遠くで汽笛が鳴った。ルーシェリアはそちらに視線を向ける。
「彼はもう出たのかい」
「ええ、先ほどの汽笛がそれでしょうね。空路は使えないから・・・・・・」
飲むかとも聞かず、オリヴィアはルーシェリアの前に湯気の立つ紅茶を置いた。砂糖もミルクもレモンも添えられていないそれをルーシェリアは一口口に含む。相も変わらず自分好みの渋さに仕上がっていることだ。
汽笛を吸い込んだ高い空を見る。数日前までの吹雪が嘘のように晴れた今日がフィリップ・トラディトールの出航日だった。
「軍事演習」
エドワード王はルーシェリアの言葉をオウム返しのように呟く。目の前にいる少女、ルーシェリア・オフスダールの報告を受けてのことだった。彼の目の前にいるルーシェリアは年齢よりも遙かに大人びた顔で艶然と微笑んでいる。
つまるところ、今回の誘拐事件を「婚約者同士が自国のためを思って起こしたちょっとした軍事演習」だったという筋書きにしようとしたのだ。もちろん両国の王は詳細まで知っている。騙しきれないと判断したルーシェリアは早々にトラディトール国王を口説き落とし、自国に戻って父親を説得した。
「つまり、緊急時の対応を確認したかっただけで、それが思ったより大事になってしまったと。そういうことにしたいというんだね」
「ええ。こちらとしてもトラディトールとの同盟は残しておきたいでしょう?」
エドワード王は目を細めてルーシェリアを見つめている。上手くいったようだ、と胸をなで下ろしかけたルーシェリアの耳に届いたのは彼女が今までに聞いたこともないほど冷たいエドワード王の声だった。
「フィリップ・トラディトールの処罰くらいはこちらで決めても構わないな」
ずん、とその場の空気が重力を増したように感じる。威圧だ、と判断したルーシェリアは咄嗟に頭を下げる。居合わせるのは初めてではないが、自分が向けられるのは初めてだった。あまりの威圧感に、やはり父も紛うことなく国を背負って立つ王たる男なのだと思い知る。
たしかにルーシェリアの提唱する処罰はオフスダールにとって何のうまみもない。この一件を“大がかりな軍事演習だった”ということにしたいのだから、フィリップを殺すことはおろか表舞台に出さないとすることもできない。国王として、そして親として、エドワード王がそのような処罰にイエスと言わないのはもっともなことである。
しかしここで引いては彼を助けたいと思ったオリヴィアの努力が報われない。彼女の努力を無駄にしたくないと思ったルーシェリアの思いが報われない。努力がすべて報われるなどという幻想は抱いていないが、恋人の努力は報われてほしいというのが人の情である。ルーシェリアは衣擦れ一つ起きないほど静かな動作で頭を上げた。
「いいえ国王陛下、処罰もトラディトール国王陛下と共同で決めております。そちらをのんでくださいませ」
「・・・・・・ほう?」
「無論、フィリップ殿下のなさったことは到底許されることではありません。他国の、それも同盟国の姫を誘拐し殺害を目論むなどあってはならないことです」
淡々と言葉を紡ぐ。エドワード王は黙ってその言葉を聞いていた。
「けれど、殿下はまだ十七歳なのです。本来であれば大人の庇護の元で王家としての立ち居振る舞いを学んでいくべき時なのです。それを周りの大人が唆し、あまつさえ反逆の筆頭に据えようとしただけなのです」
若干十二歳の自分が言ったところで説得力はないだろうと思う。現状、自分もまさしく大人の庇護の元で王家としての立ち居振る舞いを学んでいる最中であり、庇護者である父の指示に従わないのは正しいこととは言いがたいだろう。なにかがあったときの責任ですらまだ一人で満足にとることはできない。この一件も父の許しなくしては望む解決方法をとることさえかなわない。
「お前は、フィリップくんに興味がないものだと思っていたよ。どうして急にそんな仏心を出したんだい?」
エドワード王の言葉は十分に予想ができるものだった。絶対に突っ込まれると分かりきっていた部分で、普段のルーシェリアであれば綿密に対策を練ってから答えただろう。嘘を突き通して真実にすることもルーシェリアなら可能だった。
「仏心を出したのはわたしではありません」
凪いだ海に雷のような光が閃いた。意思の光だ、とエドワード王は頭の隅で思う。
昔はこんな目をする子ではなかったと思う。意志の強い子ではあったが、それは自分で決めたことと言うよりも周りの望むことをただ粛々と進行していくだけのものだった。国民がそう望むだろうから、という先読みの上手い子供だったのだ。
それがいつからか底に自分の意思が垣間見えるようになった。すべてがルーシェリアの意思でなくとも、どこかに彼女なりの意見が盛り込まれるようになっていた。そう、それはちょうど。
「わたし一人なら国王陛下の意思を尊重しましたが、わたしに仕える最も忠実な部下であり友であるオリヴィアもわたしと同じことを望みましたから。彼女の願いを叶えることが今の私の最上の喜びなので」
ちょうどあの花のような騎士が彼女の隣に立ってくれるようになってからだった。
月姫という異名を冠した娘は親の贔屓目を含まずとも美しく聡明な姫だったが、その代わりと言いたげなほど感情の薄い娘だった。その娘がこうして正面切って自分と向きあい、自分の意見を曲げまいと言葉をぶつけてくる。
「ふむ」
わざと吟味するように呟けばルーシェリアは僅かに肩を震わせたが、しっかりとこちらを見据えていた。
(ああ、いい目だ)
無条件に上がりそうになる口角をなんとか抑えて威厳のある顔を作り、エドワード王は一つため息をつく。長く長く、目の前の娘がつくのとよく似たわざとらしいため息。
「・・・・・・功労のある部下に感謝するんだね、ルーシェリア。今回の一件の功労者である彼女の言がなければ私とて許可はしなかったよ」
「寛大なお考えに感謝いたしますわ、国王陛下」
優雅に一礼したルーシェリアは「ではわたくしはこれで」とそそくさとした様子で謁見の間を退出していった。謁見の間から出たその瞬間、廊下に控えていたのだろう騎士に飛びかかったらしくドレスにあしらわれたフリルが雪のように舞っていた。
「趣味が悪いですね、国王陛下」
自身の隣からかけられた声にエドワード王はニィッと口角を上げた。普段の人の良さそうな笑みからは想像できないほどあくどく笑んだ彼は隣に控える騎士の鎧で覆われた脇腹を軽く小突く。
「そう言うなよ。娘の成長を喜ぶ父親の気持ちはお前も分かると思うけど?」
砕けた口調でそう声をかけられた騎士は――ガルディはその声に対して心底嫌そうに眉根を寄せた。
「俺の娘じゃないんでね」
「そう言うな。オリヴィアの怒り方とか物事の納め方はびっくりするくらいお前にそっくりなんだよ。まったく、トマスが見たら泣くんじゃないか」
「あいつは俺の娘じゃないし、俺じゃなくてトマスに似てる。あいつが俺に似てるのは太刀筋くらいのもんだ」
「嘘つけよ」
圧倒的な力を持ちながら自分の守るべきものに対して甘いところや、傷つく人が極力減るよう立ち回るところなんかが、特に。
それを口に出すのは野暮というものだろうからエドワードは伝えない。代わりに彼に伝えたいもう一つの言葉を投げる。
「俺はあの子のおかげでお前が帰ってきてくれて嬉しいよ」
「・・・・・・そうかよ」
照れたように顔を背けた友人に、エドワードは今度こそ声を上げて笑った。
「ほんっとに疲れた」
げっそりした顔でルーシェリアはベッドに飛び込んだ。普段はその行為をとがめるオリヴィアも今日ばかりは何も言わない。ただ一言短く「お疲れ様」と言葉を落とし、サイドテーブルで紅茶の準備を始めた。
「・・・・・・さすがにだめと言われると思ったよ。そうなったら今日手配したあれこれが全部パーになると思って焦った焦った」
ベッドにうつ伏せに寝転がりながらルーシェリアはぼやく。あの謁見はピンチどころの騒ぎではなかったのだ。
「だって普通は誰も思わないわよ。意見が通ろうが通らなかろうがフィリップ・トラディトールは国外に出すだけで終わりにするだなんて」
「国外に出すだけじゃないよ。同盟国でもない軍事中心国家に力を持たない王族を一人で放り出すっていうんだから、実質処刑と同じだわ」
フィリップ第二王子は自国を守るために、王位継承者としてからではなく軍事面等国王の手が回りにくい部分から援助を行うこととする。
それが国内外に発表された表向きのフィリップ・トラディトールの“留学理由”だった。トラディトール王国を支えるため、いずれ王位を継ぐ兄と争うのではなく共に国を守るために人質ととられかねないような条件で他国に留学なさるのだと王国内では彼の決定をたたえる声が上がっている。実際それはあながち間違いではない。フィリップがそれを望んだのは事実だ。
ただ軍事国家に王族を送るというのは基本的に“自国が問題行動を起こしたときにいの一番に殺されてもいい人間を送る”ということであり、今後トラディトールはすべての国際的な選択を慎重に行わなければならなくなる。一歩間違えて戦いの口火が切られようものなら最初に首が飛ぶのはフィリップなのだから。
「そう? あの男、思ったより楽しそうだったじゃない。案外ああいうやつが留学先で化けたりするんじゃないの」
オリヴィアはそう返す。内情を知っている人間としては彼のあの反応は意外だった。殺されなかったことに安堵していると言うよりは、純粋に軍事国にいけることを喜んでいるような。剣すらまともに振るうことのできないあの王子が戦いの才能を開花させるとは考えにくいが、自身が戦うのではなく指揮を執る側に回れば開く才もあるのかもしれない。
「どうだか。わかんないわ」
――ありがとう、ルーシェリア殿下。まだ私にも祖国に恩を返す機会を与えてくれて。
トラディトールを出るときにかけられた言葉を思い出す。別に君のことを思って機会を与えたわけではないと返したが彼は気にする様子もなく、「それでも私はそれが嬉しかった」と微笑んでいた。処刑されないことを喜んでいるどうしようもない馬鹿なのかと思ったが、自分が死ぬかもしれないと言うことを分かった上であの言葉が出たのだとしたら。それはきっとよいことだったのだろうと思う。
「あ、汽笛」
ボォーーーッ・・・・・・
遠くで汽笛が鳴った。ルーシェリアはそちらに視線を向ける。
「彼はもう出たのかい」
「ええ、先ほどの汽笛がそれでしょうね。空路は使えないから・・・・・・」
飲むかとも聞かず、オリヴィアはルーシェリアの前に湯気の立つ紅茶を置いた。砂糖もミルクもレモンも添えられていないそれをルーシェリアは一口口に含む。相も変わらず自分好みの渋さに仕上がっていることだ。
「メディを貸してあげればよかったのに」
揶揄うように言えばオリヴィアは眉間にすさまじい立て皺を浮かべる。誰がどう見てもそれは嫌だ、と言いたげな顔だ。
「はぁ? あんたねえ、軍事国にワイバーンで留学しに行く馬鹿がどこにいるってのよ」
今回空路ではなく海路を選択したのもトラディトールにはそちらと争う意思がありません、というのを示すためのポーズだ。戦闘力の高いブラックワイバーンの中でも大柄なメディに乗っていこうものならたちまち撃墜されて終わりだろう。最近自分に懐いてめっきりかわいらしくなってきたメディをそんな目に遭わせてたまるかとオリヴィアはジト目でルーシェリアを見た。その様を見て思わず吹き出し、冗談だよ、と笑う。
「……いい天気だね。出航日和だ」
紅茶の入ったカップをソーサーに戻し、サイドテーブルに置く。湯気がふわりと揺らめいてルーシェリアとオリヴィアの間に甘い靄を生んだ。行儀が悪いのは重々承知でベッドに仰向けで倒れこむ。
「なに? ずいぶんセンチメンタルじゃない」
オリヴィアはそんなルーシェリアを咎めない。丁寧な所作でサイドテーブルに置かれた紅茶を少し離れた位置のチェストに移動させると静かに寝転がるルーシェリアの隣に腰を下ろした。
ルーシェリアはのそのそと這うように移動し、座り込んだオリヴィアの腰に腕を回して彼女の腹に自分の額をつける。
「あら、センチメンタルなわけじゃなくて甘えん坊なわけね、ルーチェ?」
オリヴィアは得意げにふんと鼻を鳴らした。この自信満々のお姫様が時折見せる、年相応な甘え方がどうにも癖になる。そう、なかなか懐かない猫が不意に自分に腹を見せてきたときの優越感ともつかぬ感情に似ているのだ。
そっと絹糸のような黒髪に指を滑らせた。気持ちよさそうに目を細めたルーシェリアに気をよくしたオリヴィアはそのまま静かに彼女の頭を撫で続ける。
「リヴィ、君はわたしの決断をどう思った?」
瞳を閉じたままルーシェリアは小さな声で呟いた。オリヴィアはその言葉に一度、彼女の頭を撫でる手を止める。そうしてしばし逡巡し、改めて言葉を紡いだ。
「珍しい、賢姫ルーシェリア・オフスダールともあろう者が一介の騎士にお伺いを立てるだなんて」
「……正直、今回の件は何とも言えない。フィリップを国外に出すという処遇を決めてしまった以上、彼を担いだ大臣を罰することもできなかった。リヴィを傷つけた根幹を断つことができなかった」
きゅっと、服を掴まれる感覚がする。オリヴィアの腹に直接響くルーシェリアの声は普通の少女のように頼りなげだった。
「……はぁー……」
オリヴィアがため息をつく。長い溜息にルーシェリアは多少むっとしたような表情で顔を上げた。そうして見上げた先、慈母の笑みを浮かべた花の顔がある。愛おしむように、慈しむように、母のような姉のような笑みを浮かべたオリヴィアは「馬鹿な子」と言葉を落としてルーシェリアの頭をもう一度撫でた。
「ルーチェ、あたしはあんたのために存在してるの。あんたが決めたことに異論はないわ」
「リヴィは結局いつもそればかりだね。少しは腹立たしいとかないのかい?」
「腹立たしい? どうしてよ」
ルーシェリアはオリヴィアの次の言葉を待つ。不安げに揺れる月に花はもう一度深く笑んだ。
「根本とかどうでもいいのよ。あんたがあたしを思って戦ってくれた。これ以上のものってないわ。騎士としても、恋人としてもね」
ふ、とルーシェリアの体から力が抜ける。それは張りつめていた糸が本当の意味で切れたことを表していたのだろう。慌てて支えるオリヴィアの耳に届いたのは押し殺したような笑い声。
「はは……本当にリヴィは、わたしの欲しい言葉をくれる」
がばり、オリヴィアの視点はそこで反転した。視界の端には美しい絹糸の如き黒髪が、滝のように優美に垂れ下がっている。
§9 月姫と花騎士
「そんなに熱烈に褒めてもらえたなら――上々だね」
にんまりと少女は笑う。
その少女は大陸の北部に位置する、オフスダール王国のたった一人の王位継承者である。
雪のように透き通る白い肌、凪いだ海を思わせる青い瞳に、限りなく黒に近い濃紺の髪。手折ることができそうなほど細く小柄な体躯ながら、父王を助け国務にあたる姫君は市政へ目をかけることも欠かさない。孤児院、貧民街、工業地帯と、高位の人間であればまず近寄らないような場所にも積極的に足を運んでは慈しみの言葉をかけていく。無論見学だけ、言葉がけだけで終わるというようなことはなく、問題があると判断すればすぐさま父王の名の下で改革を行う。
国民たちがそのような彼女に対して深い愛情と尊敬の念を抱くのは至極当然のことであった。彼女を建国の祖、賢王アレクサンドル・オフスダールの再来であると評する人物も少なくない。もちろん現王の統治に問題があるというわけではないが、その統治のわずかな穴を的確に埋めてゆくかの姫君の采配能力は歴代の王を見ても頭一つ抜けている。「姫君がいらっしゃる限りオフスダールは安泰だ」とはこの国の宰相の言だ。本人もオフスダールを離れるつもりは毛頭なく、しかるべき時が来ればしかるべき相手を婿にとり女王となる予定であるが、それはまたしばらく先になろう。
姫の名を、ルーシェリア・オフスダール。弱冠十二歳の姫君の御姿を知らぬ者は国内にはほとんどいないだろう。
また、彼女に付き従う護衛騎士の姿も姫君と同様に知らぬ者はほとんどいない。
「あ、あんた珍しく大人しいと思ったら……!」
程よく小麦色に焼けた肌、星を閉じ込めた金の瞳に、南方の果実のような橙の髪。まだ少女と言って差し支えない年齢の彼女はオフスダール王族が所有する近衛兵の長である。片手剣を自得意とする彼女は、大人の男が五人がかりでやっと倒すことができるワイバーンを単身で討伐できるほどの腕前を持つ女騎士である。その実力を買われて彼女はオフスダール王国の王位継承者であるルーシェリアの護衛騎士となったのだ。現王からの信頼も厚く、また、ルーシェリア王女と連れ立って視察を行う楚々とした美しさは国民からの人気も高い。
騎士の名を、オリヴィア。オフスダールの守護の要と言っても過言ではない彼女は、ほんの十六歳の少女である。
心優しく聡明な月のような美貌の姫と、姫に凛として付き従う花のような騎士。世間一般の彼女たちへの評価は、おおむねこのようなものである。
「ルーチェ、あんたこのあとまだ仕事が・・・・・・」
「いいじゃないか。わたしもこの一件に関しては大いに骨を折った。ご褒美の一つくらいあってもバチはあたらないだろう? だぁいじょうぶ、きちんと人払いは済ませてあげるよ」
天蓋のついた豪奢なベッドにオリヴィアを押し倒したルーシェリアは機嫌良く口角を上げると、淡く色づいた唇を彼女のものに近づけていく。
この浮世離れした美しさをたたえ建国の祖の再来と謳われるほど聡明な月の姫の恋人が、花の騎士と称される年上の護衛騎士であるということは。
今はまだあなた方以外に知る者の少ない秘密である。