なんてことないことかもしれないけれど、
わたしたちは確かにしにたかった。
18歳の飛び込み
気づいた時には目の前の色も音も消えていた。
無色、無音。
そんなあまりにも静かな世界であっても、自分を表す「番号」がそこに存在しないことは分かる。
あまりにも残酷な空白がそこに在った。
3月上旬、ここ数日の寒さが和らいだ、良く晴れた日。
私の周りは親や塾の講師と思しき大人と共に喜ぶ受験生たちであふれている。
大学入試の合格発表。
大学構内にある掲示板に合格者の受験番号が所狭しと並ぶ中、私を表す「5182」の番号はなかった。
手荷物の中でスマホが震える。
取り出してみれば発信先は「母」とあった。
のろのろと通話ボタンを押せば、間髪入れずに声が飛んでくる。
――もしもし?
「はい、お母さん」
――そろそろ結果が出たころね。受かった?
断定するような口調で聴かれた言葉に何と答えればよいのだろう。
一瞬考えたが、無駄だと思って正直に事実だけを伝える。
「いいえ、ごめんなさい」
電話口の向こう、息をのむ音がした。
そして母は長い溜息をつき、次の言葉を発する。
――じゃあ、無駄になったわけね。
放たれた言葉の奥底に潜む怒りを感じて、私はその場で目を伏せることしかできなかった。
「はい、ごめんなさい」
――謝罪の言葉が欲しいわけではないのだけど。あなたにかけた時間もお金もすべて無駄になったんでしょう?
「はい、そうです」
――そう。この金食い虫。
「申し訳ありません」
周りの受験生たちは喜び、笑い、時には感情が高ぶったのか泣いている。
明るい音が飛び交う中で私の低く沈んだ音は聞き取りづらかったのだろう、苛立った調子で「普段はもっと大きな声が出るでしょう、はっきり喋りなさい!」という叱咤の言葉がとんできた。
申し訳ありませんと謝罪をして、見えるわけもないのにその場で頭を下げる。
数人の受験生や大人と目が合ったが、異様な様子の私に話しかけてはいけないと思ったのだろう、誰しもが目を背けていく。
――お父さんには私から報告します。……よくもやってくれたわね。
「申し訳ありません」
――まったく、お義母さんになんて報告すればいいのよ。あなたが勉強したいっていうからその大学を受けることを許可したのに、受からなければ何の価値もないじゃない。
「申し訳ありません」
――女のくせに調子に乗って勉強したいなんて言って、身の程もわきまえないからこんなことになるのよ。普段から言ってるじゃない、きっとあなたの傲慢な態度が勉強にも表れているのよ。ねえ!?
「申し訳ありません」
――こんな時だけ殊勝なふりをしても無駄よ!あなたの態度には本当、常日頃から苛立たされていたんだから!
ヒステリックに響く声に、機械的な返答を繰り返す。
はい、いいえ、わかりました、申し訳ありません。
その4つの単語だけを繰り返していると電話口で「もういい!」という大声が炸裂した。
――あんたみたいな人の気持ちの分からない出来損ない、うちどころかこの世に必要ないわ!
「……申し訳ありません」
ぶつん、通話が切れる。
ツーツーと電子音が鳴り続けるスマホを耳から話したころには受験生たちはほとんどその場に残っていなかった。
彼らの合格を喜ぶ気持ちに水を差していなければいいなと思う。
踵を返して構内を出ようとすると警備員のおじさんと目があった。
「大丈夫ですか?」
控えめに落とされた声に私は少し驚いて、それから力なく笑った。
「不合格だったので、母に怒られてしまいました」
「悔しいでしょうけど、気を落とし過ぎないでくださいね。まだ後期試験もありますから」
「ありがとうございます、受かるように頑張ります」
そう返せばおじさんはほっとしたように笑った。
きっと「声をかけなければ」と思わせてしまうほどに異様な光景だったのだろう。
それでも不合格だと思われる子供に声をかけるのは大変気を遣うし勇気のいることだったに違いない。
このおじさんは良い人なのだろうと思った。
だからほんの少し、こんな良い人に嘘をついてしまったことに罪悪感を感じる。
会釈して大学を出て、大学の最寄駅から電車に乗る。
わざと普通電車に乗って大学から2駅離れた小さな無人駅で下車した。
「……ごめんね、優しいおじさん。私、後期試験なんて受けられないの」
誰もいない駅でぽつりとつぶやく。
昔から勉強は好きだった。
分からないことを知るのは楽しかったし、勉強して褒められることは嬉しかった。
普段滅多に褒めてくれない母が、家庭に無関心な父が、母と仲の悪い祖母が、私がいい成績をとったらみんな嬉しそうにしてくれることが本当に嬉しかった。
私の成績の高さが我が家の世間体の良さになるのだということを分かっていても、やっぱり嬉しかった。
「難関大学合格を目指す娘を家族一丸となって支える」という聞こえの良さのためにみんなが私を家族として扱っているのだと、そこに一般的な家族愛なんてものがないことなど分かっていた。
失敗した私に存在価値がないことなど、母に言われるまでもなく知っていた。
「大学生になりたかったなあ」
家族の望む素敵な大学生になって仲を取り持ちたかった。
勉強だけじゃなくて部活やバイトもやってみたかった。
仲のいい友人や恋人を作ってみたかった。
そうしたら家族から認めてもらえる大人になれるのかなと漠然と感じていた。
頑張って頑張って頑張りつづけたらきっと報われるんだって思っていたかった。
いつか誰かが「よく頑張ったね」と心から褒めてくれる日が来るんだと夢見ていたかった。
いや、そんな誰かがいなくても。
頑張って報われた「私自身」が、頑張り続けた過去の自分を救ってくれると信じていたかった。
けれど私は知っている。
どれだけ頑張っても報われない場合があることも、結果が出なければ努力は価値を失ってしまうことも、誰も私を褒めて認めてくれることがないことも。
もう私自身が自分の存在価値を認められないことも。
ちゃんと、知っている。分かっている。
昼下がりの穏やかな日差しの向こう、踏切の赤色が交互に点滅しているのが見えた。
カンカンカンカン、風に乗って耳に警告音が届く。
――電車が通過します。危険ですから黄色い線の内側へお下がりください。
アナウンスが鳴って、電光掲示板には急行電車がこの駅を通過するという掲示が出ている。
踏切の音と点滅する赤色しかないような麻痺した思考のなかに、甲高い女の笑い声が割り込んでくる。
私は壊れたように笑い続けている。
黄色い線の外側に立って、滲むように光を放つ電車を見据えて、笑っている。
「は は は―――ざまあみろ、ばぁか!!」
叫ぶ。
「“お前”は!誰からも必要とされない!その上“お前”はこれから!もっとたくさんの人に迷惑をかけて死のうとしている!」
今まで一度も口にできなかった本心を、ただ、叫ぶ。
「くそみたいな家族も!それを許容する周囲も!ノーテンキに幸せな奴らも!みんなみんな消えてなくなってしまえ!」
キィーーーッ!
甲高いブレーキ音、運転手さんは異様な様子の私に気が付いたらしい。
でもごめんね、私、もう決めちゃったから。
「みんなが消えてなくなってくれないから、私が消えるね」
誰かの顔色ばっかり窺って、人の迷惑にならないように極力努力してきたけど、それが無意味だって分かったんだから。
最期なんだもん、今までの分、自分のやりたいようにさせてよ。
ローファーのかかとがとん、と柔らかにホームのコンクリートを叩く。
傾ぐ体が電車の下に上手に納まりますように。あと、あまり派手に中身が飛び散りませんように。
「ばいばい」という声より早く口から暖かな赤色が飛び出して、何かが弾けて。
私の世界はまた、無色無音に戻っていった。
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