長い赤毛の女

どこかで人々がざわめいている。
サラはその騒がしさに目が覚めた。今度は昨日のような悪夢を見なかったことに安堵しながら起き上がる。人々の声は窓の外から聞こえてきていた。横を見れば、エルが外を覗き込んでいる。
「おはよう」と挨拶すると「おはようございます」と外を見たままエルは返した。
「何の騒ぎ?」
彼の隣に立ち外を見下ろす。そこには大勢の人々が、この下宿屋の前にひしめいていた。「早く中に入れろ」「いい情報を持ってきたぞ」などと口々に叫んでいる。
「これって……」
「昨日の広告を見て来たのでしょう……これだけの人々が来ることは、想定してませんでした」
「先にアニーさんの友達のとこに行くんじゃなかったっけ? どうするの?」
「これだけ集まっているので、無下に帰すわけにはいきません。アメリアさんのところに行くのは午後にしましょう」
エルに続いて一階へ降りる。慌てたように小太りの女主人がキッチンから出てきた。
「おはようございます、エルさん、サラさん。この騒ぎは何ですか? もう二時間前から集まってるんですよ」
「おはようございます、リリーさん。私が新聞に広告を出したんです。売春婦連続殺人事件についての情報を得るために」
「ああ、あなたは探偵と言ってましたわね」とリリーは呆れたように目を細めた。
「彼らを一人ずつここに入れても?」
「他にお客がいないのでいいですが、あまり騒がれるのは嫌ですよ」
「大丈夫です、静かにやります……サラさんに朝食を、私に紅茶と角砂糖をください」
リリーはエルを冷ややかに一瞥すると、再びキッチンへ去っていった。「ああ、嫌になっちゃうわ」と彼女のぼやく声が聞こえた。
エルは気にした様子もなくテーブルにつき、用意されていた朝刊を開いた。サラも向かいに座る。
「まだあの人たちを入れないの?」
「まず朝刊を確認して、紅茶が用意されてから入れようと思います」
薄々感じてはいたが、エルはとてもマイペースだった。
リリーがキッチンの戸を開き、紅茶と砂糖のポットを手にやってきた。「どうぞ」とつっけんどんにエルの前に置かれる。
「ありがとうございます」
エルは早速片手で角砂糖をぼちゃぼちゃと紅茶の中に入れながら、もう片方の手で朝刊を捲った。エルがリリーを気にしないのなら、自分もそうしようとサラは思った。
「何か気になることとか載ってる?」
「昨日、ヤードが言っていた犯人の人相書が載ってます。『四〇歳ほどの男、口ひげとあごひげ、黒のジャケットにベスト、黒のフェルト帽、外国人訛りあり』……『外国人訛りあり』まで書くとは思いませんでした……あとは特に、真新しい情報はありませんね」
エルはぱらぱらと新聞を最後までめくって畳むと、スプーンで紅茶をかき回し、啜った。砂糖を何個入れたかわからないほどたっぷり入れていたのでとても甘そうだが、エルは顔色ひとつ変えず飲んでいる。
彼が紅茶を三口ほど飲んだところで、サラの朝食が来た。皿を置くと同時にリリーは口荒く言った。
「今、手紙がわんさか届きましたよ!」
「そうですか、持ってきていただいてもいいですか?」
リリーは鼻を鳴らし、わざとらしく足音を立てて戸口へ向かった。彼女は手紙を全て箱に入れて持ってきてくれた。中にはこんもりと手紙が山になって入っていた。
「すごい、こんなにいっぱい……」
エルはカップを置いて、ようやく椅子から降りた。
「私は外の人たちの話を聞くので、サラさんは手紙を読んで貰ってもいいですか?」
「えっ、私が読んで本当か判断するの?」
「ただ、選別して欲しいんです。ヤードの作った人相書通りの人物を見た、というものと、それ以外のもので」
エルはロンクの証言を信じていないようだった。
「コマーシャル・ストリートのバーの近くに男が立ってたんだよ!」
「どんな男性ですか?」
「黒いジャケットにベストを着た、髭のある男を――」
「もう、大丈夫です。ご提供ありがとうございました」
エルは人々が人相書通りの男のことを話すと、そこでばっさりと遮って終わらせた。そうしてエルは人々を捌き、サラが選別を終える頃には誰もいなくなっていた。エルの知りたかった情報は得られなかったようだ。
「どうでしたか? あの証言以外の手紙は何通ありました?」
「一通だけあったよ」
全部で二〇通はあったが、そのうちたった一通しかそれ以外の手紙はなかった。
エルが中身を確認する。
「『両日とも、病院の窓の外からホワイトチャペルを見下ろすと、長い赤毛の女性が歩いているのを見ました。時刻は午前一時頃。髪型や体格からして同一人物かと。 ショーン・ケビン医師』……ロンドン病院の医師ですね」
長い赤毛の女性――シャーロットが頭に浮かんだ。
「……行って詳しく聞いてみるの?」
「そうですね。アメリアさんのところに行ったあと、ロンドン病院へ行きましょう」
壁に掛けられた時計はすでに一一時を回っていた。エルと一緒に外へ出る。もちろん、外出する前にエルはリリーへお礼と外出する旨を伝えたが、彼女はなおざりに返事をした。リリーの機嫌を直すには、時間がかかるだろう。
今日の天気は昨日の快晴と違い、曇っていた。ジャケットなしでも過ごせるくらいの、ほどよい気温だ。
近くなので、歩いてアメリア・ファーマーの住む宿へ向かう。コマーシャル・ストリートの角を曲がったときだった。
「ユダヤ人を逮捕しろ!」
「イギリス人にあんな残忍な殺人ができるわけない!」
喧騒が耳に飛び込んできた。警察署前に、住人らしき人々が口々に叫んでいる。警察官が必死になだめているが、彼らの興奮は収まりそうになかった。
「やはりこうなりましたか……」
その光景を見てエルが呟く。サラはイーストエンドに住む人々がユダヤ人を嫌っていたことを思い出した。ユダヤ人にいつも仕事が取られてしまうと、誰かが文句を言っているのを耳にしたことがある。
「警察ももう少し考えるべきですね……そもそもあの証言から人相書を作ったのは間違いですが」
エルの言うことは最もだった。
やがて、アメリア・ファーマーの住む宿に着いた。彼女は起きたばかりらしく、まだ眠そうだった。
「何ですか、あなたたちは……」
目をこすりながら不審そうにこちらを見つめる彼女に、エルは名乗った。
「売春婦連続殺人事件を捜査している、探偵のエルです。こっちは依頼主のサラさんです」
「おはようございます」とサラはアメリアにぎこちなく挨拶した。
「アメリアさんは、アニーさんの友人だったと聞きます。犯人を追うために、アニーさんのことを詳しく知りたいのですが、よろしいでしょうか?」
アメリアは考え込むように下を向いた。信頼していいのか迷っているようだった。エルはもう一押しした。
「ホワイトチャペルにあるカフェでお話をお聞きしたいです。もちろんお代はお支払いします」
アメリアの目の色が変わった。
「……いいですよ、お話ししましょう」
今度は馬車を呼び、ホワイトチャペルへ向かう。アメリアの住む付近にはカフェなどという優雅な施設はなかった。イーストエンドでカフェがあるのはホワイトチャペルだけだ。
窓際のテーブルに座りサラはミルクを、エルは紅茶とスポンジケーキを、アメリアは卵とパンを注文した。
「ごめんなさいね、朝食を食べてないのよ」
「いえ、構いませんよ……まず、アニーさんと最後に会ったときのことを教えてください」
アメリアの話では、事件前日の午後五時頃、ホワイトチャペルでアニーと会ったという。アニーは以前会ったときよりもやせ細り、不健康そうに見えた。理由を聞けば、気分が悪いのだと彼女は言った。最近はお金がなく、紅茶しか飲んでいないらしかった。アメリアは不憫に思い、二ペンスを彼女にあげた。
「ありがとう。元気を出してお金を稼ぎに行くわ。今夜泊まるところもないから」
それがアメリアの聞いた、アニーの最後の言葉だった。
「気分が悪くなった原因は聞きましたか?」
「ああ、それは原因がわかってたの。九月二日だったかしら、その日に会ったとき、アニーは目に殴られたような痣を作ってた。どうしたか聞くと、酔って仲間のリサ・クーパーと喧嘩したんだって言ってたわ。喧嘩の原因は石鹸をアニーが返さなかったから、だって。その翌週、リサとアニーはまた会って、リサにつかみかかったアニーは逆にやられてしまったの。それが彼女の具合が悪かった原因」
エルは頷き、アニーの人柄、生い立ちについて尋ねた。アメリアはこう語った。
「アニーは四五歳で私と同い年くらいだった。中流階級の出身で彼女は教養もあった。けれどそれが鼻についたのか、売春婦仲間の評判は悪かったわ。ここに来る前は中心部にいたと聞いたことがある。そこで獣医だった人と結婚したらしいんだけど、アニーがお酒に溺れて家庭崩壊した。それが原因でアニーは家を出て、イーストエンドに身を落とした。生活費を稼ぐために売春婦を始めたのは最近みたい。ドーセット・ストリートの簡易宿泊所を家にして、男を連れ込んで商売してたわ。私が知っているのはそのくらいね」
「わかりました、ありがとうございます……最後にお聞きしたいのですが、アニーさんはシルクのハンカチを持ってましたか?」
「シルクのハンカチ? 持ってなかったはずだわ、持ってたらすぐに質に入れるはずだもの」
エルはお礼を言って、それからお金をテーブルに置いた。
「これでお支払いください。私たちは店を出ますので」
席を立つエルに驚きながらも、慌てて後に続き店を出た。
「シルクのハンカチって、何?」
「アニーさんの頭と胴体に結んであったハンカチです。アニーさんのものでないとしたら、犯人のもの……犯人はある程度裕福な人物です」
「そうだったんだ」とサラは納得する。けれども。
「アニーと喧嘩してた、リサって人を紹介してもらえばよかったのに」
「リサを追っても何も出て来ないと思います。単純に喧嘩しただけですから。それだけで殺人などしないと思いますし、女性ですから確率は低いです」
「犯人は女性ではないの?」
「私は男性だと睨んでます。短時間で喉をあれだけ抉り、腹部を裂き内臓の一部を切り取るのはかなり力がいるはずです。それに、この時代の女性で解剖学などに通じている人がいるのは極僅かでしょう」
「なるほど」とサラは唸った。さすがは名探偵。自分では思いつかなかった。
ロンドン病院には数分で着いた。赤レンガ造りで立派な柱が何本も立っている、大きな荘厳な建物だ。サラは一度風邪を引いたときに来たことがあり、今度は気後れせず中に入った。
ロビーには多くの人々が椅子に座り、自分の番を待っている。すでにすし詰め状態だ。受付にエルは声をかけた。
「ショーン・ケビン医師にお会いしたいのですが……」
受付の男性は当惑したようだった。
「お会いしたいのですか? 診察ではなく?」
「はい。ケビン医師も私が来ることを知っているはずです」
「あなたのお名前は?」
「エル・ローライトです」
「……少々お待ちください」
男性は確認しに、病棟へ去って行った。
「ケビンさんもエルが来るって知ってるの?」
「いえ、あれは嘘です」
「えっ」
「そう言わないと取り合ってくれなさそうだったので」
イカサマといい嘘といい、エルはやはり悪知恵が働く人だ。
嘘が通じたらしく、戻ってきた男性は、白衣を着た医者を連れてきた。背が高く、あごひげを生やしている。
「こちら、ショーン・ケビン医師です」
「どうも……エル・ローライトです」
「ショーン・ケビンです」
お互いに握手をする。受付の男性は持ち場に戻っていった。
「その子は?」とケビンがこちらを見る。
「サラさんと言って、私にあの殺人事件の犯人を捕まえて欲しいと、依頼してきた方です」
ありがたいことに、ケビンは深く聞いてこなかった。ただ、「へえ」と楽しげに返して、「こんにちは」と笑った。人の良さそうな笑みだ。サラも笑って挨拶を返す。
ケビンはエルに向き直った。
「話を聞きに来てくださったのですね?」
「そうです。どこか三人になれる場所はありますか?」
「ああ、こちらへどうぞ」とケビンに案内され、応接間らしい一室へ入る。柔らかそうなソファとテーブルが中央に置かれていた。
ソファに座ると、エルはさっそく話を切り出した。
「赤毛の女性を見た時のことを、詳しく教えてください」
「……八月三一日と昨日は、宿直で病院にいたんだ。それで宿直の時は、ベランダに出てタバコを吸うんだが、その時にその女性を見た。長い赤毛の、痩せた女だった。どっちの日も違う服を着ていたけれど、長い赤毛が印象的だったから、同じ女性だとわかったよ」
「ホワイトチャペルを歩いていたんですか?」
「ああ、そうだ。ベイカーズ・ロウのほうに歩いていったよ」
「……その二日間の服装は詳しくわかりますか?」
「うーん、彼女はガス灯から少し離れて歩いていたから定かではないけど、八月三一日はベージュのスカートに茶色のコートを、昨日はモスグリーンのスカートに黒いコートを着ていたな。この時期にコートを着ていたから、変に思ったんだ」
「歩き方に特徴はありましたか?」
「いや、なかった……普通の歩き方だった」
「背丈は?」
「女性にしては高い方だったと思うよ」
シャーロットも背が高い方だ。
「わかりました……ありがとうございます」
「娼婦だろうし、連続殺人事件に関わっているとは思えないが、事件の日に見たんで手紙を出してみた……役に立ったかい?」
「はい。こちら、謝礼になります」
エルは封筒を手渡した。ケビンは面食らったようだった。
「本当に、私の情報は役に立ったのかい?」
エルは自信のある様子で「はい」と頷いた。聴取はこれで終わったらしく、エルが立ち上がる。サラも同様に立ち上がった。
「情報をありがとうございました。また情報があれば手紙でご連絡ください」
「わかった、連絡するよ」
腰を上げたケビンにエルがお辞儀する。サラも一礼して部屋を出た。
エルは病院を出ると、さっそく指笛を吹いた。
「どこに行くの?」
「ローズマリー・レーンのシャーロットさんの家へ」
「ショーンさんの言う『長い赤毛の女』だから?」
「私の知る『長い赤毛』の女性は一人しかいません。少しでも可能性があれば、聞いてみるのが一番です」
シャーロットの住居兼店舗には三〇分ほどで着いたが、店はクローズしておりドアに鍵が掛かっていた。まだ一五時で閉店の時間とはほど遠い。
「おかしいな、いつもは開いてるのに……」
ノックをしてみても、彼女は出てこなかった。窓から中を覗き見る。部屋は暗く、花々は沈黙している。
「外出してるんでしょうか? 明日、聞いてみましょう」
サラが知る限り、シャーロットが店を閉めて外出することはなかった。どうしてしまったのだろう。指輪のこともあり、胸騒ぎがした。
止めていた馬車で、そのままホワイトチャペルへ戻る。路上では少年が号外を配っていた。
「号外! 号外だよー! 売春婦連続殺人事件の犯人が逮捕された!」
人々が少年に集まり、号外を取っていく。「ここで待っててください」とエルは言い、同じように号外を持ってきた。
記事を広げるエルの背後に近づき、記事を読む。

売春婦連続殺人事件の犯人逮捕か?

本日午後一時頃、グレーブセンドのパブに浮浪者がやってきた。手に深い傷を負い、血まみれの服を着たその男は、女性を罵る言葉を叫んでいたという。パブの主人が警察署に駆け込み、男は逮捕された。
浮浪者の逮捕はヤードにも連絡された。ヤードは売春婦連続殺人事件の犯人という可能性を考え、アバーライン主任警部が取り調べするために、男はロンドンへ護送されている。

血まみれの浮浪者ということで何かの事件に関連していそうだったが、母たちを殺した犯人には思えなかった。
「この人、エルの犯人像からすると違うようだけど……」
「そうですね、違います」とエルは言った。
「サラさんのお母さんやアニーさんを殺害したとき、返り血など犯人の服や手に付着していたはず。それにもかかわらず、誰も犯人を見ていない。それだけ巧妙に逃げられる人物ということです。そんな人物がわざわざ血まみれでパブになど入ろうとするわけがありません……本当にヤードが男を犯人と思っているのなら滑稽ですね」
サラたちは下宿に戻った。下宿の前にはまた人々が集まっていたが、今朝ほどではなかった。きっと、エルが今朝誰にも謝礼を渡さなかったという話が広まったのだろう。
エルはまた、一人ずつ中に入れ話を聞いた。残念ながら今度も、エルの興味を引く情報は得られなかったようだ。用意された夕飯を食べながら、サラは手紙を開いているエルに話しかける。
「明日はどうするの?」
「午前中にシャーロットさんの家に行きます。それから私の服を取りに行って、あとは良い情報があれば追ってみましょう……本当は夜のイーストエンドを歩いてみたいのですが、さすがに一人では怖いのでできませんね……」
「私がいるよ」と遠慮がちに言うも、エルは首を振った。
「まさか、サラさんを危険に晒すわけにはいきません……本当はヤードを味方につければいいのですが、それはこちらから願い下げです」
あの部長刑事の態度や言葉が、よほど気に食わなかったらしい。エルは冷静に対応していたけれど、実際は腸が煮えくり返っていたのだろう。
エルは基本的に表情が変わらないので、感情を読み取りづらい。今までサラの会ったことのない人間だ。何を考えているのか、教えてもらわなければわからない。
「……エルみたいな人って、未来にはいっぱいいるの?」
唐突な質問だったためか、エルは目を瞬かせた。それから口を開いた。
「……いないと思います。私のような人間が多くいる社会は、あまり想像したくないですね……」
やはり、エルは特別なのだ。サラは、エルがこの時代に来て、自分と会ってくれて本当に良かったと、改めて思った。
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