なんてことないことかもしれないけれど、
わたしたちは確かにしにたかった。

17歳の硫化水素



「硫化水素自殺って知ってる?」


私の隣で寝そべる男が軽い口調で言う。


「誰でも手に入れられる材料でできる上に、いたってシンプル。化学反応的には人体に多大な苦しみを及ぼすらしいけど……手軽な感じがすごくいいと思わない?」


こちらの返事がないことなどかまわず男は続ける。
私はベッドに横たわったままだった体を緩慢な動作で起こした。

途端に頬に衝撃が走り、起き上がりかけていた体が再びベッドに沈む。


「なに勝手に起き上がってんだコラ」
「………」
「無視してんじゃねえぞ、奴隷のくせに!」


仰向けに寝転がった私の首をものすごい力で絞めながら男は下卑た笑顔を見せる。


「逆らえねえだろ、俺には!お前みたいな!クラスに居てもいなくても同じやつには!」


この男は、何におびえているのだろう。


しぃんと静まった心のまま、苦しくなっていく呼吸も厭わず男を見つめる。

彼は、私のクラスメイトだ。
彼は勉強も運動もできてそのうえユーモアのセンスにあふれるクラスの中心人物で、私のような勉強も運動も中途半端な人間なんかにかまっている時間的な余裕はないはずなのだが。
何の因果かこの男は私に執心し、徹底的に苛め抜くことで精神的安定を図っているようだった。

世間一般的ないじめは大体体験したと思う。
あとはまあ……やってる側が男でやられてる側が女だから、“そういう面”でのいじめもあるけど。
別段予定があったわけでもないし、そもそも彼は一般的な「イケメン」に該当するから、そう考えれば悲惨なわけではないだろう。

悲惨じゃないから不幸じゃないというわけではないけど。


……あ、苦しい。死ぬ死ぬ死ぬ。

はく、と口を開けると首を絞める力が弱まった。
抵抗なく入ってくる酸素にむせかえっていると、急に静かになった彼が言葉を続ける。


「お前さ、いてもいなくても同じなんだからさ、死ねよ」
「………はあ」
「やりたいこともねえんだから、俺を楽しませて死ぬくらいしてもいいんじゃねえの」
「………そうですね」
「それ、肯定なわけ?」


どことなく――ぎょっとしたように彼が言う。
何に驚いているのだろう、と思って思い至ったことを口に出した。


「心配しなくても遺書なんかは残しませんし……あなた方がしたことが明るみに出ることはないんじゃないですか」


ぼんやりした視界でそう言えば、向こう側で彼が酷く傷ついたような顔をしているのが見えた。
なんでそんな顔をしたんだろう。

傷つけてるのは、そっちのはずなんだけどな。





「ふうん、これでできるんだ……」


塩素系のパイプハイターに酸性の洗剤だけでできるって、本当に手軽なんだなあ。
彼の言葉が真実だったことに驚きつつ、彼の言った通り準備を進めていく。

小さなメモ紙に書かれた硫化水素自殺の方法。
メモ紙は端っこが折れて丸くなっていたし、紙の表面は古くなってインクがぼけそうになっていた。

ねえ、思い出したみたいに話題にしたのに随分前から準備してたのね。

これ、誰に使うつもりだったのかな。


洗剤をぐるぐるかき混ぜて浴槽のふたをしてしばらく待つ。
こうすると高濃度のものが一気に放出されるから、いいんじゃないかなと思うんだよね。
あのあと調べなおしたら、彼が言ってたよりは死ににくいらしいし。
刺激が強いから目とか鼻が痛くなるんだって。

私痛いの得意じゃないんだよね。

どうせなら楽なほうがいいかなって。


浴槽にもたれかかってぼんやりと考える。
なんで私こんなことしてるのかなーとか、いろいろ。

そうしたら――気づいた。

なんだ、思ったより単純だった。


そのまま高くなったテンションで彼に電話をかける。
いつもパシられるときにかかってくる電話番号だから、連絡先に登録してなくても履歴が残ってなくても打てるよ。
ワンコール、ツーコール。
スリーコール目で不機嫌そうな「なに」という声がした。


「あ、いえ。実行に移す段になりましたので、ご連絡をと思いまして」
――は ?
「以前あなたがおっしゃった硫化水素ですね。濃度が上がりきる前に実行のご連絡を」
――お前、死ぬぞ


死ねと言ったのは彼なのに、何をいまさら動揺しているのか。
彼が動揺すればするほど、“私の口角は上がっていく”のに。

「ええ、死にます」
――なんで
「ええ、忘れたんですか?」


あなたが死ねって言ったんですよ。


言葉を落とせば電話の向こうで「え」とか「あ」とか、短い音を吐いているのが聞こえる。

忘れてるわけないですよね。
人に対してあれだけの仕打ちをしておいて。



なにもなく私が死んでそれで終わりなんて――そんな都合のいいことが存在するわけないよね。



「ねえ、“覚えておいてください”ね」
――あ あぁぁ
「“私”は“あなた”のせいで今から“自殺する”んですよ」
――ち、ちが、おれは、俺は


私は、ちゃんと怒っている。
でも約束は守るから、遺書は書かないしあなたたちのやったことを明るみには出さない。


ただちょっとだけ、ひっそりと呪いをかけて逝こう。

自分が許せなくて私をいじめたんでしょう。

自分への罰のつもりで死を選ぼうとしたんでしょう。

ねぇ、そんなの許さないから。


「あなたが私を殺しました。この、ひとごろし」


――うわああああああああああああ


電話口の向こうから響いてくる絶叫に唇がめくれ上がりそうなほど笑う。
ざまあみろざまあみろざまあみろ!
これが人の一生を台無しにするということだ。

そしてこれが、私の、一生を賭けたお前への復讐だ。


浴槽のふたを勢いよくあける。
黄色っぽい気体がふわりと上がったのを最後に、私は自分の眼球がぐるりと回転し、意識が途絶えたのを感じた。

それで、おしまい。







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