◆情けは人の為ならず、無情もまた
例えば自分の家族が災難に合い、自分の力では助けられず、助けられる他人に助けて欲しいと頼もうとしている時に、もしもその相手の家族が災難に遭い、相手の力では助けられず、自分の力で助けられる状況になったなら。
情けは人の為ならず、無情もまた
マルクトに帰国したジェイドが持ち帰ったキムラスカ国王インゴベルト六世からの返書には、神託の盾騎士団による導師奪還のためのタルタロス襲撃の際に、艦内に投獄されていたインゴベルトの甥であり第三王位継承者でもあるファブレ公爵子息ルーク・フォン・ファブレが保護されバチカルに送り帰されたことと、ルークがマルクトに飛ばされた原因からタルタロスに投獄された経緯までが詳細に綴られていた。
そして、ピオニーがジェイドに託した親書に記した和平とアクゼリュス救援協力の拒否と、その理由も。
それを読み終わった後も、じっと返書を見つめながら沈痛な表情で黙り込むピオニーの前で、ジェイドは相変わらずの人を喰ったような笑みを浮かべ、沈痛さなど欠片も感じられない声音でキムラスカの対応を罵っていた。
「まったく、キムラスカの頑迷にも困ったものですねぇ。せめてアクゼリュスの救援くらいは受けてくれてもいいでしょうに。敵国とはいえ民のことにそこまで無情にならずとも──」
「…………なあ、ジェイド。お前がそれを言うのか、お前は何も気付いていないのか。キムラスカの拒否の一因が、お前の行動に、ルーク殿へのものにあったことに」
「ああ、あの馬鹿なお坊ちゃんがどうかしましたか?確かに和平に協力させられなかったのは失敗でしたが……それは協力を拒んだ彼の愚かさのせいでしょう。全く、どうせ傲慢で世間知らずなお坊ちゃんなど、しばらく牢に入れておけば根を上げて協力するようになると思ったのですがね。神託の盾騎士団の襲撃さえなければそうなっていたでしょうに、まあある意味では惜しいことをしましたよ」
「そうじゃない。そもそもの、ルーク殿を保護するのではなく、脅迫や投獄したことが原因のひとつだと言っているんだ」
そうピオニーがジェイドの責任転嫁を否定しても、ジェイドは堪えた様子はなかった。
というより、ルークに対する行動と、キムラスカの拒否の関連に未だに気付いていない様子だった。
どうして俺は、こんなにも人の気持ちにも自分の行動の結果にも無思慮な奴に、和平と一万もの民の命がかかっている大事を任せてしまったのか。
これがもっと別の、例えばアスランやグレンであれば、違った結果になっていただろうに。
ピオニーの内心には止めどなく後悔と自責の念とが湧き上がり、ジェイドを睨む眼には悔しさからか薄く水の膜が貼られて、映るジェイドの姿がぼやけはじめていた。
こんな風に、俺がジェイドを見る眼はぼやけて、ぶれて、曇ってしまって、正確に見ることができなくなっていたのかもしれない。
もっと早くそれに気づいていれば、ジェイドについて諫言していた、俺が見えていなかったジェイドを見えていた奴らの声に耳を傾けていれば。
ずっと以前から、ジェイドのマルクトの民への冷酷さは表れていた。
先帝の命令とはいえホド島で行われていたフォミクリーと超振動の実験では、住民への死や障害を残す危険のあるレプリカ情報採取や、子供まで実験体にした苛酷な実験もジェイドの指示で行われていたが、そうしたことに罪悪感を抱くこともなく、その超振動が使われた結果のホド島の崩落の更に後でも、ピオニーに叱責されるまでフォミクリーの研究を続けることに躊躇もなかった、ジェイドはそういう人間だった。
ジェイドはマルクトの民の犠牲を、たとえ自分の関与があったものでも罪悪感を持たないような人間だと、ずっとジェイドを見てきて、公式には隠蔽されている罪も被害も知る立場にあるピオニーには、見ようとすれば見えたはずなのに。
自分にとっては大事な幼馴染、友人だから。
ジェイドの妹、自分の想い人でもあるネフリーにはずれたものではあっても気遣うこともあったから。
暖かな陽だまりのようだった思い出と想いに囚われて、今の、目の前のジェイドを、また他人に対するジェイドを見ることをしなかった。
「例えばお前の家族が……ネフリーが災難に遭い、お前の力では助けられない状況になったとする。そしてネフリーを助けられる状況にいた相手がネフリーを助けず、その後でお前にこう頼んだとする。“私の家族が苦境にあり、私の力では助けられないが、あなたなら助けられる。費用も物資も人員もかかるし危険も伴うが、どうか力を貸してほしい。──お前は、どう思う? どうする?」
「聞くまでもないでしょう。ネフリーを助けた後ならばともかく、見捨てた後でそのようなことを言われても都合が良過ぎるというものです。それも費用も物資も人員もかかり、危険を伴うようなことを頼むのに、一方的にそちらを助けさせ、一方でこちらは助けないなどとは」
幼い頃から他人には冷酷な所はあったが、妹のネフリーにだけは僅かに気遣いを見せていたジェイドは即座にそう答え、不快な想定に眉を寄せる。
そしてピオニーは、その不快な想定によく似た現実と、それに気付かないジェイドの様子に眉を寄せ、吐き捨てるような口調で問い質した。
「ならばお前は、何故ルーク殿を助けなかった?」
「は? あのお坊ちゃんと今の話に何の関係が?」
「いいか。俺がお前に命じたのは、お前が俺の名代としてキムラスカ王に申し入れたのは、和平条約の締結と、アクゼリュスの救援への協力だ。大事なことだからもう一度言うぞ。アクゼリュス救援への協力をとりつけることも、お前に命じた任務、お前が遂行しなければならない役目のひとつだったんだ。アクゼリュスはマルクトの領土であり、アクゼリュスの住民はマルクトの民だが、マルクト側の街道が使えないために俺の力では助けられない。だから、キムラスカ側の街道の通行を、キムラスカからの救援への助力を頼もうとした。そしてその途中で、お前はキムラスカ王の甥であり、一人娘の婚約者で第三王位継承者──実質継嗣のルーク・フォン・フォン・ファブレ殿を見付けた。屋敷への襲撃によって突然にマルクトに飛ばされるという災難に遭い、キムラスカ王の力が及ばぬマルクトにいる彼を」
政治や戦争には、時に誰かを助けるために、あるいは作戦の成功のために、誰かを見捨てなければならないこともある。
しかしこの場合、ルークを助けることは和平とアクゼリュス救助の目的と矛盾しない、むしろその目的のためにおおいに役に立ち、巡り巡ってマルクトの民を救うことにも繋がる、そういう状況だった。
「この時にお前がルーク殿を丁重に保護して送り届けていたなら、アクゼリュス救援要請にはこういう前提がついていた。“マルクトは災難に遭ったキムラスカ人を、キムラスカ王族を助けた。どうかキムラスカも災難に遭っているマルクト人への助力を頼みたい”と。しかしお前がルーク殿を捕らえ、脅迫し、投獄したことによってアクゼリュス救援要請にはこういう前提がついた。“マルクトは災難に遭ったキムラスカ人を、キムラスカ王族を助けない。それどころか脅迫し、投獄する。だがキムラスカは災難にあっているマルクト人への助力を頼みたい”と。それも助けなかったキムラスカ人の伯父であるインゴベルト王への要請へだ」
マルクトは災難に遭っているキムラスカ人を助けないのに、キムラスカには災難に遭っているマルクト人を助けろ。
あまりにも、都合がよすぎる要求だった。
例え神託の盾の襲撃がなく、ルークが投獄を恐れて、あるいは投獄に耐えられず協力するようになったとしても、帰国して安全が確保された後に、自分が協力したのは投獄と脅迫によってやむなくだったとインゴベルトに伝えたら?
記憶喪失のせいか年齢よりも子供っぽかったというルーク自身にそこまでのつもりがなくとも、近い身内なのだから身近な人間に、インゴベルトの妹でもある母親のファブレ公爵夫人や父親のファブレ公爵、インゴベルトの娘でもある婚約者のナタリア王女に話したことはインゴベルトに伝わる可能性も高く、旅の間はともかく帰国すればジェイドの手の届かない所にあるキムラスカ王族のルークには、口外しないように監視や口止めをすることなどできない以上、ルークにとった態度は例え他にキムラスカ人のいない場所でのものであっても、インゴベルトやキムラスカの要人に伝わる可能性は、想像しなければならないことだった。
「マルクトは、皇帝名代の行動でもって、災難に遭ったキムラスカ人への扱いがどういうものかを証明した。──その後で、キムラスカが災難に遭ったマルクトへの助力を拒んだ所で、規模こそ違えど行動自体は、災難にあった敵国の者を助けないことを頑迷というなら、そのままマルクトに、お前に、そして俺に返ってくる」
皇帝名代の態度に問題があったとしても、アクゼリュスの民を見捨てるのはある意味では冷酷とも、頑迷とも言えるかもしれない。
しかしそれを、一因になった当のジェイドが、まるで自分には関係ないかのような顔で非難するというのか。
自分もまた、アクゼリュスの民を本気で助ける気がなかったかのような振る舞いをしていたというのに。
ましてマルクトを信じられない状態でマルクトの要請を受け入れ、マルクトの部隊を国内に入れることは、場合によってはキムラスカの民の危険にも関わる。
同じ民でも、敵国の民と最優先すべき自国の民の安全を秤にかけて、自国の民の方を選んだとも言える状況で、単純に敵国とはいえ民を見捨てたから無情だ、と言えるものでもなかった。
「しかし、我がマルクトの国内に入り込んだ以上、厳しい対応もやむを得ないでしょう」
「……お前は自分がなんのためにキムラスカに行く所だったのか、先程説明したばかりなのにもう忘れたのか。“キムラスカ側の街道を使わせてほしい”と頼むということは、マルクトからの救援部隊をキムラスカの国内に入れて欲しいということでもあるんだぞ。救援部隊とはいえ、一万人もの住民の救助にあてる部隊となれば規模もそれなりになり、キムラスカから見ればそれが本当に救助部隊なのか、と疑わしくもあるだろう。そして災害規模と住民の多さを考えれば、キムラスカからの様々な助力も必要になっただろう。それでもマルクトからの救援部隊を、マルクト人を信じてキムラスカに入れて欲しい、助けてほしいと頼みに行ったんだ。──マルクトに入り込んだキムラスカの王族には、厳しい対応を、投獄までするというのに、な」
「…………それは」
費用も物資も人員もかかり、危険を伴うようなことを頼むのに、一方的にそちらを助け、一方でこちらは助けない。
あまりにも、都合がよすぎる要求だった。
「そもそも入り込んだといっても、意図的な不法入国をしたのならば別だが、ルーク殿の転移の原因は超振動による事故──というよりは屋敷を襲撃した神託の騎士団兵の、犯罪の巻き添えによるものだ。いわばルーク殿は被害者であり、不法入国はルーク殿の意志によるものではなかった。そういう意味でも、本来保護すべき立場にあったんだ。……そして、我がマルクトの民もまた、同じ立場になることはこれまでにもあり、これからも起きるだろう。今回の『被害者』への対応は、後々まで我が国、我が民に返ってくるかもしれんのだぞ」
「…………」
マルクトはキムラスカ人を災難に遭って国内に来た被害者であっても投獄するのに、キムラスカにはマルクト人を災難に遭った被害者へ送るためのものでも国内を通せ。
あまりにも、都合がよすぎる要求だった。
キムラスカがマルクトを信じられないからと拒絶しても、先にマルクトがキムラスカに疑念を抱かれることをした、その後に起きたことだ。
例えルークが投獄されて根を上げて、あるいは投獄を恐れて一時的に脅迫に屈したとしても、キムラスカに帰り、詳しい経緯や協力の理由をルークが話しインゴベルトに伝われば、キムラスカの反応は同じだっただろう。
黙ってしまったジェイドの顔には、それでも罪悪感や自責の念があるようには見えなかった。
失敗したことは自覚しても、自分のプライドを害して、叱られるのが不快なだけで、罪悪感や自責の念には、自分の失敗によって被害を受ける人々のことまでには思い至らない。
自分の行動が他人からどう思われるのか想像しない。
性格上、そうしたことが苦手なのを差し引いても、他人の気持ちなどどうでもいいから考えてもいない。
反感や恨みを受けることにも無関心で、傷付けた者やその家族の痛みなど頓着しない。
今まで散々、子供の頃からジェイドの性格の問題を見ていながら、目を曇らせて気付かず、あるいは気付いても甘く見て流してきたのは、ピオニーだった。
その上に、そんな性格のジェイドを和平と救援のための名代に任じたのも、ピオニーだった。
ジェイドを名代に任じたのは、流石に幼馴染の贔屓だけではなく理由もあった。
妨害があっても撃退できるだけの戦闘力がある、医療の知識があるからアクゼリュスへの救援にも携われる。
何より面従腹背した獅子身中の虫に囲まれた中で、裏切りや内通の心配がない。
それでも、それを踏まえてさえ、ジェイドを名代に任じたのは間違いだったと、今のピオニーは悔いるしかなかった。
せめて名代ではなく護衛であったなら、ジェイドが投獄を進言しても容れずにルークの保護を命じることのできる人間を名代に任じていたのなら。
「いや……それでも、甘かったのは、この俺もか……」
ジェイドに説明しながら、同時にピオニーは自分自身の一方的さにも打ちのめされる。
失敗してその原因を見つめて説明してはじめて、自分の要求の難しさとその保証のない不安にピオニーは気付いた。
導師イオンを仲介にするつもりだったとはいえ、その導師はキムラスカに着いてようやく、神託の盾兵によるファブレ公爵家襲撃と、それによってキムラスカのダアトへの不信が高まっていることを知らされ、とても和平の仲介などできる状態ではなかったという。
それは流石にピオニーにも予想外の事態ではあったが、全くの無策ではなく中立地帯の自治区ケセドニアの協力を得て話を通り易くもするつもりだったが、マルクトからの信義の保証もないのでは、マルクトの要求の過大さには変わりがなかった。
考えてみれば、これほどのことを要求するからには、マルクトからもただこちらを信じてくれ、ではなく、信義の保証、例えばマルクト皇族を救援が済むまで、キムラスカに留め置くなどが必要だった。
古くから国同士の条約などのに王族が保証として、ある意味の人質として相手国に留め置かれることは行われており、ピオニーは妻も子もなく、腹違いの兄や姉は政争や戦争で全滅しているが、それでも親戚くらいはいるし、その中の誰かを、遠すぎるなら事前にピオニーの養子にでもして送ることもできただろう。
それなのにピオニーは、そうした保証になるものを何も用意せず、敵国へ危険と負担を伴う一方的な要求をした。
両国とも戦争による犠牲はもちろん、長年の戦争によって肥大化した軍と、それを維持するための人員や物資や費用が問題になっているのだから和平そのものに利点はありそれを重視して和平を望む貴族や議員は少なくないとはいえ、それもマルクト皇帝と和平の意志を疑われ、自国に犠牲が出て再びの開戦になる懸念があるのでは、和平を望むものであっても今回のピオニーの要請は受け入れ難いものになっていた。
自分以上に一方的で都合の良すぎる要求をしたジェイドを見ていて、自分のそれに気づいても、今更だった。
そしてもうひとつ、ピオニーが懸念していることがあった。
キムラスカ人が正規の方法でなく国境を超えてマルクトにくる、という事件はこれが初めてではない。
マルクトとキムラスカは、自治区のダアトとケセドニアを除いてオールドラントを二分している隣国であり、何らかの理由で本人の意思と無関係に国境を越えてしまう、という事態は度々起きている。
超振動による転移も珍しくはあるが初めてではないし、漂流などで意図せず国境を越えてしまうこともあり、犯罪者には密入国や密輸をする者もいるため、誘拐などの犯罪の被害者が隣国で発見されることもあった。
今までならば、敵国人とはいえ本人の意思ではない国境越えは処罰されなかった。
しかしマルクトがキムラスカ人を“マルクトは災難に遭った被害者のキムラスカ人を助けない。それどころか脅迫し、投獄する”と、皇帝名代が行動によって表してしまった以上、キムラスカの対応が変化する可能性もあった。
そうなれば、マルクトの民は原因になったジェイドを、そのジェイドを名代に任じてキムラスカへ送ったピオニーを、どう見るのだろうか?
そして救援が行えず、あるいは行えたとしてももはや大幅な遅延による犠牲を避けられないだろうアクゼリュスの民は。
「すまん……マルクトの民よ……」
自分を賢帝と呼んで称えてくれた民は、遠からず反対の悪名で自分を呼ぶのかもしれない。
自分はその名に相応しい皇帝にはなれなかった。
戦争に疲弊し平和を望む民の願いに応える皇帝になろうと思っていた、できる自信を持っていたし、そのために努力もしていたつもりだった。
しかし親しいものへの情に溺れて、判断力も人物鑑定眼も曇らせて何重にも不向きな任務を命じ、かつての自国の民に出した犠牲も態度も軽んじて、甘い見通しで大事を進めた愚かさの結果が、民の犠牲だった。
何時も飄々とした幼馴染の主君が、見たこともないほど打ちひしがれているのを、ジェイドはやや戸惑ったように見つめていた。
自分の無思慮が、他人への横暴が、自国の民への冷酷が、巡り巡って自分の数少ない大事な人間を苦しめていることを理解できないままに。
その顔に浮かぶのは何時もの人を食ったような笑みではなく、どこか幼く無知な子供の戸惑いにも似た様で、先ほど彼が馬鹿にした青年以上に、年齢にも立場にもひどく不似合いなものだった。
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