愛情 | ナノ

Beloved

 夏の強い日差しを薄い白のカーテンが柔らかくし、リビングは優しい光で溢れていた。窓から入る涼やかな風が、少年の長い黒髪を揺らす。
 少年は、本を読んでいた。父譲りの鉤鼻の上で、彼の黒い瞳がゆるやかに文字を追う。リビングには、彼がページをめくる音だけが聞こえていた。少年――ショーンはふとそれを疑問に思い、本を閉じて物語の中から現実へと戻った。
 向かいを見ると、雑誌を読んでいたはずの母が、ソファにもたれて眠っていた。時折風に揺れる金色の髪が、母の頬をくすぐるように触れる。彼女はとても穏やかな表情をしていた。
 母は綺麗だと、ショーンは思う。一度も面と向かって言ったことはないけれど。最近皺が出てきたと母は憂いているが、彼女は若々しかった。父と同い年には、とても見えなかった。少なくとも10は若く見えた。昔一度だけ、何故若く見えるのか聞いたことがある。母は、自暴自棄になっていたからよ、とよくわからないことを言い、もっとよく聞き出そうとしても困ったような笑みを浮かべるだけで、詳しいことは教えてくれなかった。
 窓を何かが叩く音に、ショーンは母から窓へと目を移した。立ち上がり薄いカーテンを開けると、フクロウがいた。足に括り付けられた手紙を見て、どきりと胸が高鳴る。ショーンはすぐに網戸を開け、フクロウから手紙を受け取った。黄色がかった羊皮紙の封筒の中に、何やら分厚いものが入っていると重みでわかる。エメラルドグリーンのインクで書かれた宛名は、自分の名前だった。裏を見ると、紋章入りの紫色の蝋で封がされていた。中央に描かれた『H』を取り囲む、ライオン、鷲、穴熊、蛇――ホグワーツの紋章だ。
「……来たのね」
 いつの間にそばにいたのか、母の声が降って来た。驚いて見上げると、彼女は自分の両肩に手を置いて、開けてみなさいと微笑んだ。
 逸る気持ちで封を剥がし、中身を取り出した。そこにはこう書かれていた。

 ホグワーツ魔法魔術学校
 校長:ミネルバ・マクゴナガル

 親愛なるスネイプ殿
 この度ホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学が許可されましたことを、心よりお喜び申し上げます。必要な教科書並びに教材のリストを同封いたします。
 新学期は九月一日に始まります。七月三十一日必着のふくろう便にて、返事をお待ちしております。

 敬具
 副校長 フィリウス・フリットウィック

「母さん、羊皮紙ある?」
 母は自室から羊皮紙と羽ペンを持って来てくれた。ショーンはテーブルにつき、丁寧に文字を書いた。

 フリットウィック副校長様
 是非ホグワーツ魔法魔術学校に入学したいと思います。九月一日がとても楽しみです。
 ショーン・スネイプ

「これで大丈夫?」
 心配になり隣に座る母を見つめる。母は優しく答えた。
「ええ、大丈夫よ」
 オーケーをもらったショーンは安心して、待っていたフクロウに手紙をしっかり括り付けた。フクロウは翼を広げ、青空の向こうへ羽ばたいていった。フクロウの姿が見えなくなるまで見送ったショーンは、封筒に入っていたもう一枚の手紙へ目を通した。

 ホグワーツ魔法魔術学校

 制服
 一年生は次のものが必要です。
  一、普段着用ローブ(黒):三着
  二、普段着用三角帽(黒)昼用:一個
  三、安全手袋(ドラゴンの革またはそれに類するもの):一組
  四、冬用マント(黒、銀の留め具):一着
 衣類には全て名札をつけておくこと。

 教科書
 全生徒は次の本を各一冊ずつ準備すること。
『基礎呪文集(一学年用)』ミランダ・ゴーサーク著
『魔法史』バチルダ・バグショット著
『魔法論』アーダルベルト・ワフリング著
『変身術入門』エメリック・スイッチ著
『薬草ときのこ千種』フィリダ・スポア著
『魔法薬調合法』アルセニウス・ジガー著
『幻の動物とその生息地』ニュート・スキャマンダー著
『闇と対面する』アドルファス・トリンブル著

 その他学用品
 杖:一本
 大鍋(標準二型):一つ
 ガラス製またはクリスタル製の小瓶:一組
 望遠鏡:一個
 真鍮製はかり:一組

 生徒はふくろう、または猫、またはヒキガエルを持って来ても良いこととします。
 一年生は個人用箒の持参を許されていません。保護者はご確認ください。

 ショーンは胸が躍った。ホグワーツに入学するのだ。実感が湧きあがり、自然と口角が上がる。やっと魔法が学べる。やっと自分の杖が持てる。何年も前からこの時を、ずっと待っていた。
「さっそく買いに行きましょうか」
 母の言葉に、ショーンは勢いよく顔を上げた。嬉しさが顔にあらわれていたのか、母はにっこりと笑った。
「こういうのは早い方がいいわ。ショーン、お父さんを呼んできてくれる?」
 高揚していた気持ちが、少し醒めるのを感じた。そうだ、父がいなければ、ダイアゴン横丁には行けない。ショーンの気持ちを察するように、母は言った。
「お父さんも、きっと喜んで行くはずよ」
「……うん」
 ショーンは父の書斎へと向かった。
 ショーンは父が苦手だった。ホグワーツに勤める父は、夏休みとクリスマス休暇の短い間しか家にいないということもあり、あまり話をしたことがなかった。彼の持つ厳格な雰囲気により、話しかけづらいというのもある。そんなショーンと父を見かねて、母はこうして話す機会を作ろうとするが、父と向かい合うと萎縮してしまい、打ち解けて話したことは一度もなかった。
 緊張しながら、ドアをノックする。父がいるときは、彼の書斎に入る前にノックするのがこの家の決まりだった。
「父さん……開けていい?」
 ああ、と中から短い返事が聞こえ、ショーンはドアを開ける。壁一面が本棚に囲まれた部屋のデスクで、父は書き物をしていた。彼はペンを止め、こちらを振り向いた。
「どうした?」
「ホグワーツから、手紙が来たんだ。それで、母さんが早速学用品を買いに行こうって」
 短く説明すると、そうか、と父は言い、ペンを置いて立ち上がった。ショーンは自分によく似た彼の顔をちらりと見た。その表情からは、喜びも何も感じられず、ショーンは落ち込んだ。
「準備するから、母さんと少し待っていなさい」
 そう言われ、ショーンは頷いてドアを閉めた。リビングに戻ると、母はすでに着替えていた。ノースリーブの黒のシンプルなワンピースを着た彼女は、自分の表情を見て悟ったようで、何も聞いてこなかった。
 少ししてリビングにやってきた父は、ローブに身を包み、片手には大きな黒のカバンを持っていた。何が入っているのだろう、と疑問に思ったが、ショーンは聞かなかった。
「行こうか」
 父の言葉に母が頷き、立ち上がる。ショーンもソファから立ち上がった。母は自然な動作で父と腕を組んだ。
「ショーン」
 父の手がこちらに差し出され、ショーンは慌ててその手を握る。久しぶりに握った父の手は大きく、少しかさついていた。父は次の瞬間、姿くらましをした。

 姿現しした先は、ロンドンの薄暗い路地だった。ショーンは父から手を離し、慣れたように人通りの多い通りへ進む父と母の後をついていった。
 漏れ鍋は、大型書店とレコード店の真ん中にある。足早に道を歩く人たちの波に乗りながら、ショーンたちは漏れ鍋へと入った。久しぶりに入った店内は、相変わらずとても暗かった。年老いたバーテンダーのトムは老婦人と話していたが、三人が進んでくると話をやめ、こちらに笑顔を向けた。
「これはこれは! ミスター・スネイプとミセス・スネイプ、ショーンくんまで! お買い物ですか?」
 店内にいた客たちの視線が、一斉にこちらを向いた。何も言わず苦い顔をしている父に代わって、母がにこやかに答えた。
「こんにちは、トム。そうよ、ショーンの学用品を買いに来たの」
「学用品……そうか、ショーンくんはもうホグワーツに入学する歳になったんですね」
 トムはこちらに屈み、おめでとうと笑った。ショーンは周りの人の目もあり、恥ずかしく思いながらも、ありがとうございますと呟くように礼を言った。
 トムに手を振り、ショーンたちはバーを通り抜け、壁に囲まれた小さな中庭へ向かった。ゴミ箱と雑草が数本生えているだけの庭だ。
 父が杖を取り出し、目でさっとレンガを数えると、三回壁を叩いた。叩いたレンガが震えて揺れ出し、小さな穴が現れる。それがどんどん広がっていき、次の瞬間には、大きなアーチ型の入り口が現れた。その先に石畳の通りがあり、先が見えなくなるまで曲がりくねって続いていた。ショーンは胸を躍らせながら、二人と一緒にアーチをくぐり抜けた。
 ダイアゴン横丁は、人でごった返していた。がやがやとした人声の中に、低いフクロウの鳴き声が混じり、近くの店に積み上げられた大鍋が太陽に照らされていた。人ごみを進むと、人々の視線がこちらを向き、ひそひそと囁き合う声が聞こえてきた――「スネイプご夫妻よ」――「息子さん、あんなに大きくなって」――「ああ、何て素敵なご夫婦なのかしら」――
「まずはグリンゴッツか?」
 囁き声を無視しながら、父は母に尋ねた。母は手を振ってきた少女に振り返しながら答えた。
「そうね、お金下ろさないと……」
 ローブや望遠鏡など小さな店が立ち並ぶ中、一際高くそびえる真っ白な建物に三人は向かった。銀行から必要なお金を引き出しグリンゴッツを出ると、制服を買いにマダム・マルキンの店に入った。藤色尽くめの服を着た、ずんぐりした魔女が奥から出て来て朗らかに笑った。
「あら、スネイプご夫妻にお坊ちゃん! ホグワーツですか?」
「ええ、お願いします」
 母に背中をそっと押され、ショーンはおずおずと前へ出た。
「私たち、ちょっとその辺をぶらついてるわ。終わる頃には戻ってくるから」
 母に言われ、ショーンは頷いた。ベルの音とともに母たちが店を出ると、マダム・マルキンが店の奥へ歩き出した。
「こちらです。今もう一人、お若い方が丈を合わせているところですよ」
 奥では、丸顔の恰幅のいい少年が踏み台の上に立ち、もう一人の魔女が長く黒いローブをピンで留めていた。マダム・マルキンはショーンをその隣の踏み台に立たせ、頭からローブを着せると、丈を合わせてピンで留め始めた。
「やあ、君もホグワーツかい?」
 少年が声をかけてきた。
「うん、そうだよ」
「君はどの寮に入るか、もう知ってる?」
 少年は不安そうに尋ねた。ショーンは首を振った。
「ううん。でも僕の両親はスリザリンだったから、スリザリンかもしれない」
「そうなんだ……って、ん?」
 少年はまじまじと自分の顔を見てきた。
「なんだい?」
「僕、君の顔どこかで見たような気がする……」
 こんな反応には慣れていたショーンは、人違いじゃない?と肩をすくめた。でも、と少年が二の句を継ぐ前に、ピンを留めていた魔女が言った。
「さあ、終わりましたよ」
 少年は名残惜しげに踏み台を下り、またホグワーツで会おうと言って去っていった。
 危なかった、とショーンは思った。あの有名な両親の息子だと、少年に知られたくはなかった。自分を普通の少年として見てもらいたかったのだった。
 彼の両親――特に父は、あのハリー・ポッター――ハリーおじさんと同じくらい有名だった。ヴォルデモートという名の悪い魔法使いの元で二重スパイをし、ハリーの手助けをしたのだと言う。母からよく父のことを聞かされ、ショーンはそのことを知っていた。
 目の前の鏡に映る、自分の顔を見つめる。肌の色は父より血色がいいけれど、それ以外は父によく似ていた。長い黒髪に黒い瞳、大きな鉤鼻、薄い唇。母に似ている部分は、顔の輪郭と目の形だろうか。
「終わりましたよ」
 マダム・マルキンの声に踏み台を降りる。入り口に向かうとすでに両親は戻ってきていた。母はマダム・マルキンに代金を払うと、受け取ったローブを父に渡した。父はカバンを開き、それを中に入れた。
「拡張魔法がかかってるのよ」
 視線の先に気付いたのか、母が言った。何かが入っているのではなく、買った物を入れるために持ってきたのだとショーンは気付いた。父が自分のために持ってきてくれたことに驚き、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
 それから教科書を買うため、『フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店』に入った。書店の本棚には、大きな革製の本が天井まで積み上げられていた。教科書を一揃い買ったあと、ショーンは一冊の分厚い本を見つけた。
「母さん、この本欲しい!」
 呪文大全集と、きらびやかな金色の文字で刻印されていた。母は本を手に取り、パラパラとめくりながら頷いた。
「闇の魔術は載ってないみたいだし、買ってあげてもいいわ。レベル別に書いてあるようだし……でも残念ながら、セブルス、あなたの耳塞ぎ呪文は載ってないわね」
 あれはとてもいい魔法なのに、と母は残念そうな顔をする。父は母に微笑むと、こちらに向かって言った。
「……ショーン、これを読む前に、教科書を全て読むと約束すれば、買ってやろう」
「もちろん、読むよ」
「じゃあ、決定ね」
 母は微笑み、財布からお金を取り出した。
 本屋を出ると、大鍋と秤、折り畳み式の望遠鏡を買い込んだ。次に入った薬問屋では、父が基本的な薬の材料を注文してくれた。残るは杖だけだった。
 初めて入ったオリバンダーの店は狭く、入ると同時に店の奥の方でベルが鳴った。華奢な椅子が一つあり、母はそれに腰かけて待った。父は母の横に立った。ショーンは天井近くまで整然と積み重ねられた、何千という細長い箱を見つめた。魔力がその一つ一つに秘められていると思うと、背筋がぞくりとした。
「いらっしゃいませ」
 突然聞こえた柔らかな声に、ショーンは飛び上がった。母は飛び上がりはしなかったが、すぐに立ち上がった。目の前に年老いた男性が立っていた。店の薄明かりの中で、大きな淡い瞳が月のようにきらめいていた。
「こんにちは」
 ショーンはぎこちなく挨拶した。
「ああ、さようでございますとも。間もなくお目にかかれると思っておりました。ショーン・スネイプさん……お父様にそっくりなお顔立ちをしていらっしゃる。お父様の杖は十四インチ、樺の木でできた、呪文にぴったりな杖――そうですね?」
 オリバンダーは自分の後ろにいる父に尋ねた。父は無言でうなずいた。
「そしてお母様の杖は、十一インチ、ナナカマドの木でできた華奢な杖――今でも大切に保管されていると聞きました」
「ええ……」
「最後にあのような素晴らしい魔法をかけることができ、杖も幸せでしょう」
 オリバンダーは微笑み、そして銀色の長い巻き尺をポケットから取り出して言った。
「さて、ではショーンさん、拝見いたします。どちらが杖腕ですか?」
「右です」
「では右腕を伸ばしてください。そうです」
 彼はショーンの肩から指先、手首から肘、肩から床、膝から脇の下、頭囲と寸法をとっていった。採寸が終わると、オリバンダーは棚の間を飛び回り、箱を取り出してきた。
「ではショーンさん。これをお試しください。ブナの木にドラゴンの心臓の琴線。十インチ。手に取って振ってみてください」
 ショーンは杖をとり少し振ったが、すぐにオリバンダーがショーンの手から杖を取ってしまった。
「カエデにユニコーンのたてがみ。十一インチ。良質でしなやか。どうぞ――」
 ショーンは杖を手に取った。指先が温かくなるのを感じた。緩やかに横に振ってみると、青と銀色の光が杖先から花火のように流れだした。両親が拍手し、オリバンダーが「素晴らしい」と嬉しそうに言った。ショーンは照れくさくなり、少し笑った。
 杖の代金を払い、ショーンたちは店を出た。外はすっかり日が傾いていた。ずっと欲しかった杖を買うことができ、ショーンは浮き足立っていた。
「これで、必要なものは全部買ったよね?」
 弾んだ声で母に尋ねると、彼女は一覧が書かれた手紙を広げて頷いた。
「ええ、全部買ったわ。セブルスは他に買うものない?」
「ああ、特には」
「じゃあ、帰りましょうか」
 来た時と同じように、母が父と腕を組み、ショーンは彼と手をつないだ。そして、ゴム管の中に押し込められるような感覚とともに、ダイアゴン横町から姿くらましした。
 ショーンが両親から入学祝いとしてフクロウをもらうのは、家に着いてからのことだった。
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