白膠木簓という男は昔から心の壁を壊すのが上手い男であった。
高校時代の彼はその剽軽な性格からクラスの人気者で、教室の隅で本ばかり読んでいた友達の少ない私とは何の接点もなかった。

「うわぁ、自分難しい本読むなぁ!」
 
突然机の反対側から話しかけられたあの日までは。軽快に紡がれた言葉が自分の手の中の本についての感想だと理解するまでに数秒の時間を要した。

「ん? 読んでへんの?」
「えっ、いや、違う、読んでるよ・・・・・・」

 囁くような声しか出なかった。ざわつくクラスの中では聞こえたかどうかすら怪しかっただろう。しかし彼はぱっと顔を上げると、元々細い目をきゅうっと細めて、目がなくなるんじゃないかと思うほどの笑顔を見せた。

「そうなん! 夢子ってむずいことよう知っとんねんなぁ!」

 俺なあ、白膠木簓って言うねん。擬音みたいでおもろい名前やろ?
 そう言ったあと、彼は「って、クラスメイトやねんから知っとるよなあ」とどこか恥ずかしそうに言った。その様子が2つ下の弟が何かを誤魔化すときにする動きによく似ていたものだから、私はすっかり気が抜けたのをよく覚えている。
なんだ、白膠木くんって雲の上の存在だと思ってたけど、私とそんな変わらないんじゃん。
 そう思ったら自然と笑ってしまった。自分は何に緊張していたんだろうと、同い年の彼らをまるで異星人のように扱っていた自分が滑稽だった。
 笑うなよ、と慌てたように言う白膠木簓は私が笑いやまないことを悟ると方向転換をしたのだろう、次々とだじゃれを言い始めた。それは絶妙に的外れな、どこかピンボケしたようなギャグだったけれど、一度笑い始めた私のツボは随分と浅いところに来てしまっていたらしくなかなか笑いが止まらずに困った。

「夢子ってめっちゃ笑うなあ。そういうタイプやないと思ってたわ」
「ほんまに? 私、実はめっちゃゲラやねん」

 そう言って笑ったら白膠木簓は本当に嬉しそうに笑った。

「いっぱい笑えんのってええことやで。なんせそういうやつ、めっちゃ俺の友達向いてるから」

 そんな、ともすればキザともとれる発言とともに。



――まもなく、新大阪。新大阪。



ふっと意識が浮上した。どうやら微睡んでいたようで、首に巻いていたストールがするりとほどけて膝の上に落ちている。淡い緑のストールはちょっとした願掛けのようなものだ。
キャリーバッグを引いて停止した新幹線から降りる。ざわざわと賑わうホームから空はあまり見えない。しかし随分とまぶしいのでよく晴れているのだろう。春先の気候としては上々と言えた。
私、夢子は大学進学をきっかけに上京し、そのまま都内で就職してもう3年目になろうとしている。地元である大阪を遠く離れて1人で暮らす日々はなかなかに孤独感を感じるものだったが、やはり人間6年もすればそれなりに慣れるらしい。今となっては年に2回、盆と正月に帰ればいいかと割り切れるようになってしまった。
そんな私が何故、盆でも正月でもないこの3月末に大阪にいるのか。それは先日たまたま一件のラインが来たからだった。

『これ、夢子のラインやんな?』

 ただそれだけの短いライン。差出人を確認して衝撃のあまり息が止まりそうになったのをよく覚えている。
 S.Nurude。ササラヌルデ。白膠木簓。
 高校時代の友人だった。本の虫で人と関わることが苦手だった私を日の当たるところに引っ張り出してくれた友人。3年間苦楽を共にした、私の最初の友人。大学進学を機にだんだん疎遠になり、テレビでコメディアンとして活動する姿を見ても気まずくて連絡することができなかった友人の。

『サラちゃん?』

 返事をしてからあまりにも間抜けすぎたか、と青ざめる。すでに高校を卒業してから7年も経っていた。その間クラス内の交流で姿を見かけることはあれどこうして個人で連絡を取ることなどなかったのに、そのことを忘れて高校時代のままの呼び名を呼び名を呼んでしまうとは。
 慌てて送信の取り消しをしようと思ったとき、非常にも既読のチェックがつく。目に触れてしまった。カッと頬に血が上るのが分かる。
 どうしよう、と狼狽える私の目に飛び込んできたのは通話を知らせる画面だった。
 慌てる。手の中でスマホが跳ねる。反射的に見慣れた青のボタンを押す。やってしまった、と思ったときにはもう遅い。どうしてこうも不注意が過ぎるのかと悲しくすらなる。
 しかしつながったものを放置しておく訳にもいかない。私は意を決してスマホを顔の側面に当て、控えめに「もしもし」と呟いた。

――サラちゃんやでぇ、元気しとるな夢子!

 耳に届く、溌剌とした音たち。私は思わず息を呑み、返事はおろか相づちを打つことすらできない。しかし電話口の男は気づかないのか、そのまま話し続けている。

――あんなあ夢子、3月の末とかって暇か? 仕事休める?
「3月末? ええ、有給はまだあるから・・・・・・」
−−ほんならさ、大阪来てや。なんや卒業アルバム見てたらめっちゃ遊びたなってなあ。どうや?

 了承の返事をしたら、電話はあっけなく切れた。ハッ、と無意識のうちに詰めていた息を吐き出す。卒業アルバムを見て遊びたくなったから遊ぼうや。なんとも彼らしい――サラちゃんらしい物言いだった。そのときの喜びがどれほどのものだったか!
私はそのとき初めて自分の中にあった感情に気がついた。7年間もの長きにわたって、私は気づかないままこの男に恋をしていたらしい。了承してから自覚するというのも、なんとも人とずれている私らしくて複雑な気持ちである。

「何着て行こう・・・・・・あんまり気合い入ったのも気持ち悪いよね・・・・・・」

 ぼんやりと独りごちていたのがもう数ヶ月前の話。すっかり雪が溶けて春めいてきた3月の末、私はこうして大阪に帰ってきたのだった。
 別段長居をするつもりはない。せいぜいが2泊程度の短い旅行だ。その初日にサラちゃんと遊ぶと約束をしていた。
 ホームから長い階段を降りれば、他の沿線に繋がる大スペースは人でごった返していた。その中、JR線の乗り場を目指してキャリーバッグを引く。ごろごろがらがらと楽しげな音を立てながら改札を出ようとしたとき、私はまた息が止まるような感覚がしていた。
 そこに立っていた。
 高校の頃よりも垢抜けたように見える。けれどあの細められた人の良さそうな目や美しい浅黄色の髪は変わらず、一目見ただけで彼だと分かった。
 サラちゃん、改札を出てもいないのに口の中で彼を呼ぶ。人でごった返す改札近くでは聞こえるはずのない、自分自身でさえ聞こえていないような小声だった。

「夢子!」

 サラちゃんが私を見て、また目が見えなくなるくらいにきゅうっと笑って私を呼んだ。聞こえるはずがない声だったのに、まるで聞こえているみたいに反応をしてくれた。たまたま、客の数が増えたからそろそろつくと予想して顔を上げただけかもしれなかったけど、やはりどことなく胸が高鳴っていい気持ちだ。

「久しぶり、サラちゃん」
「ほんまに久しぶりやんな〜! 夢子、美人になったやんかあ」
「ふふ、サラちゃんはお世辞が上手くなったね」

 そんなかわいくない言葉を返しながらもやはり胸の音がうるさい。耳元で爆音のドラムを聞かされているような錯覚すら覚える。我ながら非常に単純でわかりやすい。
 サラちゃんはごく自然な動きで私の手からキャリーバッグを抜き取ると、「ロッカー探そか」と告げた。異論はない。キャリーバッグを持ちながら移動するのは面倒だし、がらごろ音がご機嫌なのはここが旅の地だからだ。人混みに入ればこのキャリーが不機嫌にきしみ出すことを私はよく知っていた。
 サラちゃんは慣れた手つきでコインロッカーに私の荷物を預けると、ほないこかぁ、と間の抜けたような声で言った。

「目的地はあるの?」

 私の問いかけにサラちゃんは口角をにゅうっと持ち上げる。

「あほぅ、遊びにおいでて誘った方がノープランな訳あるかいな」
「ふうん、そういうもの?」
「そういうもんや。夢子かて彼氏と出かけるとき、向こうがプラン組んでへんかったらちょっとがっかりするやろ?」

 あまりにもサラちゃんが何でもないことを言うように言うものだから、ああきっと彼は今もモテているんだろうなあと自嘲気味に笑ってしまった。彼女とデートするとき、彼はどんなにか素敵なプランを立てているに違いない。万年彼氏のいない私にはどう返事をしていいのかが分からなかったので、曖昧に微笑むにとどめたけれど。

「ま、今日は俺が大阪のええとこ案内したるから安心しといてや」

 サラちゃんはそう言うとはい、と右手を差し出してきた。何のつもりだろうか。お金でも要求されるのか? しかしこの動作はどこかで・・・・・・。
 あ、と思い至った私はそのまま彼の差し出された右手の上に握りこぶしをのせる。手のひらと手のひらが触れるこの置き方。

「そうそう、夢子お手〜・・・・・・ってちゃうやろ! この流れは絶対ちゃう行動を予想するやろ!?」
「あ、ああ、じゃあ・・・・・・」
「そうそう、やっぱり東京おみやは東京ばな奈に限る〜・・・・・・ってそれもちゃう! でも俺これ好きやありがとう!」
「突っ込みものすごいけど大丈夫?」
「夢子が怒濤のボケ見せてくると高校時代思い出して思わず突っ込んでまうわ!」

 そっちの突っ込みのほうがよほど怒濤じゃない、と思うけれど、よく考えたらサラちゃんは本職の漫才師だった。確かに本職ならボケと見るやいなや反応してしまっても当然かもしれない。
 そんなことをのんびり考えていたらサラちゃんは「ちゃうやろぉ〜、もぉ〜」と甘えたような声で言いながら私の手をきゅう、と握った。
 思考が一瞬で停止する。何をしているんだ、この男は? と思うより早くサラちゃんはへらりと笑った。

「夢子、はぐれたら困るから手ェつないどこ」

 そう言うが早いかサラちゃんはぐいぐいと私を引っ張って歩いて行く。頭が追いついていない私はされるがままについて行くが、ふ、と顔を上げて。

(あ・・・)

 ほんのり赤くなったサラちゃんの耳に、心の奥底のうぬぼれがちょろりと顔を出す。いやそんなまさか、と思うけどつられて赤くなってしまうのはもうどうしようもないだろう。

「さすが、気ぃきくのってええことやで。なんせそういうやつ、めっちゃ私の仲良しに向いてるから」

 いつかの言葉をほんの少し変化球で放る。この変化球がどうなるかは多分、そのうち判明するだろう。そんなに焦ることではない。7年離れていてもこんなに自然に言葉が出るんだから。

「なっ、仲良し! せ、せやな、仲良しやな!」

 前言撤回。
 こんなにもわかりやすいリアクションなのだったら、そのうちどころか今日中に判明してしまうかもしれない。
 こみ上げてくる笑いをなんとかこらえながら、私はサラちゃんの握る手に力をこめた。