「くそ……」


 オリヴィアは大判の紙を握り、低い声で呻いた。ぐしゅ、と彼女の拳に押しつぶされた紙が情けない音を立てて丸まる。

 オリヴィアの周りにいる人々はそんな彼女の態度を咎めない。その場には現王・エドワードも同席しているにもかかわらず、である。本来であれば王がいる場で一介の騎士がそのような物言いをすれば首が飛んでもおかしくないのだが、彼は何も言わなかった。それどころかオリヴィアに対して憐憫のまなざしを向けている。


「……それで、デイム・オリヴィア。事の顛末をもう一度話してもらえるかな」


 王に促され、オリヴィアは思い出したように胸の前に手を当てて「はっ」と応えた。


「本日未明、ルーシェリア・オフスダール王女殿下の寝室に侵入者がありました。3人組の男で、2人は捕縛いたしましたが1人に逃げられました。……王女殿下はその男に連れ去られております」



 それは一大事だった。



 オフスダール王国唯一の王位継承者、ルーシェリア・オフスダールの誘拐。



 そのような事態が起きぬようにオリヴィアは護衛騎士としてルーシェリアに仕えていた。寝所に入って護衛をしても問題ないように彼女と打ち合わせまでして、侍女と騎士を兼任するような立ち位置を以てして彼女を守ろうとしていたのである。事実この防衛は今まで一度も破られたことはなく、平穏無事な3年を過ごしていたのだ。

 それが、破られた。


「続けて」
「他の近衛に知らせた後男の行方を追い、数度接敵しましたが、ウェントの森の中で姿を見失いました。あの奥には例のものがございますが、足跡はそちらへ続いておりました」
「……続けて。主に今の君の状況は?」
「はい。不覚を取りました。右腕の付け根と左のふくらはぎに斬撃を受けております。万全とは言い難く……」


 オリヴィアは話しながら、ぐっと唇を噛む。幾度となく噛みしめられた口元からは簡単に血が滲んで口の中に徹臭さを振りまいてゆく。それだけのわずかな動きでも痛むほどに右腕の付け根の傷は深い。
骨まで行っていなかったのが不思議なほど重い踏み込みだった。オリヴィアの剣はどちらかと言えば力よりも速度や技能で相手を圧倒するが、相手の攻撃はそれすら飲み込んで叩き潰すほどの純粋な力だった。

 きぃんと金属同士が触れ合う音がした次の瞬間にはオリヴィアの方が破壊されそうな圧がかかっていたのである。力も速度も技量も、何もかもが圧倒的にオリヴィアの上をいっていた。

 簡単な縫合と痛み止めの服用を済ませたが、それでもずくずくと痛む二つの傷は自身の力不足を嫌が応でもつきつけてくる。命が複数あったなら、オリヴィアは間違いなく一度自分を殺していただろう。


「そうして、相手の目星はついているの?」


 エドワード王の言葉にぐっと喉の奥が詰まる。

 目星はついているの、などという意地の悪い聞き方をするあたりは娘のルーシェリアとよく似ていた。そういう言葉は、自分自身がある程度確証を持っているときに使う言葉だ。

 試されている。お前は誰につくのかと、だれを信じてだれを裏切るのかと。言葉にされなくてもわかる。


「はい」


 一切のためらいなくオリヴィアは答えた。その一瞬、エドワード王の顔が耐えがたい苦痛の色を浮かべて一瞬歪んだように見えた。しかし、ぱちりと一度瞬きをする間にその顔は威厳をたたえた王のものへと変わっている。


「一体、何者なのかな。我が国の近衛兵長である君を負傷させることのできる、そしてルーシェリアを攫うことができる者とは」


 言葉が重い。その重みを殺さぬまま、オリヴィアは硬い声でその者の名を告げた。





「護衛騎士が一人、ガルディで御座います。国王陛下」




 誰も何も言わない。否、言うことができない。

 ガルディはルーシェリアの護衛騎士である以前にオリヴィアの剣の師であり、彼女がどんなにガルディを慕っていたかを任命式に立ち会った人々は知っていた。休暇の時くらいしかまともに笑わないオリヴィアがガルディに頭を撫でられて嬉しそうに顔を綻ばせているさまは年相応の可愛らしさがあった。彼女が休暇のたびに「お師匠様に」とお土産を買っているのも彼女と近しい人間は知っていたし、それをガルディが周りに照れ臭そうに話している姿を見たものだって多い。

 けれど彼はそんなオリヴィアを裏切ったのだ。

 そして、長い付き合いがあるから信用ができるのだと彼をルーシェリアの護衛騎士に推したのは他でもないエドワード王だった。かつて自身がまだ王子だったころ、オリヴィアの父であり当時騎士のひとりだったトマスを引き連れて旅をしたことがあるのだという。ガルディとはそんな旅の中で出会った。トマスが一度護衛の任務で一緒になったことがあると紹介したとき、エドワードはこの寡黙な男をいたく気に入ったのだ。傭兵だと言いながら剣を捨てられず、主君を探しているのだとうっすら笑ったガルディに「いつか俺の部下にしてやる」と約束し、ようやくその約束が果たせたと思った。

 けれど彼はそんなエドワード王を裏切ったのだ。

 裏切られたオリヴィアとエドワード王の気持ちを考えれば何も言えないという反応は至極当然と言えた。


「そうか」


 王はそれ以上言葉を続けなかった。代わりにじっとオリヴィアの星色の瞳を見る。オリヴィアはそこから視線を逸らすと、痛むふくらはぎを無視して膝をついた。


「国王陛下、僭越ながらわたくしから一つご提案をさせていただけますか」
「……何かな」
「例のものの行く先、そこの捜索許可をいただきたく。王女殿下を確実に連れ戻すためにはそのような処置が必要かと推察いたします」


 オリヴィアの言葉を聞いたエドワード王はしばし目を伏せ、そののち「それは認可できない」と続けた。


「なぜ……あれがどのようなものであるかは王女殿下より簡易ではありますがお伺いしております」


 「リヴィには、みんなには内緒で教えてあげるね」とルーシェリアが言ったのは2年と少し前のことだ。ウェントの森の奥に隠されたものの存在にオリヴィアは驚愕し、しかしすぐに聞かなかったことにした。一般人が耳にしていい内容ではなかったのだ。ルーシェリアはむくれていたが、背に腹は代えられない。必要な“防衛のための手段”だったのである。


「あそこに君がいくことは許されないからだ」
「(そう、許されないことだ。本来ならば行くことはおろか、伝えることすら)」


 ではなぜ、師はまっすぐウェントの森へ走ったのだろうか。ただの森ならオリヴィアは地の利を生かして迫ってくるだろう。袋小路に逃げ込むようなものなのだ。

 そうですかと口で言いながら、立ち上がり、目は先ほどまで見ていた大判の紙に向かう。それはこの大陸の全土が乗った地図である。地図に目を通しながら、ルーシェリアとガルディを見失ったウェントの森をじっくりと見る。具体的にはウェントの森自体を見るのではなく、その周辺状況を見ているのだ。ウェントの森はオフスダールと他の国との境界に位置する深い森であり、魔物等が多く生息することから一般人が立ち寄ることはほとんどない。


 だから――ウェントの森には、一部の人間しか知ることができないものが存在する。


(やっぱり……ルーチェには濁させたけれど、そりゃそうよね。こんなところにある禁忌の森なんて、なにかあるに決まってるわよ)


 オフスダール王国は大陸の北部に位置する。周囲を険しい山々に囲まれているものの最北端は開けた海岸が広がっており、海路を経由すれば別段交通の便の悪さもない。貿易なども港が発達しているため問題なく行うことができる。地形による不利益は陸路を用いた他国との交流がしにくいことくらいであるが、裏を返せば陸路を通じて敵に攻め入られることはほぼありえないため、非常に防衛に優れた立地であるともいえた。かつてオリヴィアは他国の将に「オフスダールを攻めようと思ったら登山隊を募るところから始めないといけない」などと冗談めかして言われたことがあるくらいだ。

 しかしそんなオフスダールとて、急ぎで他国と交渉したいことが出来することもある。ちんたら海を渡っていたのでは間に合わないし、かといって山越えをするには環境的要因が厳しい。

 そんなときに使用されるものがあるのだ。“抜け道”。王族のみが利用する、近隣同盟国との隠し通路のようなものである。

王族のみとされているのは他国の進行を許した際に王家のものだけでも生存できるようにという理由がある。まあ、王家でもなく戦いを好むオリヴィアには知ったことではないが。それでもまだ幼かったルーシェリアが自分にそれを話した際は諫めた。いつだれが裏切るかわからないのだ。特に王家の人間ともなれば様々な理由で命を狙われることもあろう。知る人間を限定する情報はそれだけ慎重に扱わなければならないのだ。

 目線を走らせるまでもなく、ウェントの森がどの国との抜け道を隠しているのかはすぐに分かった。


(トラディトール王国……)


 頭の中に線の細い男の姿が浮かび上がる。オリヴィアの中にあるトラディトールのイメージはその男、フィリップ・トラディトールが主軸となっていた。かの国の第二王子であるフィリップは、所謂ルーシェリアの婚約者であり、将来的にはオフスダールに入り婿という形でやってくることが決まっている。数代にわたる付き合いのある国で、オフスダールとの同盟歴は百年単位にわたっているはずだ。その同盟の強化の一環として女王となるルーシェリアに婿入りしてくるのである。ちなみにフィリップはルーシェリアに言わせれば「つまらない男だよ。夢とプライドしかない。あれでわたしより五つも年上だっていうんだから、泣けてしまうね」とのことだが、オリヴィアから見ると神経質そうな小物に見えた。他国の王子に対して思うも無礼だが、有体に言えば嫌いである。

 話を最初に戻そう。

 ルーシェリア・オフスダールの寝所に侵入しようと思えば、オフスダール王国に入国しなければならない。オフスダール王国に入国しようと思えば、船を用いて海路から入るか、何らかの手段をもって山越えを行うか、ウェントの森にある同盟国・トラディトールとの密談で使用する抜け道を使うしかない。しかし今回、この一件の跡に海からも陸からもこの国を出たものはいない。

 残るは僅か一手、抜け道のみ。


「……アレは開かれていたよ」


 王はぽつりと言った。オリヴィアは身を固くしたが、王の言葉を無視することもできず「左様でございますか」とだけ返した。


「よほど急いだのだろうね、開けっ放しだった。まあ手掛かりになりそうなものは何一つなかったわけだが……。あの子も存外情けないね、オリヴィアがせっかく2人を捕まえてくれたのだから、何か物を落とすなりして手掛かりを残せばいいのに」


 王はわざと軽い調子で言ったが、その口調が一層痛々しさを助長する。エドワード王がルーシェリアを自身の後継ぎとして期待しているのはもちろんだが、そうでなくとも彼女を愛していることは誰もが知っている。「父はわたしがいなくなったら死んでしまうかもしれないね」といつかルーシェリアが笑っていたが、今の状況を見ているオリヴィアには同意する以外の選択肢もない。


「申し訳ございません、わたくしが一度で全員を仕留められれば良かったのです。手間取りました、弁明の使用もございません」
「いや、オリヴィアは悪くない。不意打ちの状態で男相手に戦って2人を捕縛して、自らの剣の師を相手にそれだけの怪我で済ませた。それ自体が普通ならできないことだ」


 労いの言葉は名誉なことだが、失態は失態である。一刻も早くルーシェリアの安全を確保し、連れ帰らなければならない。それは護衛騎士としての職務でもあるが、何よりオリヴィアにとってルーシェリアは恋人なのだ。いつかは別の男のものになるとしても、今この瞬間は、手のかかる、我儘な、けれど可愛い恋人なのである。


「トラディトールね……確かに王家のほうでは最近少々もめごとの気配はあったけれど、まさかこんなにも早いとは」
「もめごと?」


 王の言葉に思わず言葉を挟んでしまい、オリヴィアは慌てて額を床につけた。気が抜けていたなどとは言い訳にすらなるまい。意識が完全にルーシェリアにしか向いておらず、目の前の王を蔑ろにするところである。

 エドワード王は「珍しいね」と軽い調子でのたまってオリヴィアの頭を上げさせると言葉をつづけた。


「うちに来てくれる予定のフィリップくん、どうも最近お兄さんと折り合いが悪そうな感じはしてたんだよね。オリヴィアはお兄さんのほうを見たことは?」
「後ろ姿を一度拝見したことがあります」
「あれでね、同じ親から生まれたと思えないくらい似ていないのさ。第一王子の見目は十人並みだが、フィリップくんは線の細いきれいな顔立ちをしているだろう?」
「はあ……」


 曖昧な返事しかできない。神経質そうで嫌いですなどと口に出そうものなら切り捨てられそうである。

 しかし、十人並みの見た目の第一王子に、美しい見た目の第二王子。


「そりゃあ、第一印象でカリスマ性を感じるのは美しいほうにだよね」


 エドワード王は悪びれもなくそう言った後、「だから最近第二王子派が若干きなくさかったんだよ。泳がせてたんだけどね」と言う。第二王子であるフィリップを国王にするのであれば、確かに婚約者であり婿入り先であるルーシェリアの存在は邪魔だ。


「ま、普通はそんな乱暴せず手順を踏むんだけどね。あんまりにも突発的だったから向こうにいる“シャドウ”も気づいていなかったんじゃないかな」


 王家直下の諜報機関でも気が付かないほどの急な犯行。計画性のない行き当たりばったりな王女の誘拐。


「けれど、成功してしまった」


 本来であれば未然に防げたはずのそれが成功してしまった理由。

 そんなもの、“何かあってもすべて切り伏せられるだけの力量を持った男”がいたからに決まっている。ルーシェリアの護衛騎士であり国内で最も強いとされるオリヴィアが、そこまで強くなるきっかけを作った男。


「彼は、あれが何かを知っていたのだね」


 エドワード王の信頼が厚く、容易にオフスダールの内部に侵入できた彼が、最初からトラディトールの手の者だったのであれば。その抜け道を知っていて、まっすぐにトラディトールに走っているのだろう。自身の本当の主君のために。


「オリヴィア」


 エドワード王がオリヴィアを呼ぶ。顔を上げればエドワード王はルーシェリアによく似た顔でじっとオリヴィアを見つめていた。


「はい、国王陛下」
「君に一つ、頼みごとがある」


 オリヴィアは膝をつきなおし、王命を拝しようとする。けれどエドワード王はそれを制した。「あくまでもこれは頼み事だから、君は受けても受けなくてもいい」などと言う。眉間にしわを寄せたオリヴィアに、エドワード王はなんでもなさそうな口調でこう聞いた。


「時にオリヴィア。君は馬以外の生き物に乗るのは得意かい」
「馬以外、ですか? まあ、それなりには……」


 質問の意図が読めず応えかねる。


「君は、娘を――ルーシェリアのことを助けたいという意志を持ってくれているかい? たとえ一人きりだろうと、常時なら考えられない手を使おうと、彼女を助けたいと思ってくれるかい? 君とあの子はその、ビジネスライクな関係だとは思うのだけれどね」


 なるほど、単なる護衛騎士であれば、単身で主君の救出に向かうなどという負け戦には行きたがらないだろう。忠誠心の誇示に対する一つの手段としては使えるが、いかんせん双方の死亡するリスクが高すぎる。

 オリヴィアはエドワード王がこれを王命ではなく頼み事とした理由をようやく理解した。気を遣っているのだ。主君を目の前で攫われ、剣の師に裏切られたオリヴィアを。


「……御冗談を」


 そう呟く。エドワード王は言葉の意図を図りかねているのか不安そうな目を向けている。


「国王陛下、恐れながら申し上げますが、わたくしと王女殿下は国王陛下が思っているような関係でもございません」
「それは……ビジネスライクな関係ではない、と?」
「大変無礼ではありますが。……わたくしは、王女殿下を友とも主君ともつかぬ存在として認識しておりますから」


 嘘は言っていない。ただの友というわけでもなくただの主君というわけでもない。だってオリヴィアとルーシェリアは恋人なのだから。そして攫われたのが恋人とあれば。


「その頼み事、しかと聞き入れさせていただきました。不肖オリヴィア、手負いの身ではございますが、必ずや王女殿下を陛下の前にお連れいたしましょう」


 恋人の危機に、ビビッて助けに行けませんでした、などという格好の悪いことは言えまい。大昔から攫われた姫を助けるのは王子と言われているようだが、その王子が使えないのなら騎士がいくしかないではないか。


「……すまないね」
「何を謝ることがおありですか。“わたし”は自分の意志で、“あの子”を助けに行くんです」


 そう言えばエドワード王はまぶしいものを見るように目を細めてオリヴィアを見た。彼女の瞳に弱音や不安といったものは一切見えない。その代わりといわんばかりにあふれ出そうな闘志があった。これは騎士の目ではない。義勇に燃える目だ。


「ありがとう、オリヴィア」


 自然と頭が下がる。慌てたような彼女の様子に思わず喉の奥から笑いがこみあげた。我が娘のカリスマ性というか、人を引き付ける魅力のようなものを凝縮した結果を見せられた気持ちである。


「そして――娘を頼む」
「ええ!」


 力強くうなずき、「では早速手はずを整えてまいります」と謁見の間を出て行ったオリヴィアの後ろ姿を見送った王は誰にも聞こえないような小声で独り言ちた。




「オリヴィアが男であれば、“末永く”とつけたいところだったね……」







§4 姫、隣国の戦に巻き込まれること






「#年下攻め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -