なんてことないことかもしれないけれど、
わたしたちは確かにしにたかった。

23歳の首吊り



申し訳ありません、と頭を下げる。


「だから嫌だったのよ、あなたみたいな実力のない若い先生にうちの子を任せるなんて!」


きんきんと響く声にぐっと唇を噛んでたえる。

泣いてはいけないし怒ってもいけない。
感情をあらわにして、相手を図に乗せてはいけない。

そう思うあまり手に力が入ったのだろう、短く切った爪が掌に食い込む感覚がした。


「お母さんがそう思われるのもごもっともなことですが、今回の件に関しましては彼も相手のお子さんに暴力を――」
「うちの子が暴力をふるったとしても、それは相手があおったからに決まってるでしょう!?あなた何も見てないのね、よくそんなので教師なんて名乗れるわね!」


お前こそ、よくそんな考え方で人の親を名乗れるな。

そう言ってやりたい気持ちが胸の中でむくむくと膨らみ、しかし自分の立場を考えると何も言えず口の中で言葉が溶けた。

教員採用試験に合格し、4月から念願だった教師になって8か月。
中学2年生のとあるクラスを担任することになって、最初こそ戸惑ったものの周りからの助力もあってうまくやっているつもりだった。
順風満帆とは言わないまでもそこそこにやっている自信はあったし、子どもたちからの信頼も同学年の担任たちと変わらぬほどあったし、なにより夢だった仕事を現実のものにできて満たされていると思っていた。


2学期の三者面談前に自分の受け持つクラスで暴力事件が起きるまでは。


殴ったほうも殴られたほうも、クラスの中では発言力や影響力のある生徒であり、一般的に言えばやんちゃな生徒である。
年の若い自分をなめてかかるような言動こそあったものの、基本的には友好的に接することができていた。
彼らが喧嘩をすること自体は珍しいことではなく、今までであれば仲裁に入った頃にはおたがいにケロリとして「ごめんな」なんて謝り合っていた。


「センセーもびっくりさせてごめんな」
「お前が殴るから、センセー動揺しちゃったんじゃねえの」


軽口をたたきながら、それでも自分に対してなんとはなしに罪悪感を感じているのだろう。
遠まわしに謝ってくる彼らは確かに「問題児」ではあったのだけど、私にとっては思わずぎゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られるほどいとおしい存在だった。


今回は。
今回はタイミングが悪かったのだ。


いつものように喧嘩をした二人は虫の居所が悪かったのか、いつもよりほんの少し激しく喧嘩をした。
いつもよりほんの少し激しい喧嘩はいつもよりほんの少し激しい殴り合いに発展し。
そして、いつもよりほんの少し当たり所の悪いところへあたってしまった。

自分を呼びに来たときの引き攣った顔が脳裏をちらちらとよぎる。


――先生、俺、あいつの腕折っちゃった……!早く来て、あいつのこと助けて!


現場にすっ飛んで、救急車を呼んで、結局単純な骨折で済んだのだけれど。
もちろん他人を骨折させたのだから、彼には保護者を呼び出しての指導が必要である。


友だちと喧嘩をすることはもちろんあります。まだ若いから頭に血が上って暴力を振るってしまうこともあるでしょう。それは指導するべきことだと思います。
それでも彼はきちんと自分のしたことを悔やんで私に助けを求めてくれました。だから、彼の今後のために、私はお母さんと一緒にこの子を見守っていきたいです。


そんな言葉をかけようと意気込んでいた。
学校と保護者の連携が子供のよりよい環境を作るのだと大学では再三教わってきた。
今こそその時ではないか。
「あいつのこと助けて」と言ったときの彼は殴ったことを後悔し、身近な大人に助けを求めてみせた。
反省のできる子だから、その姿勢を受け入れ、次のステップを示してあげたい。



そう思っていた私を待っていたのは「あなたの監督不行き届きでしょう」という甲高い大声だった。



うちの子は悪くない、前々から喧嘩があったのならもっと早くに指導しておくべきだった、そもそもうちの子が自分から暴力をふるうわけがない、暴力を振るわされたのだ、相手の子どもが悪い、きちんと指導しておかなかったお前が悪い。

どこに呼吸を挟んでいるのか分からないくらいスムーズにまくしたてている。
つらつらと紡がれる言葉のどこを受け止めればいいのか全くわからない。

大学ではこんな保護者の対応の仕方は教わっていなかったし、それ以前に夏の面談の時はこのお母さんはこんな話し方をする人ではなかったはずだ。
なんだこれは、と思ったものの、当初の方針通り彼の指導について伝えた。
もちろん話を聞いてくれるはずもなく、激高した彼女にはなんの言葉も届かず、冒頭の言葉を頂戴するに至ったのである。

結局、見かねた学年主任が指導に加わり、この一件自体は納まったのだが。


「先生はねえ、なんというか……ちょっと一生懸命すぎるよ」


困ったように言われたその一言が胸に刺さった。
語調から、一生懸命という言葉が褒め言葉ではないことはよく分かるのだ。

一辺倒とか、融通がきかないとか。
大人はそういう言葉をポジティブな言葉に包んで相手に投げかける。
今回の件がうまくいかなかった原因は向こうではなく自分にあるのだと言外に示されているようなものだった。

悔しい、という思いがこみ上げてくる。

激高し言葉を投げ続ける母親の後ろにいた彼は、人形のような顔をしていた。
いつものやんちゃな表情も、私に助けを求めたときの必死な表情もなく、無表情だった。
心が死んでいる人間の顔だった。

なんとか助けてあげたいと思っていたのに、あんな顔をさせてしまった。

帰り際、足早に退出した母親のあとをのろのろと追っていた彼はふと、思い出したように振り返って私に近寄り、言葉を落とした。



「センセー、俺、センセーのクラスにいて、ごめんな」



あの言葉を聞いたときの私の気持ちを端的に表すなら、「絶望」だろう。

大切で、愛おしくて、なににも代えがたいくらい守ってあげたい子どもの一人だった。
そんな子供に、「自分がいなければ」と思わせてしまった。
これを絶望と思わない教師が、果たしているのだろうか。

なんとかしなければ、と思った。

彼が悪いのではないと示してあげなければ。彼の心を守らなければ。あの母親の元では彼はきっと壊れてしまう。自分を否定してしまう。

“彼よりも悪い人間を用意しなければ”。

とっさに頭に浮かんだ文言はそれだった。
そして、「それができるのは自分だけだ」と強く思った。

だって私がかかわった案件なのだ。
ううん、それだけじゃない。
私が理想とする先生は、子どもの心を守れる先生だ。

守らなくちゃ。
助けなくちゃ。

それがたとえ、自分の身を滅ぼすことであっても。









……ピーポー…ピーポーピーポー……ピーポー………ピーポー…………








――大変申し訳ありませんでした。
この一件はすべて私の力量不足が悪いのです。
要らぬ種を蒔いてしまいお詫びの仕様もございませんので、このような形で誠意を示そうと思います。
○○くんのご両親、××くんのご両親にはご迷惑をおかけいたしました。
このようなことが起きませんよう、心から願っております。



簡素な遺書の上でゆらゆらと吊られる骸の顔は笑っている。
幸せそうに、満足したように、慈愛すら感じる表情をそのうっ血して紫色になった顔に浮かべている。


彼女は知らない。
亡骸の納まった棺に縋って号泣する生徒の声は二度と彼女に届かない。
それが彼女の何よりも守りたかった生徒の声だと理解することはない。



「“俺のせいで”センセーが死んだんだ」



自らの死が彼に忘れられないような絶望を植え付けたこと。

それを彼女が知ることは、永劫ない。







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