網膜に残る

「本当に行くの」
 女の声を受けて、男は一度だけ立ち止まった。伝統的なミコッテ族の旅装を纏い集落を離れようとする男に、彼女は今一度問いかける。本当に行くの。
「兄貴が結婚したからって、あんたが出て行くことないじゃん。姉さんも、そりゃ、兄貴がずっと居るのには文句垂れてたけどさ、あんた狩り上手いし、したいことあるって言ってたし、別に怒んないし、いていいじゃん。なんで、出てくの」
 少し、拗ねたような。怒ったような。四人兄弟の中で一番歳の離れた、彼の唯一の妹にあたる彼女に、彼はどうしても甘かった。困ったように笑って、それでもなお、その意思は変わらないようだった。
 妹はとうとう泣き出してしまって、彼はその銀の髪をそっと撫でる。今生の別れでもないのに、と思うと同時に、ここの外で死ぬことになるのだろうという予感と、それまでここに戻ることもないだろうという漠然とした確信があった。
 決して居心地の悪い集落でも、仲の悪い家族でもなかった。番を探す旅でもない。ただ、足を森の外に向けた。それだけのこと。それでも、きっと外で死ぬのだと、死ぬつもりもないがそう思う。そのために出るわけでもないのに。
 妹の涙が幾分落ち着いてから、ようやく彼は口を開いた。ごめん。ありがとう。それじゃあ、元気で。
 じゃり、と土を踏む音がする。ここからグリダニアまで歩くのならそれなりに距離があるからと、丈夫に作ったブーツは地面の感触をあまり伝えてはくれない。産まれてからずっと暮らしていた家に別れを告げる。姉が、手を振るのが見える。餞別にと兄に持たされ、懐に仕舞った小さなナイフを確かめる。育った森を出ていく。育った家を出ていく。
 空を切る音がして、少し先の幹に小ぶりのハープーンが突き刺さった。妹は木や角の加工が家族でいちばん上手かった。手荒い見送りに笑って、もう一度だけ振り返る。黒衣森の片隅にある、ちいさなちいさな故郷。きっと二度と戻らない。




 あの日、赤い星が落ちて、落ちるのを見て、その時初めて森の外にも世界があることを知ったと言えば、彼らはどんな顔をするだろう。
「誰も責めはしないさ、友よ」
 そうだろうか。ガジは手元のカップに目を落とす。英雄だの何だのと言われているが、実のところ、家族以外のことを考えたのはごく最近のことなのだ。それはもしかしたら、ハイデリンに呼ばれたりしたからなのかもしれないと、今になって思う。あの鮮烈な輝きが新たな英雄を求めて、呼んだのではないかと。
「イシュガルド人だってそうだぞ。イシュガルド以外に目を向ける余裕なんて、とても」
 カップの中には夜の色がある。クルザスの夜は白い。夜とよく似た、けれどあたたかい白がある。カップの底からこちらを見つめ返す丸い瞳。
 あのちいさな故郷を出たのは己の意思ではなくて、外を見るようになったのも己の意思ではなくて。それは、もしかしたら、とても恐ろしいものなんじゃないかとさえ思う。
 暖炉に薪をくべる男を見る。自分を友と呼ぶ、数少ない、人。イシュガルドの未来を案じて歩む人。そんな作業も部下に任せてしまえるのに。
「それでも、きみはちがうだろう」
 そう言うと、道端の石グレイストーンの彼は笑った。件の赤い星が落ちて以来雪に閉ざされ、さらに厳しい生活を余儀なくされてきたクルザスの地は、温暖な森からやってきたものを拒絶するように吹雪いている。
「ガジ、心配せずとも、ここ雪の家はお前を拒んだりしないさ。それから、私は友を、それだけの理由で嫌いになったりもしないぞ」
 ぱちん、と薪が鳴いた。あたたかい、白い夜だった。




「知ってるか。ムーンキーパー族の男の名には、その母にとって何番目の男児であるかを示す語が付く。一番目なら'a、二番目なら'to」
 慣れた様子で野営の準備をしながら、ガジはそんなことを言った。イゼルは、彼の流れるような手付きを少し意外そうに見ている。自分と同じハイデリンの加護を受けた光の戦士ではあるが、彼はそれ以前にそもそも冒険者であるのだ。彼の出してくる荷物から見て、普段は一人旅であろうことが伺えたが、四人で一夜を過ごすのに問題のないキャンプをあれよあれよという間に広げていく。見事なものだ。
 それから、先程の問いについて少し考える。この人はミコッテの、それもおそらくムーンキーパー族なのだろう。彼が自分の話をするのは珍しいなとイゼルは思った。ようやく見慣れてきた獣のような柔らかい尾が控えめに揺れている。
「つまり、ガジ・ト・アザリは次男?」
「そう。……故郷においてきたんだが、四兄弟だったんだ。強い姉と、優しい兄と、年の離れたかわいい妹。全員性別を入れ替えると、イゼル、よく似ているな、この光景は」
 小高いこの広場からは、アルフィノがエスティニアンにからかわれたり教えられたりしながら薪を集めている様がよく見えた。
 ああ、いや、きみは俺より若いから、これは失礼だな。悪い。彼がそう、素直に謝るものだから、イゼルも肩を竦めて笑うしかないのだ。この束の間の穏やかさが、多少なりとも心地が良いのは確かなので。
「ふふ、なるほどそれは、あの男は嫌がりそうだ」
「まあ、嫌がるだろうなあ。だからこれはここだけの話ってことで」
 くすくすと笑っているのを、薪拾いから戻ってきた"強い姉"と"可愛い妹"が訝しげに見ているが、二人は作業をする手も、笑うことも止めなかった。
 "優しい兄"があり合わせで作ったシチューはあたたかかった。談笑を眺めながら、遠い記憶だな、と彼は思った。




「本当は」
 光の戦士、神殺しの英雄、もう一人の蒼の竜騎士たる男が語り始める。どこか遠くを見ているようで、どこも見てないようだった。
「もう思い出せないんだ。家族の事。両親がいて、姉がいて、兄がいて、妹がいて、それから、ああ、本当は顔すらもう曖昧で、あの家に行くための道も分からない」
 エスティニアンは何も言わなかった。まだ眠っているのかもしれない。できれば聞かれたくはないなと思いながら、一度吐き出してしまった以上止められなかった。
「俺の名前しかないんだ、あの人たちがいた証明が。妹がくれたハープーンはペンダントに加工したけど、それだっていつのまにか失くしてしまった……」
 薄いカーテンが揺れる。イシュガルド特有の褪せたような陽が差し込んで、病人のベッドシーツを灼く。
 隠れるようにひっそりと存在したちいさなちいさな故郷だから、改めて探すのは骨が折れる事だろう。それでもきっと、本気で探せば見つけ出すことはできるはずなのだ。
「あのちいさな故郷は嘘だったと、そんなものは俺の妄想で、ハイデリンなんかが作り出した偽物で、あるいは別の誰かの過去で、あの人たちは居なかったと、思いたくなくて、探すこともできない。本当に、二度と戻らない、二度と帰れない、とおい故郷になってしまった」
 少しずつ声が小さくなり、最後の言葉はほとんど吐息になって消えていく。額をシーツに預ける。薬品の匂いがする。
 どれほどそうしていただろう。扉の向こうに、わずかに足音を聞いて、アルフィノが来るころだとわかる。よほど心配なのだな、と少しだけ笑った。ガジがここを訪れたのは病人が最初に意識を取り戻して以来二度目だが、あの子供はそうではない。
「こんなことが言いたいわけじゃなかったんだけどな、きみのこれからについて聞いてみたくて、」
 ふと、顔を上げる。その病人と目が合った。彼は何かを言いかけたがタイミングを逃したような顔をしていた。思わず面食らっていると、ガチャリとドアが開いて、少年の元気な声が控えめに響く。よくもまあ、懐いたものだ。俺たちが最初に会った時はあんなにも刺々しかったのに、と、ガジはどちらにも思う。微笑ましいとも。
 いつかの家族を幻視する。
「……オレだって、お前とそう大差無いさ」
 目を瞠った。もちろんそう言ったのは寝台の上の蒼の竜騎士で、言われたのは隣の椅子に腰掛けていた方の蒼の竜騎士だった。つい先ほど入室したばかりの少年は首をかしげるばかりだ。
 もしかしてこの男は、俺が黙っていた間ずっと、何と言うべきか考えていたのだろうか。ああ、それはなんだかとても、やさしくて、くるしい。
「あはは、相棒、きみ、慰めるの下手だな。……俺達変に歳食ったせいで、面と向かうと傷の舐め合いしかできないみたいだ」
 でも、ありがとう。じゃあ、また今度。
 床板が軋む音がする。扉が閉まって、少年は困ったような顔で病人を見つめたが、彼はため息を吐くに留めた。



***

 あの鮮烈な赤を覚えている。遠い世界だった場所の終焉を覚えている。知らない誰かに守られた景色を覚えている。今の自分をここまで導いた、その色だけが貼りついて剥がれない。


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