まぶしさと肌寒さを感じ、サラは目を覚ました。
薄い布きれの繊維に、白い光がまとわりついている。いつの間にか布を頭まで被っていたらしい。かじかんだ手の先に息を吐いてあたためる。九月上旬といえども朝の空気は冷え冷えとしている。
サラはそのまま、片手を開いて右隣へ滑らせた。一週間前からの習慣であり、一種の現実逃避でもあった。そして残念ながらこの日も、冷たくざらついたマットレスの感触を得ただけだった。母のぬくもりは今日もない。今日も、母のいない一日が始まる。
サラはのっそりと起き上がった。母のいない今日を、なんとか乗り越えなければならない。感傷に浸っている間はなかった。
眠い目をこすりながら、部屋の隅へ移動しようとする。隅にはサラの商売道具の入った、大きな古い鞄があった。カーテンを透かす光はまだほの白かったが、商売をするためには朝早くから行動するのが定石だ。
今は何時だろうと時計に気を取られた瞬間、丸テーブルにぶつかった。一脚が折れているテーブルはぐらっと揺れ、同時にサラの胸部に鈍い痛みが走る。狭い部屋では小さな丸テーブルも幅を取ってしまう。
幸い我慢できる痛みだったため、サラは胸を押さえながら、大回りして目的の鞄を手に取った。念のため中身を確認する。花を売る場所まで距離があるため、忘れものがあるとまたここに戻らなくてはならなくなる。時間を無駄にしてしまうのは避けたかった。
口を開くと、一〇本ほどのイグサがざっくばらんに飛び出してきた。このイグサは一昨日テムズ川沿いで摘んできたものだ。今日よりもずっと早起きして摘んだため、一昨日はお昼頃に眠くなってしまった。
サラは鞄の中のイグサをかき分け、底にうずくまっていた四ペンスを取り出した。そしてワンピースのポケットに入れた。昨日の分の売り上げだった。
先ほど確認し損ねた時計へ目をやる。ガラスが割れているため確認しづらいが、針は五と六を指していた。午前五時半。そろそろ家を出る時間だ。サラは軋む扉を開けた。
まだ朝早いが、通りには仕事へ向かう人々の姿があった。サラの暮らすイーストエンドでは、街頭商人や街頭労働者たちが多く暮らしている。彼らの表情は冴えず、その足取りも重い。儲けはでないとわかっているからだ。
ここは貧民の巣窟だ。その日その日を何とか凌いで暮らしている。それはサラも例外ではない。
「サラ、今日は払えるのかい?」
しゃがれた声に振り返る。宿泊所の主、テイラーが箒を片手に仁王立ちしていた。最も会いたくない人物だった。
「払えるよ」と呟くように答えると、「本当だろうね?」とテイラーは元々眉間にあったしわをもっと増やした。
「そろそろ母親の金もなくなってくる頃だろう? 孤児だからって、金のないやつは容赦しないからね。すぐに追い出してやる」
テイラーは鼻を鳴らすと、勝手口へ去って行った。
サラは憤りも感じなかった。なぜなら、彼女の言葉は事実だからだ。母の遺したお金はそろそろ底をつく。元々少なかったのだから尚更だ。
サラの住む部屋は、一週間に一シリング。手持ちのお金は昨日の売り上げを入れて七ペンス。花を買うため、一ペンスはなくなる。となると、あの部屋で一週間をしのぐにはあと六ペンス必要だ。そして、今日六ペンス以上稼がなければ、明日は何も食べられない。
サラはぎゅっと拳を握り、群衆とともに曇天の中を歩き始めた。花売りであるサラは、明日を生き延びるために売れる花を仕入れなければならない。
ローズマリー・レーンにある小さな花屋が買いつけ先だった。なぜこの花屋を買いつけ先にしているかというと、母がこの店の女主人と知り合いだったからだ。彼女との付き合いは三年ほどになる。母を亡くしたサラにとって、最も信頼できる大人は彼女だけだった。
ローズマリー・レーンでは、すでに街頭商人たちが古靴や壺などの商品を地面に並べ、商売の準備をしていた。商品の並べ方を指図する声が、そこかしこで聞こえてくる。サラはグラスハウス・ストリートの角にある花屋をノックした。
「ごめんください」
扉はすぐに開き、妙齢の赤毛の女性――シャーロットが顔を出した。
「ああサラ、おはよう」
「おはようございます」
「今日はどの花にする?」とシャーロットはドアを大きく開けてくれた。
そっと入った店内には、甘々しい香りがたちこめていた。水をたたえた壺に入った、目が覚めるほどの鮮やかさを持つ花々が咲き誇っている。
サラはこの空間が好きだった。寒々しい現実から最も離れた楽園のように思えるからだ。ローズの香りにうっとりしながらも、サラは今日売る花を真剣に吟味した。一番売れるのは香りの強い花だ。サラはモスローズとモクセイソウ、ドイツスズランを選んで買った。
「これ、おまけね」
シャーロットがピンクのモスローズを一束、鞄の中へ入れてくれた。サラは心苦しい気持ちになる。彼女の店だって、そんなに繁盛はしていない。
「ごめん、シャーロットさん。いつもおまけしてくれて……」
シャーロットはサラの後ろめたさを吹き飛ばすように、快活に笑った。
「いいのよ、全部売れると良いわね!」
彼女にはどんなに助けてもらっているか。母が生きているときから、シャーロットには頭が上がらない。時々母が彼女からお金を借りていたことは知っていた。
丁寧に礼を言って、鞄を受け取る。その際、彼女の薬指に光る指輪を見た。以前彼女が言っていたことを思い出す。
「指輪は見つかった?」
シャーロットは顔を曇らせた。
「……見つかってないわ。どこにもないのよ」
彼女を元気づけたくて、サラはこう励ました。
「私もお母さんのブローチ、ずっと探してたんだけど昨日やっと出てきたんだ。その大事な指輪も、きっと見つかるよ……よかったら私も探すよ」
シャーロットは微笑んだ。残念ながら、励ますことはできなかったのだとサラは悟った。彼女の笑みは貼り付けたような、作った笑みだった。
「……ありがとう。指輪は私一人で探すわ、サラの手を煩わせちゃいけないから」
「……そう?」
もっと彼女を勇気づけたかったが、ずっとここにいるわけにはいかなかった。シャーロットの元を離れ、商売所であるホワイトチャペルへと急ぎ足で歩く。彼女の様子が気がかりだけれど、まずは明日からの部屋代を稼がなければならない。その後で、シャーロットの家へ寄ろうとサラは考えた。
サラの定位置は大きなロンドン病院の向かい、ホワイトチャペル駅のそばだ。そこに座り込み、イグサで花を括っていくつもの花束を作っていく。もちろん一色だけの花束は売れない。だからピンクと白というように、合う色を織り交ぜて作る。一度シャーロットに色彩センスを褒められたことがあり、サラはこの作業に自信を持っていた。すべての花を結んだときには、通勤のため駅へやってくる人々が多くなっていた。
「おはよう、サラ。今日はモスローズかい?」
「きれいな色味ねえ」
中にはこうして話しかけてくれる常連さんがいる。彼らと毎朝挨拶を交わし、サラの仕事が始まる。人の多い今が稼ぎ時と思えるが、通勤する人々にわざわざ花を売りつけるようなことはしない。職場に花束を持っていく人など皆無だからだ。
「新聞、新聞だよー! 一つ一ペニー」
隣で少年が朝刊を売り始めた。彼にとっては今が稼ぎ時だ。新聞は汽車に乗っている間に読める。人々がこぞって少年の元に集まっていく。
サラも新聞には興味があった。ポケットに入っている、折りたたんだ記事に関するものが載っているかどうか。それだけが知りたかった。客の流れが落ち着いてきたところで、サラは少年に声をかけた。
「ねえ、新聞ちょっと見せてよ」
少年は怪訝な顔でこちらを見た。サラよりも三歳は上だろうか。そばかすが鼻の上にのっていて、生意気そうな顔をしている。
「金持ってるのか? 買わないと見せねえよ」
「お金はないけど……一面見るくらいいいでしょ」
「いいわけないだろ。そもそもお前、字が読めるのか?」
聞き捨てならない台詞だった。サラは自分が読み書きできることを唯一の誇りに思っていた。むっと彼を睨む。
「失礼ね、日曜学校に通ってたから字くらい読めるわよ」
少年は興味なさげに「ふーん」と相づちを打った。サラよりも、少年のところへやってくる客のほうへ意識をめぐらせているようだった。二人の話はあっけなく終わり、新聞を完売させた少年は何も言わず立ち去った。
すでに駅へ向かう人の姿はまばらになり、通りにはこの辺りに住む紳士、淑女たちが歩き始めていた。サラはようやく立ち上がり、彼らに声をかけていく。
「花、花はいかがですか? モスローズがきれいですよ」
彼らはたまに立ち止まって買っていってくれる。サラの境遇を哀れんでか、一つの花束を倍のお金で買ってくれる人もいる。基本的に紳士たちは優しいため、サラは比較的この仕事が好きだ。
夕方になると、仕事から帰ってきた人々で騒がしくなる。この時間が一番の稼ぎ時だ。残りの花を売ろうと必死に声かけしていると、「サラ」と落ち着いた声で名前を呼ばれた。そちらを向くと、茶色のハットにフロックコートを着た紳士が微笑んでいた。
「ドルイットさん!」
ドルイットは最近よく花を買ってくれる常連さんだ。この付近で教師をしているらしい。毎週のように花を買ってくれる彼は優しく、サラは彼が好きだった。
「今日の花はモスローズ?」
「うん、きれいだよ」
花束を見せると、「いい香りだな」と彼は笑った。
「じゃあ、これを」
「ありがとうございます」
代金が渡される。サラの手にはなんと、一ペンス硬貨があった。
「こんなにもらえないよ」
慌てて言うと、ドルイットは微笑んだ。
「お母さんが亡くなったんだろう? 施しと思ってくれ」
「でも……」
いくらなんでも、花束一つに一ペンスは受け取れない。返そうとしたが、「いいから」と彼はサラの手を押し返した。そして花束を取ると「それじゃあ」と去っていってしまった。
硬貨を握り、サラは途方に暮れる。一ペンスをもらったことは素直に嬉しい。けれど、こんなにもらっていいのだろうかと後ろめたくなってしまう。シャーロットといい、ドルイットといい、皆自分に優しくしてくれる。孤児になった今は、ますます気を遣われているように感じる。
今サラがお返しできるものは何もない。
――何年後かわからないけれど、自分一人で生きられるようになったとき、彼らに何かお返しをしよう。
サラはそう決めて、ふつふつと湧いてきていた罪悪感を打ち消した。「何年後」の自分の職業については、考えることを放棄した。
日が暮れかけるまでサラは路上で粘ったが、結局数束売れ残ってしまった。日が落ちてから花を買う人はあまりいないため、諦めて今日の売り上げを数える。今日は全部で五ペンス。あの部屋に住むにはあと一ペンス足りない。やはり、六ペンス以上稼ぐことは無理だった。ドルイットの「施し」がなければ売り上げは四ペンスだった。
薄々売り上げが目標に届かないことはわかっていた。わかっていながらも、サラは見て見ぬ振りをした。明日からの生活について考えることを、先へと延ばしたのだった。
サラは母のいる墓地へ向かった。一人になって、考え事がしたかった。今朝思ったように、シャーロットの家に寄ることも考えたが、今彼女に会えばお金を貸してくれと懇願してしまいそうで怖かった。
日が落ちる寸前の墓地には誰もいなかった。多くの十字架の前を通り過ぎ、母の墓の前に座る。墓石などなく、木製の十字架が地面に刺さっているだけの墓だ。身寄りもお金もない者のための墓。
昨日の納骨式の際、神父が墓前に一本のユリを活けてくれた。一日経った今日、そのユリは少し背筋を曲げていたけれど、まだ生き生きとしていた。母の生前の姿と重なる。
どうしようもない母親だった。稼いだお金をすぐパブに使うジン中毒者で、素面でいるときのほうが珍しかった。ただ、母はサラのことを大事に思ってくれていた。日曜は働かせずに学校へ行かせてくれたり、オレンジや花の季節でないときは母が一人でお金を稼いだりしてくれた。大人になるまで二人で暮らしていくのだと、サラは信じて疑わなかった。
今、左のポケットには母のブローチが入っている。いつも母が大切にしていた、少し高価そうなブローチだ。亡くなった父がくれたのだと嬉しそうに話していた。
――ねえ、お母さん、どうしたらいい?
そのブローチを質に入れれば、五ペンスは手に入るだろう。だが母の形見はそのブローチしかない。
テイラーの取り立てに応じなかった場合は、あの部屋を出て孤児院か救貧院で暮らすことになる。どちらもろくなものも食べられない、劣悪な環境と聞く。「救貧院は貧を救うと書くが、実際はそうではない。院から貧民を早く出させるための施設だ」。道ばたに落ちていた雑誌の文章が頭に浮かぶ。
人間らしく生きるために思い出を売るか。
思い出を残すために地獄を取るか。
サラはこぼれる涙を拭い、鼻を啜った。秋の夜の冴えた空気を鼻の奥に感じる。どっちみち、これから訪れる冬の季節に、どんな仕事をすればいいかわからない。仕事に就けるかもわからない。それなら選ぶ道は一つだ。
「お母さん……助けてよ……」
か細い声で母を呼ぶ。広い墓地の中で、その声を聞いた者はいないと思われた。しかし、ただ一人だけ聞いていた者がいた。
「……すみません」
後ろからかけられた声に、サラはぎくっとして振り返る。
そこにいたのは、風変わりな格好をした男性だった。白い肌着のような服に、だぼっとしたズボン。こんな格好をしているのは浮浪者くらいだが、彼の服は泥など付いておらず綺麗だった。
風変わりなのは服だけではない。つんつんした黒髪、大きな瞳に刻まれた隈、丸まった背中。サラの短い人生の中で、一度も出会ったことのない人物だ。彼の存在自体が異質だった。
「ここは、どこですか……?」
外国人にも見えるが、綺麗なクイーンズイングリッシュを話す。彼は戸惑っているようで、あちこちを見回していた。サラは彼の外見に気を取られながらも答えた。
「イルフォード墓地ですけど……」
彼は眉間にしわを刻み、そして自分を上から下までまじまじと見た。不躾な視線に居心地が悪くなる。彼は先ほどとは違い、はっきりとした口調で言った。
「今、西暦何年ですか?」
西暦くらいサラにもわかるのに、どうしてこの人はわからないのだろう。
――ああ、きっとこの人は、記憶をなくしてしまったんだ。
サラは一つの可能性を考えた。捨てられていた雑誌の中で、「記憶喪失」なる現象についての記事を読んだことがある。この人はきっと不慮の事故で病院に入院していて――あまりお金を持っているようには見えないが――元気になった今、退院してきたのだろう。そしてまた「記憶喪失」状態になってしまったのだ。「記憶喪失」は繰り返されることがあると、その雑誌には書かれていた。そう考えると合点がいく。
サラは勝手に同情を抱き、丁寧に、ゆっくりと答えた。
「一八八八年です」

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