さくり、さくり。
無音の空間に、少女のブーツが雪を踏みしめる音だけが響いている。
「だんまりか。悲しいな」
ガルディの言葉にオリヴィアは何も返さない。ただ静かに雪の積もった広い場所を歩いてくる。後ろで巨大なブラックワイバーンが唸ったが、それに対してのみ「待て」と低い声で言い放ったのみである。
さくり、さくり。
日が暮れたとはいえ、月が覗くたび雪原に光が反射してあたりを照らしているので極端な暗さは感じない。ひたすらに白い世界の中で少女の纏う黒のポンチョと、ポンチョから零れる鮮やかな橙が目を引いた。
「・・・・・・ガルディ」
昔とは違った声色で、昔と同じように自らの名前が呼ばれる。
かつては親愛を。現在は断罪を。
異なる思いを込められた声に、みぞおちの奥がまた鈍く傷んだ。
「師匠に対して随分な物言いだな」
「そういうの、いらないわ。あの子はどこ?」
胸の痛みを誤魔化すように、普段は出さないような軽い声で揶揄う。それに対してオリヴィアは眉根を寄せることもなく淡々と返事をした。あたりの空気が暖かく思えそうなほど冷え切ったその声に情は一切感じられない。
つらい、くるしい、かなしい。たのしい、うれしい、ほこらしい。
そんな相反する思いが同時にこみ上げてくる。自分が生きてきた中で最も多くを教え、最も多くの感情を注いだオリヴィアにこのようなことをさせてしまうことが嫌で仕方ないのに、戦うものとして、主君を守る騎士として毅然とした態度で自らの前に立つオリヴィアを見ることが喜ばしくて仕方がない。
「・・・・・・いい女になったな、オリヴィア」
二年前のあの日と同じ言葉を彼女に贈る。ルーシェリアの元に潜入したあの日から、いつかこんな日が来るだろうとわかっていた。けれど、どうせ訪れるなら自分の終わりは自分で選びたいと思ってしまった。
本当にオリヴィアはいい女になった。お前はそれでいいのだ。守りたいものを自分の意思で守り、悪を挫き正しきを救い、瞳の中の星を煌めかせ続けていてくれればそれでいい。
そう、お前は。
§6 騎士、吼ゆる
ピィン、と何かが張るような音がした。ガルディの方へ歩み続けていたオリヴィアはその音を合図にするように足を止める。その距離、およそ五メートル。あともう少し近寄ればガルディの得意とする間合いに突入してしまう。
「なんのつもり」
極力感情を抑えてオリヴィアは問う。
「それは、どっちに対しての問いだ?」
ガルディの声にもすでに感情はない。オリヴィアのよく知った、読めない表情と声色をしている。
“どっちに対しての問いか”と問うた段階で、彼がこちらの意図をきちんと汲めていることは確認できた。それはガルディがこの件に確実に絡んでいるという証明にもなってしまったのだけれど。
「どちらもよ」
わかっているんでしょう、何を聞きたいのか。責めるような目を向ければガルディは長く長く息を吐いた。
「王女殿下の誘拐に関しては、俺は雇われもんだ。やれと言われたからやった。エド・・・・・・国王陛下に声をかけられる前に受けた依頼だったからな、オフスダールは運がなかった」
「・・・・・・」
「連れ去ったのはあの場で王女殿下を抱えたままお前と戦うよりも、場所を変えた方が確実に任務を遂行できると思ったからだ。アウェー戦よりもホーム戦の方が戦いやすい、ただそれだけの話さ」
「・・・・・・じゃあ、どうして」
オリヴィアは自分の声が情けなく震えるのを感じた。いけない、と思うのにそれよりも早く次の言葉がまろびでる。
「どうして、腕を落とさなかったの。どうして殺さなかったのよ! あんな、治療ができるギリギリのラインで攻撃ができたなら、あんたなら、あの場で殺すことだってできたでしょう!」
感情のままに放たれた言葉にガルディはわずか、目を見開く。目の前にいるのは姫君の護衛を一手に引き受けていた騎士であり、自分の唯一の弟子であるが、それ以前にたった十六歳の少女だった。彼女の瞳に閉じ込められていた星が、揺れている。
ガルディが口を開くよりも早くオリヴィアは乱暴に自分の目元を拭い、再びガルディに向き直った。
「なめられたものだわ」
「なめてなどいない。気まぐれだ」
「あたしがあんたの間合いに入るよりも早く警戒音を出しておいて、何がなめてない、よ。あんたの間合いをあたしが覚えていないとでも?」
優れた剣技の使い手であれば、鞘から剣を抜く際に発する音が違うのだ。ピィンと、張り詰めた弓に風が触れたときのような鋭い音を鳴らすことができるのはそれだけで使い手の技量がすさまじく優れていることを表している。
ガルディはほんの少しだけ目を伏せると「言いがかりだな」と嘲笑した。そしてゆったりとした動作で腰にかけられた剣の柄を握る。
ピィィィン――・・・・・・
長く長く、震え泣くような音を立ててガルディの剣が鞘から引き抜かれた。国によってはバスタードソードと称されるそれは、重い一撃を得意とするガルディの相棒だった。
「オリヴィア、俺は教えたはずだぞ」
「・・・・・・」
「戦う前に無駄口を叩くな、いつも待ってくれる相手だとは限らないのだから。お前が俺に何を期待しているのか知らんが、殺されに来たならそのままじっとしてろ」
「・・・・・・そう。わかったわ」
オリヴィアは一度口を引き結ぶと、自らの腰に下げた剣の柄に手をかける。ガルディのものと比較すると明らかに小ぶりで薄いそれはロングソードと呼ばれる技量がものをいう剣だった。単純な力は男よりも劣るオリヴィアだが、この剣のように速度と技量が求められる戦いには特化していた。これを勧めたのも、かつてのガルディであった。
「王女殿下の居場所が知りたきゃ、俺を殺してでも進んでみろよ」
「ふん、老いぼれた犬っころはその辺で転がってんのがお似合いだわ」
向き合った両者が剣を抜いた。雪原の上、雲間を抜けた月が顔を出す。
ゥオオォーーーーン・・・・・・
どこか遠くから響いてきた犬の遠吠えが、開戦の合図となった。
先に踏み込んだのはオリヴィアだった。
飢えた狼のような俊敏さで一気に間合いを詰めてガルディに迫る。左足の負傷を微塵も感じさせない素早さに、しかしガルディは反応した。
無音の中に火花が爆ぜる。
攻防の一瞬のうちにバックステップを踏んだオリヴィアは前方から姿勢を低くして近づいてくるガルディを視認するが早いか、逆手に持ち替えた片手剣を薙ぐように振るった。丁度首の高さに合わされたそれは横向きのギロチンのように振るわれたものの、急減速の後に横に逸れたガルディに当たることはない。一拍の呼吸の後にガルディは体勢を高くすると両刃の剣を振り落とす。一度切りつけた右腕の付け根目がけて振り下ろされた刃に、オリヴィアは自身の剣をぶつけた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
火花が散った後、一つだった塊が再び距離をとる。双方、言葉を発することはない。それだけで相手には自分の戦意が伝わると知っていた。
互いに傷は一つもなく、息の上がりもない。ただ静かな空間で二つになった影がもう一度近づき、甲高い音とともに剣をぶつけ合った。
「・・・・・・ハッ」
ガルディは短く息を吐き、剣を叩きつけた勢いを殺さずに蹴りをたたき込む。一瞬目を見開いたオリヴィアはその動きに順応しようとしたが、わずかに間に合わなかった。
ぱたたっと軽い音を立てて白い雪の上に赤が散る。蹴りを避けようとした瞬間にもう一段切り込まれたガルディの切っ先が彼女の頬に傷をつけたのだ。うっすらと頬に走った切り傷から滴る血を無感動のまま拭い、オリヴィアは右手首をくるりと回して前面で剣を構え直した。
そのまま数度打ち合う。火花の代わりにキンッキンッと金属同士が触れる硬質な音が爆ぜていく。その音はやがて聞こえなくなり、代わりにぽたりぽたりと水滴が垂れるような音に変わっていく。徐々に互いの切り傷が増え、そこからわずかばかりの血が流れているのだ。それでも致命傷にならず双方が動き続けているのは、両方の技量が優れているからに他ならない。時折オリヴィアは不快そうに眉をしかめたが、おそらくガルディが先日与えた腕の傷が痛むのだろう。じわりと白いシャツから血がにじみつつあった。
ガルディは対面したまま彼女の瞳を見つめる。傷が増えてきたものの、星の瞳に先刻まであった揺らぎはない。静かに凪いだその瞳にどこか既視感のようなものを覚えたが、それが何に対してのものなのかはガルディには分からなかった。しかし、確かにどこかで。それも、直近の、どこかで――。
(あ)
気づいたときには目の前にオリヴィアの流れるような長い髪から白銀の切っ先が覗いていた。慌てて後ずさるガルディを、しかしオリヴィアは許さない。彼の脇腹にブーツの先がめり込み、腹の中で何かが鈍い音を立てる。
「・・・・・・目の前に相手がいるのに考え事するなんて、余裕じゃない、ガルディ」
飛びずさり、獣のように四つ足の体勢になって腹部に触れる。鈍い痛みの奥、ずくずくと疼く痛みが押し寄せてくる。どうやら腹の骨が一部折れているらしい。吐血をしていないので内臓に刺さっているわけではないようだが、それでも長期戦になればいずれガタが来るだろう。
ガルディは目の前の少女を見る。先ほど自分が行った攻撃方法を瞬時に真似て、その上で的確にダメージを与えてきた。手負いとはいえほぼ完治に近く、なおかつ切っ先がかすっただけのオリヴィアと骨折させられたガルディでは、どちらが優位かなど考えるまでもない。
ああ、強い。頭の中だけで独りごちる。
――おししょーさま、あたし、つよくなれる?
不意に頭の中に過去の映像がフラッシュバックした。幼いオリヴィアは木製の剣を持ち、ガルディと手をつなぎながら歩いている。
――オリヴィアは強くなりたいのか?
――うん!
瞳の中の星をキラキラと輝かせてオリヴィアは笑っていた。
――あたしねえ、つよくなってねえ! みんなのことまもってあげるねえ!
――みんな?
――みんな! おししょーさまも、あたしがつよくなったらまもってあげるねえ!
ぶは、と噴き出したガルディを不思議そうに見つめるオリヴィアに、あのときなんと言葉を返したのだったか。
そうだ、かつて自分は彼女にこう言ったのだ。
――お前が守りたいもののために頑張れる正義の味方なら、きっと強くなれるさ。だからオリヴィア、お前は正しくあれよ。
どの口が言っているのだ、とんだお笑いぐさだ・・・・・・と思う反面で、その教えを体現した目の前の弟子が誇らしくもある。そうだ、それでいいのだ。お前が負けるはずはないのだ。
「余裕だと思っていたさ、今の今までな」
口調にわずかな喜色が乗る。ぴくりと片眉をつり上げたオリヴィアは警戒したように数歩距離をとった。
「今の状態を分かってるの? あんた、骨折られてるのよ。見た感じ魔石を持っているわけでもない。これ以上続けたってあんたが手負いのあたしに勝てる可能性の方が低いんだから」
「ああ、分かっている」
「じゃあ、どうして・・・・・・」
何がそんなに嬉しいのよ。
オリヴィアは目の前の手負いの男を見る。絶対に超えられないと思っていた自らの剣の師、恋人をさらった不届き者。このまま戦い続ければオリヴィアはほぼ間違いなくガルディを殺すことができるだろう。ルーシェリアの護衛騎士として役目を果たすことができるだろう。
しかし目の前の男は僅かに微笑んでいた。二年前のあの日、オリヴィアの頭を撫でたのと寸分違わぬ表情で、けれど殺気だけは隠すことなくそこに立っている。
「嬉しそうに見えるか」
ガルディはぽつりと呟いた。そしてオリヴィアの返事を待つことなく「そうか、俺は今嬉しいのか」と言葉をこぼす。それからふっと無表情に戻ると正面に剣を構え直した。
「感謝しよう、オフスダール王国近衛兵長、デイム・オリヴィア。俺はお前のおかげで、強さのなんたるかを知ることができそうだ」
「は・・・・・・?」
「そうだ、俺は嬉しい。俺は今たまらなく嬉しいんだ」
ガルディは呆然とした表情のオリヴィアに剣を構え直すように声をかけた後、言葉を続けた。
「剣を構えよ。小細工は終いだ、手負いの獣が二匹、相手を殺しきるまで戦おうじゃないか」
「・・・・・・」
「オリヴィア、俺はいつかこんな日が来ると思っていた。この仕事を受けて、初めてお前とオフスダールで同僚になったあの日から。俺の仕事を阻むとしたら、それはお前以外にはないだろうと思っていたし、お前以外では嫌だとずっと思っていた」
生き方は選ぶことができなかった。傭兵としてある以上、雇い主にすべてを捧げてその命を遂行することだけを許されてきた。
だからオリヴィア。どうか、俺の幕はお前が引いてくれ。
「さあ、やるか」
ガルディはそれだけ言うと、オリヴィアの元へ一直線に加速していく。全盛期の彼を知るものなら誰もが嘆いてしまうような速度のそれは、腹の骨を砕かれたガルディの出せる最高速だった。策も何もない、愚直なまでの突進。オフスダール王国で最も強いとされるオリヴィアでなくても見切れてしまいそうなその突進を、しかしオリヴィアは躱そうとしなかった。
(あ、目が合ったな)
ガルディは突き進む最中にそう感じた。勘違いでも何でもなく、向かってくるガルディの視線をオリヴィアは一身に受け止めていた。あの凪いだような瞳――ルーシェリア・オフスダールとよく似た静かな瞳でガルディを見つめている。よく似た主従だと思ったところで、はたと気づいた。
(ああ、そうか、オリヴィア、お前・・・・・・)
オリヴィアと再会してからあった違和感の答えが見えた。血縁でもないのに実の親のエドワード王よりもよく似た眼差しをした、姫と騎士。“あの子”と姫を呼んだオリヴィアの声色。傷も癒えきらぬまま単身で乗り込んできたオリヴィア。きっとお前と姫は、友人か、それより親しい間柄なのだろう。
お前は、守りたいもののために正義の味方になることを選んだのだな。
ガルディは剣を力任せに振り下ろす。オリヴィアがそれを視認するが早いか、片手剣を両手に持ち替えて迎撃の態勢をとった。
ならば俺を超えてみろ。俺の唯一の弟子。
正義は、友情は、愛は、いつだって悪を滅ぼすのだと、その強さを持って俺に示してくれ。
「オオオォォォォォォォォ!!!!」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
音は鳴らなかった。
火花も散らなかった。
ただ荒い息と、僅かな水音だけがあった。
「はは・・・・・・そりゃ、そうだなあ」
ずる、とガルディの体から力が抜ける。彼の背中からは細身の刀身が赤に塗れて突き出ていた。ごぼ、という音とともに口からも赤がこぼれ落ちる。すとん、という軽い音を立てて折れて宙を舞っていた刀身が数メートル先に突き刺さった。
目の前の少女は何も言わない。倒れ込んできたガルディの体から剣を引き抜くと、その勢いで再び傷口から血液が飛び散った。ぐ、と小さくうめいたガルディの体はそのまま後ろ向きに倒れ込む。
ぼやける視界の中で、月明かりに照らされたオリヴィアの姿だけが浮かび上がっていた。青白い光を帯びたようなオリヴィアは、ガルディの知る幼い少女からは連想もできないほど強く、そして美しかった。
「オリヴィア・・・・・・」
自身を見下ろす花の顔に表情はない。それでいいと思う。
オリヴィアは勝ったのだ。自らの剣の師を倒すことはその師弟関係の終わりを指す。長い師弟関係の幕引きとしては上々だった。散々打ち合って、自身の戦法をものにされて、武器の相性さえ覆されて、負けた。傭兵として任務を達成できず敗北したことに悔しさがないわけではないが、やはり一人前の騎士として成長した彼女の姿が見られた喜びの方が大きいのだから老いたものだと思う。
「王女殿下はな・・・・・・ここから西に二百メートルほど進んだ先の・・・・・・石塔の地下に、いる・・・・・・もしかしたら、脱出して、いるかもな・・・・・・」
「・・・・・・そう」
「あの王女殿下も・・・・・・お前に似て・・・・・・まっすぐな目をしていた・・・・・・怒るだろう、なあ・・・・・・」
ぼけるだけだった視界が徐々に暗くなっていく。人の死に様を見てきたガルディははっきりと自身の死を悟っていた。目が見えなくなり、体が動かなくなり、そして耳も聞こえなくなってすべてが終わるのだろう。
「強くなったなあ、オリヴィア・・・・・・」
傭兵としてルーシェリアの殺害を請け負ったことが間違っていたとは思わない。それを実行したいと願い、ガルディを雇った人間がいたのだから最善を尽くすべきだったのだ。
それでも、ほんの少しだったとしても、オリヴィアを殺したくないと思ってしまった。
全力で戦って、その結果負けたとしたら、師匠としても彼女の敵としても文句なく終わることができると思ってしまったのだ。気持ちの面で最初から負けていたのだ。
瞼が重くなっていく。世界が暗くなっていく。暗がりに沈む輪郭の中で彼女の瞳だけがキラキラと美しく輝いている。最後に見る景色がこんなにも美しいだなんて、裏切りを続けてきた自分にはもったいない終わりだ。そこまで考えてガルディの意識は闇に沈み――
「なに――勝手に終わろうとしてるのよ、お師匠様!」
微睡みの中から意識が引き戻される。鋭い痛みが腹部に走り、ガルディは一度閉じた瞳を見開いて呻いた。
「勝手に死ぬなんて許さないわよ! なにいい話した、みたいな顔してるの! ぶっ飛ばすわよ!」
オリヴィアが獣のように吼える。平時の彼女からは想像もできないような、感情にまかせた大声をガルディが聞いたのはこれで二度目だ。一度目よりもよほど大きな声が出ているから、これが本物なのかもしれないが。
(ああ、オリヴィア。お前、そうやって怒るのか)
なんて無様な顔をしているのだと笑ってやりたいのに、声の代わりに口から鉄くさい液体が溢れては顎を伝ってこぼれ落ちていく。ぼとぼとと粘着質な音を立てて真っ白なキャンバスを赤色が汚していった。
生まれて初めて見る弟子の怒った顔は、ガルディが想像していたよりもよほど“心配そう”なものだった。
「ああもうほんと、馬鹿だわ! じっとしてなさいよ、もう!」
オリヴィアはシャツの袖を引きちぎり、歯で器用に割いていく。包帯状にしたそれをガルディの腹にあてて手際よくぐるぐると巻き付けてはきつく縛る。そして自分の肩口に巻かれた包帯の中から白い魔石を取り外すと包帯の上からガルディの腹に当てる。じくじくと鈍い痛みが腹部を中心として広がっていく。これは回復の魔石だと魔法に疎いガルディでも分かった。
「おまえ……」
「何が俺の仕事を阻むなら、よ! 人になんてものを背負わせる気!?」
オリヴィアは魔石を当てた上から再びぎゅうぎゅうと包帯を巻きつけていく。乱雑ともいえるその動きにガルディは小さく「いてえ」とつぶやいた。
「オリヴィア、いてえ」
「痛くて当然でしょ!? 痛くしてんのよ!」
ぽたり、と。ガルディの顔に水滴が落ちてくる。星の海から零れた雫が次から次へと降り注いでくる。ぽたぽたと音を立てて流れていく涙に気づいているだろうに、オリヴィアは拭いもせずに包帯を巻き続けていた。
「オリヴィア、おまえ、ないてんのか」
無粋だと思いながらもそう言えば、傷のほとんどない側頭部を叩かれる。思ったよりも強い力にくらくらと視界が揺れる感覚がした。揺れる視界に、しかし闇はもうほとんどない。
「泣いてないわよっ!」
ぼろぼろと涙を零しながらそう言うオリヴィアにガルディは思わず笑ってしまった。力が抜けて腹部の痛みが明確になるが、それでも笑いが止まらない。何笑ってんのよ、と咎めるオリヴィアの声がする。それでも笑いが止まらなくて、笑うたびに傷口が痛んで、目から水滴がころりころりと零れ落ちていく。
震えそうになる手を伸ばして太陽のような髪に触れる。力を込めてぐしゃぐしゃと、まるで野良犬でも撫でるかのような乱暴さで彼女の頭を撫でまわす。
「……それで許されると思わないでよ、お師匠様。あんた、いろいろ余罪があるんだからね」
「いや、許されようと思っちゃいないさ。成長した弟子を見て、誇らしさで胸がいっぱいな老いぼれの気まぐれだよ」
おそらくルーシェリアが無事にオフスダールに帰ったとしてもガルディは死罪だろう。どれだけ恩赦を賜ったとて、死んだ後に死体を弄んではいけない、くらいの号令しか引くことができない。傭兵として生きてきた以上、いつか事を仕損じた時にそうなることくらいは覚悟して生きてきた。いつも人の思惑に流されて生き続けて、そのまま死んでいくのだと思って生きてきた。なにも成せずに終わっていくのだと。
けれどもう目の前には、自分の生きた証がある。自分の全てを継いで、自分の全てを負かした、誇るべき娘がいる。
「いつ死んでもいいと思えるだけ、お前が強くなったからな」
そう言えばオリヴィアは呆れたようにガルディを見て、そうして大げさにため息をついた。
「ああ、呆れた。お師匠様、あんた馬鹿なのね? 死ねると思わないで、ほら、さっさと支度してよ」
「え……」
「今からあの子迎えに行かなきゃいけないの。この吹雪の中二百メートル先の石塔とか言われても土地観ないから分からないの。メディで行くにしたって石塔の周りの人員がわからないと徒に時間を消費するだけでしょ。遺言のつもりかなんか知らないけど、不確定な情報だけ渡されても困るのよ」
矢継ぎ早にオリヴィアはまくしたてる。こんな喋り方をする子だっただろうか。もっと口下手で、人の動かし方など知らない子だったように思うが……。
そこまで考えてガルディは納得した。なるほど、あのお姫様の影響かと。
「なるほど……“それで”?」
ガルディのその言葉にオリヴィアはにぃっと口角を吊り上げる。そうして怖くないほどの居丈高な口調で言った。
「お師匠様――いいえ、ガルディ。命の恩人たるあたしからの仕事の依頼よ。今この時よりトラディトールを裏切ってオフスダール王国第一王位継承者たるルーシェリア・オフスダール奪還のためにあたしに従いなさい。あたしはあんたに勝った。受けないならあんたを殺すまでよ」
口調や文句こそ物騒なものの、オリヴィアの目は穏やかに凪いでいる。
「……了解した、その任、お受けしよう」
オリヴィアから差し出された右手を掴めばそのまま引き起こされる。傷口は痛むが、気持ちの問題だろうか、特段問題にも感じない。
「……まったく、世話の焼ける師匠で困っちゃうわ」
「老いた師の世話も弟子の務めだと思って励んでくれ」
「うわ、急に偉そうに! もういいわ、メディ、仕事よ! このおじさんの指示通りに向かって!」
軽口の応酬をしながら、ガルディはオリヴィアにばれないようにこっそりと目元をぬぐった。ブラックワイバーンとなにやら話をしていたオリヴィアが振り向き、自分の名を呼んでいる。
「ああ、今行く」
ガルディは折られたバスタードソードの柄を刀身の隣に投げるとオリヴィアのほうへ歩み寄っていく。仮にトラディトールの人間が来たとて、あたりに散らばる血痕だの折られた剣だのを見ればガルディが敗北したことは一目瞭然だろう。無敗の男の敗北。自らの敗北を意味するこの光景ですらどことなくさっぱりとした気持ちで見ることができるのだから、不思議なものだ。
(さあ、こうなったからにはもう一人の弟子もなんとかしねえと)
今生の別れだと言っておきながらのこのこと生きて現れたら、いくらあの王女殿下でも驚いて目を回すかもしれない。
「お師匠様、置いていくわよ!」
「ついてこいと言った口で置いていくなよ」
普段通りのマイペース差を取り戻しつつある姉弟子のほうに慌ててかけていく。まだまだ引退はさせてもらえないらしい。
それでも嫌な気はしないのだから、師匠というものは弟子を中心にして動いてしまうのだなあとガルディは小さく、それでもどこか嬉しそうにため息をついた。