ぶ彼に尊敬の眼差しを送るが、ズズ、と紅茶をすする音に肩を落とした。ナナの落胆など露知らず、竜崎はカップを置いて言葉を続ける。
「とりあえず、今日は一度帰って少し寝てみます。こうして会った事で、何かが変わるかもしれませんし」
「そうですね、少しでも変わるといいんですけど……すみません、何だかご迷惑をお掛けしてしまって。私だと特定するのも、大変だったんじゃありませんか……?」
恐る恐る問いかければ、彼はあっさり首を振った。
「いえ、結構特徴的な歌を歌われていたのですぐに特定できました。それにこれはあなたのせいでは……まさか、意図して私に夢を見せたのではありませんよね?」
「いえ、私にそんな能力は……!」
「そうですよね……そんな能力はありえない」
彼は親指をくわえ、独り言のように呟く。
本当に不思議な話だ。同じ夢を毎日見るだけでも異常なのに、もう一人も同じ夢を見続けていたなんて。超常現象だ。そして何でもないように言っていたけれど、夢で歌われた曲を覚えているこの人もすごい。自分でもセトリなんて覚えていないのに。
(ん? 待って……)
夢は普通、忘れるようになっているんじゃないか? 夢と現実を混同してしまうから、忘れるような造りになってるんじゃないか?
脳の造りについて考えていると、同じく思案していた様子の竜崎が、スニーカーを突っ掛けて立ち上がった。慌てて自分も立ち上がる。
「では、また明日の午前中に伺います。今日はありがとうございました」
「いえこちらこそ、ありがとうございました。お話しできてよかったです」
小さくお辞儀してついていこうとしたが、見送りは大丈夫ですよと言われて素直に足を止める。
また明日、と部屋を出ていく彼を笑顔で見送り、バタンとドアが閉められた後、ナナはふと思った。
――…井上さんにどう説明したらいいんだろう?
- 1 -