◆罅割れた鏡の破片が刺さる
タタル渓谷に戻ってきた赤髪の青年は、自らをアッシュと名乗った。
ティアが待っていた、恋していたルークではないと。
それはティアの失恋と、夢見ていた未来の喪失を意味していた。
ルークへの想いを忘れず、ルークが帰還すれば恋が実ると信じていたティアは、その未来を失ったことに深く悲しみつつも、当初は神託の盾騎士団の軍人として、また音律士として、誇り高く生きていこうと決意していた。
しかしダアトの改革に伴う犯罪や問題の見直しの際に、ティアもまた過去の犯罪や問題点を追及されることになる。
第七譜石探索の任務に就きながら、何か月もの間その任務を放棄したこと。
ファブレ公爵家襲撃、またユリアの譜歌を悪用し、王族や非戦闘員を含む多くの人々に危害を加えたこと。
それらを導師イオンに対して隠蔽するような行動をとっていたこと。
ティアに軍人として、また譜歌を扱う音律士としての必要な知識や理解が不足していること。
また、それらを学ぶ意志、努力がないこと。
そして上官からの叱責にも同僚からの注意にも耳を傾けて改善するどころか、
「私はルークにも誰にも危害なんて加えていません! わけのわからない言いがかりは止めてください!」
「無知? 未熟? 失礼なことばかり言わないでください! 私は一人前の軍人です!」
「兄のおかげで実力が不足しているのに音律士になれた? 私は兄に頼ったことなんてありません! 私が音律士になれたのは私の実力です!」
「何故音律士なのに譜歌について知ろうとしないのかって? 私は既に譜歌を十分に知り、理解もしていますが?」
「喧嘩になったのは、フォスター奏長が私のことを馬鹿にしたのが悪いんです。私が仕事もせず、学びもせずの、怠け者だなんて根も葉もないことを!」
そう抗弁して罪も無知も認めず、叱責や注意も否定してばかりでトラブルが絶えなかったため、呆れた上官によって、ティアは軍から追われることになった。
祖父のテオロードを通じて抗議しようとしても、元々ティアが軍人になるのをよく思っていなかった祖父は、これ幸いと家庭に入るように勧めてくる有様で、とても味方になってはくれなかった。
元々、音律士なら絶対に必要な譜歌の知識が足りず、また知識を身に着けようともしなかったような、無知で、不勉強で、怠け者のティアが音律士になれたのは、妹を甘やかして何かと特別扱いさせていたヴァンの縁故による半ば以上不正なものだったため、それを取り消されたといった方が正しかったが。
本来なら譜歌の知識の足りない、学ぼうともしない者が、音律士になれるはずなどなかったのだから。
ヴァンがそうと言わずとも、ティアが自分の実力を自惚れることなく正しく把握していたなら、譜歌の知識が足りない自分が音律士になれることへの不審を抱き、気付くきっかけになっただろう。
しかし自分を一人前の軍人と信じて恥じるところのなかった、今まで自分が格段に甘やかされていた自覚もなかったティアは、何を言われても言いがかりとしか認識せずただ不満と被害者意識を募らせるだけだった。
そんなティアの態度がますます周りの怒りや軽蔑を増す結果になり、それに怒ったティアが反論することでまた不審や嘲笑を買い、と悪循環になっていた。
ダアトにも居辛くなったティアは、一旦はユリアシティの自宅に戻ったものの、まだルークを忘れられないティアの気持ちにも構わず、断っても断ってもしつこく縁談を持ってくる祖父テオロードのせいでまた居辛くなり、ガイの勧めでマルクトのガルディオス伯爵邸で世話になるうちに、やがてガイと愛を育むようになっていた。
「それでね、あの頃のルークはこんなにも傲慢で、世間知らずで……」
「本当に、あの時のルークの態度には呆れたものだわ……」
「出会った時からルークは…………盗賊、そう漆黒の翼だって、ルークと一緒にしたら怒るかもしれないと思ったくらいよ」
「そうだよなあ、あの頃のルークは本当に……わがまま放題考えなしのお坊ちゃんだったよなあ」
「でも俺がそんな風に育ててしまったのも一因だからなあ、ティアがあいつを厳しく叱って教えてくれたおかげで……本当に優しいよな、ティアは」
「ルークは気遣いってものが下手だから、ティアのことは何度も傷付けちまってたよな。それとなく気付かせようとはしたんだけど、そういうところは成長してないやつだったから気付きもしなくて、なんて鈍いやつなんだってアニスといっしょに呆れたものだったよ」
ティアはガイとあの旅の思い出話をしていると、ルークと旅をしていた時の記憶を、感じた心地までを鮮明に脳裏に蘇らせることができた。
ガイはルークを想うティアの気持ちをよく理解してくれたから。
無知でわがままだったルークを叱ってやってきたティアを賛美してくれたから。
弟を厳しくも優しく見守るお姉さんのような自分に、まるで今起きていることのように陶酔することができた。
やがて共通の思い出と想いが、ひとつ屋敷に暮らす年頃の男女の仲を急速に深め、一年もしないうちに肌を許すようになった。
そしてティアの胎にはガイの子供が宿り、順番は逆になってしまったがそれをきっかけにガイからプロポーズを受けたティアは、やっとルークへの想いに区切りを付け、ガイの妻になることを受け入れたのだった。
「ルークをお姉さんのように教育してやってたティアなら、きっといい母親になれるな」
「男の子だったらルークと名付けよう。そして俺たちでルークのように……」
「いや、ルークのことは育て方を間違えてたから、今度は俺ももっと厳しくもしてやらないとな!」
「それにルークと違って、ちゃんと人を気遣えるように躾けてやらないと、ティアよりアニスを気遣うようなルークみたいになったら、将来好きになってくれる女の子を傷付けちまうからな」
ガイが語る未来は甘美で幸福で、きっとそうなるとティアは信じて疑わなかった。
自分は幸せな妻に、良い母親になるのだと。
そうなれるに足る人間なのだと。
しかし、結婚式を間近に控えたある日、中庭を散歩していたティアの耳に、突然歌声が聞こえてきた。
そして身体に痛みと痺れが走り、身体を支えてもいられなくなり、衝撃と激痛が走り──
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