金と青

 ヒュウ、と、荒屋の隙間風のような音だった。時折、水が湧いたような、あるいは大量の水が排水口を鳴らすときのような、濁ったゴボゴボという音がしていた。それが呼吸の音なんて知りたくなかった。
 血が流れていた。ガレマルドの凍てつく風の下、息を引き取った帝国兵のことが嫌でも思い出される。あの人の魂を元の体に戻して、すぐのことだった。どんなに強くても、いつかこうして、簡単に死んでしまうのだと、思い知らされたばかりだった。
 血が流れていた。全員で治療当たる。私は声をかけ続けた。血が流れていた。命が流れていた。
 ああ、本当にここで死んでしまうかもしれないと、怖かった。
 ラグナロクの船内がとても寒いように思った。


***


 世界を救った英雄たちを乗せた舟が北洋の海に着水してから、シャーアンの医療部はちょっとした戦場だった。宇宙の果てまで運命に抗うために出向くのだ。大きな怪我があってもおかしくないし、最悪の場合は死人が出るかもとシャーレアンの誇る医療従事者たちは覚悟を決めていた。アーテリスから検知が可能な距離にラグナロクが現れた瞬間からすぐに治療に動けるようにと、人と道具の準備を万全にしていたのだ。
 蓋を開けてみれば、暁の血盟のメンバーで構成された英雄たちも、月からの協力者であるレポリットも、一人も欠けることなく戻ってきていたのだから、彼等の凄さというものがよく分かる。小さな傷こそあるものの、身体的にも精神的にも、大事に至るような怪我は見受けられなかった。――たった一人を除いて。
 ラグナロクのハッチが開くや否や、蜘蛛の子を散らすようにまず数名のレポリットが走ってきて、続いて賢人が駆けてくる。運び込まれた男――各地で英雄や解放者などと呼ばれている、暁の血盟随一の戦闘力を誇るミコッテ族の男が、彼だけが血塗れも血塗れ、瀕死の重症だった。
 意識はある。目もかろうじて開いており、周囲を認識できているかのような素振りは見せている。船内で賢人たちが施したのであろう、適切な応急処置もある。シャーレアンの、ひいてはアーテリスの医療技術の最先端が、彼を死なせるようなことはしないが、しかし。死んでないのがおかしいくらいだった。左腕は千切れかけ、顔の半分は潰れており、足の骨は砕けている。途切れ途切れの呼吸音から、おそらく喉も傷付いているのだろう。
 別の仕事があるために、担ぎ込まれていく重症患者をすれ違いざまに見送った医療スタッフの男は、その傷から伺える苦痛をものともせず、なんなら少し晴れやかな顔をしているその姿に、空恐ろしく感じていた。そのまま、死んでしまいそうとすら思うほど。余命僅かで、思い残すことはないと笑ったいつかの患者を思い出した。


***


 死の淵から回復したガジ・ト・アザリは、何があったのかを語らなかった。
 終末を退けるにあたって、メーティオンたちの成れの果て――「終焉を謳うもの」と闘ったということは分かっているし、青いメーティオンからも簡単に説明を受けた。ベッドに縛り付けられた本人からもザッと報告は受けている。なお、縛り付けられている経緯については想像の通り、動けるようになった途端病室を脱出しようとしたからだ。曰く、さすがにこれ以上くたばっていると気が変になるか、根が生える。生粋の冒険者は同じ部屋の窓から見える景色に一週間で飽きたらしかった。むしろ二週間も我慢したのだとエスティニアンに愚痴を溢し、俺は二週間半は耐えたと言われていた。折悪く居合わせた医者に、完治するまで病室を出るなと厳しく釘を刺されたが。
 ともかく、本人の報告と青いメーティオンの話から、終焉を謳うものとの戦いのことは分かっており、それが終わった時点では、ガジ・トは重傷でこそあるものの、五体満足で軽く走れるくらいであったはずだ。その後に何があったのかを、彼は語らなかった。
 想像はできる。メーティオンによると、ガジ・トを助けたのは神龍となったゼノスだ。彼女が去った時には二人残っていたはずで、戻ってきたのは一人だけ。おそらくそこで戦ったのだろうとは、分かる。
 顔の半分を包帯で巻かれたガジ・トは、アリゼーの追求をはぐらかし、ヤ・シュトラのお小言に目を逸らし、ウリエンジェのため息に苦笑いを溢した。
 そしてとうとう、クルルとグ・ラハが心配そうな声色で問い詰め――これは双子が仕掛けた作戦であるのだが――白状したのは「ゼノスは死んだ」と、ただそれだけだった。英雄殿はララフェルと歳下の同族のしょんぼりした姿に大層弱いのだが、それでもその先は頑なに話そうとしなかった。
 流石にここまで話さないとなれば、仲間達も折れた。事実確認は取れたのだし、根掘り葉掘り聞かずとも良いだろうと。それでその件は終わりになるはずだったが、しばらくして頭の包帯が取れた時、また掘り返されることとなった。
 彼の片目の色が変わっていたのだ。
 ガジ・ト・アザリは淡い月光と同じ色の瞳だった。それが、青く変色している。光と色ではなくエーテルでものを見ているヤ・シュトラは、変質や浸食と言っても良いくらいね、と低い声で言った。
 異変は色だけではない。極端に視力が落ちてしまっている。明暗くらいは分かるようだが、輪郭を正しく捉えることができなくなっていた。
 ガジ・トの体は、最後の戦いでほぼ全ての魔力が空になってしまっている。この場合の魔力というのは、単純にエーテルであったり、生命力といっても差し支えがない。それが、回復した後も片目の分だけ戻らなくなってしまったのではないか。というのが、医師や賢人らの見解であった。つまり、健康な状態であっても、青い方の目だけはほとんど死んでいるガラス玉のようなものだ。
 本人はケロリとしたもので、「まさか目を持っていかれるとはなあ」と笑っていた。

「あなた、笑ってる場合じゃないでしょ!?」

 大きな声を上げたのはアリゼーだった。こういう時に怒るのは、いつも彼女の役割だった。ガジ・トがあまりに怒らないから。他人のことには怒るのに、自分のことばかりは、受け入れるから。

「アリゼー。あいつは俺の目を喰らって、俺はあいつの命を奪ったんだ」

 だから君が怒ることじゃないよ。でも、ありがとう。と。言った。
 勢いを削がれたアリゼーは、歯を食いしばり、ちいさく、「そう」と言うと、力なく座り込んだ。しばらくそうしていて、急に立ち上がって病室を出ていった。

 アルフィノは開け放たれた扉とガジ・トを見比べ、困ったように笑うと、「私が行ってくるよ」と片割れの後を追いかけた。クルルは「じゃあ私はこの辺りでお暇するわね、お大事に」と帰っていき、どうしようか散々迷っていたグ・ラハには、ガジ・トの方から「よかったら明日、ラストスタンドのオススメを買って持ってきて欲しい」と声をかけた。赤毛の賢人は「わかった」と笑って部屋を後にし、すぐに扉から顔だけ出して「まだ肉は早いからな!」と釘を刺して行った。そんなやりとりをしているうちにエスティニアンは姿を消していた。またぞろ窓から出入りをしたのだろう。

「――で?」

 と。言ったのはサンクレッドだ。今この場に残っているのは、暁の血盟の中でも古株の大人達。付き合いが長い仲間とも言う。
 ガジ・トは観念したというふうに両手を上げた。左腕はまだ痛々しい白い布に覆われている。

「言った通りだ。多分ゼノスと俺の所為、報復についてはもうやった。この程度でみんなを守れなくなるほどじゃあないし。あと、気にしてないどころか、俺は結構気に入ってる」

 以前、錬金術師たちのギルドで、己のエーテルの色を見てもらったことがある。おそらくは、その色がガラス球に映り込んでいるのだろう。
 青は、晴れた空と同じ色だった。穏やかな海と、月から見るアーテリスと、天の果て(ウルティマ・トゥーレ)の果てと。それから、神としてヒトを導き続けた女と、同じ魂の一片だった男と、――あの男の瞳と同じ色。

「……ハァ、お前な」
「怒らないでくれよ、さっき言わなかったろ」

 そういうことじゃない、と言いかけたサンクレッドを、ウリエンジェが遮る。

「今も変わらず、あの後何があったのかを、話すつもりはない、ということでよろしいですか」

 月の金と星の青が、占星術師の方を見る。うんざりするほどではないが、この病室で目を覚ましてから幾度となく聞かれたこと。仲間達は、これほどまでの傷を負わせた原因を、なあなあのままにしておけるほど薄情ではなかった。
 少しの沈黙と、重い瞬きのあと、ガジ・トは口を開いた。

「……殺し合っただけだよ、本当に」

 嘘ではない。ただ、そこに至った動悸が、この優しい仲間達に聞かせるには憚られる。憎しみや使命があるわけではなく、愉しいから殺し合ってた、だとか。とてもでないが言えない。できれば何があったのかすら言いたくはなかった。
 瞳の色が変わったのは、特殊な環境下で死にかけたからにすぎない。たとえばあの男が、よりにもよって本気の仕合の最中に、そんな細工を施すとは考えられない。ただの傷跡のようなものだった。

「隻眼のせいで弱くなったと言われないようにしなきゃな」

 長い時間、身を起こして話をしていたからか、そう笑ったガジ・トがすこしぐらぐらと揺れている。
 もう寝ておけ、とサンクレッドがベッドへ押し倒す。抵抗されなかったのは、それだけ疲れていたからか、うまく見えないせいか。

「誰に言われるというのだか」

 何度目かのため息を吐いたヤ・シュトラが席を立つ。枕の位置を調整されながら、ガジ・トはうつらうつらとし始めていた。それほど長く起きていたわけでもベッドから出て動いたわけでもないのに、未だに体力が戻り切らないこんな状態で平然と病室から抜け出そうとするのだから困りものだ。
 ウリエンジェがカーテンを引く。夜ほど暗くはならないが、瞼を刺すほどの明かりは届かなくなる。

「――おやすみ」

 星を救った英雄の穏やかな眠りを、今は少しでも遮ってやりたくはなかった。


***


「私ね。あの人が装置から手を離したのを、ただ見ていることしかできなかった。それが何より、なによりも悔しくて許せなかったの」

 と。彼女は言った。
 片割れの気持ちは、アルフィノにもよく分かった。風が強くて、同じ瞬間を目撃したわけではないけれど。どういう顔をしていたのかは想像がつく。想像できるのが嫌だった。

「大怪我をして戻ってきた時のことも、すごく怖かった。……でも、もしかしたら一番恐ろしいのは、私達の知らないところで、あの人が死んでしまうことかもしれないわね」

 アリゼーはそれだけ言うと、日暮れの海を見るのをやめ、アルフィノの方へと向き直った。彼が辿り着くより前に――あるいは、ガレマルドの一件からずっと考え続けて、もう既に答えは得ていたらしかった。

「のこのこ着いて来たんだから、ちょっと相手になってもらうわよ」

 ラヴィリンソスの方なら多少暴れても問題ないでしょ、と彼女は踵を返して歩き始める。考え込むよりは体を動かす方が彼女の性に合っていて、アルフィノも今ばかりはそれに便乗しようと後を追いかけた。
 あの人は生きていて、自分達もまだ強くなれる。そうしたら多分、同じ轍を踏ませないこともできるのだから。


***


「それで?」

 あ、なんかちょっと既視感。ガジ・トは苦笑すると、窓を出入口だと思っている竜騎士に「なにが?」としらばっくれてみせた。
 ベッドサイドに置かれた、ラストスタンドのピーチタルトをフォークでつつく。タルトは好きだが、そろそろ肉が食いたい。もちろん持参したのは暁の賢人でありバルデシオン委員会の正式なメンバーである二人である。いつかの仕返しに、珍しく目線が彼等より――と言うよりも、"彼"より――低いのを良いことに、上目遣いで肉を要求したものの、呆れ顔のクルルに嗜められる、といった経緯があり、ともかく肉は却下されタルトが彼に与えられたのだった。ちなみにグ・ラハは下唇を噛んで了承しそうになるのを耐えていた。なるほど、英雄はララフェルと歳下の同族のしょんぼりした姿に大層弱いのは仲間内には有名な話だったが、この赤毛の賢人には憧れの英雄が他に見せない顔で頼み事をするというのに弱いらしい。三人の中で一番歳若いはずのクルルが、「悪用しないであげてね」と肩をすくめて言った。
 それはそれとして。

「いつだ」

 窓を出入口、窓枠を椅子だと思っている男は、もそもそと白桃のコンポートを食べる相棒を見る。相棒と呼びかけるだけあって、エスティニアンが暁の血盟の中でガジ・ト・アザリと最もよく似た性質を持っていた。理解者と呼べるかどうかはともかく、次に何をしようとしているかくらいは、まあ、分かる。

「三日後かな。君、手伝うのはどうせこの建物の外までだろ」
「心外だな。テレポの詠唱が終わるまでか、船が出るまでは手を貸してやるさ」
「どうだか」

 それじゃ、三日後の早朝に。それまでにせめて肉の許可が出ると良いんだけど。殊勝なことだな。
 肝心なことは何も言わないまま、軽口を叩き合う。合間にピーチタルトをフォークで切り分ける音と、それを咀嚼する音。
 この旅で互いの距離感をようやく掴みなおした二人は、下手な傷の舐め合いをすることなく、そんな話ができるようになっていた。
 イシュガルドで四人旅をしていた頃は、ガジ・トが一方的にエスティニアンのアーメットを無理やりこじ開けようと妙な攻防を繰り返していたし、そんなものはまともなコミュニケーションとは呼べまい。三人以上なら問題ないのに、蒼の竜騎士ふたりになると、途端に無言でそんなことを始めるものだから、アルフィノには怯えられたしイゼルには白い目を向けられていた。
 本当に、健全な関係になったものだ。組織にまともに腰を据えると、こういう良いことがあるらしい。今の状況は組織に属するデメリットとも言える。

「ほんとに根が生えそうだ」
「生えたら燃やしてやるよ」
「ふ、オーン・カイにやらせるのか?」
「スルメより簡単だろ」
「幼気な小竜に、ひどい奴だ」
「ガキのお使いにはちょうど良い」

 二人は別に、似ているわけでも何でもないが。放浪癖と冒険好きは似て非なるものであって、しかしまあ、側から見ればとてもよく似ているのだ。

「二日で帰るさ」
「どうだかな」
「君はそのまま病室へ帰らなかったからなあ」
「根に持ってんのか?」
「アルフィノがね」

 そしてその言葉の通り、重症のため絶賛治療中で入院中だったはずの患者が脱走し、数日外泊して自力で帰ってくるという事件が起こる。首謀者で実行犯で共犯者たる二人の紅の竜騎士は、顔を真っ赤にした医者達にそれはそれはこっぴどく叱られたのだった。その剣幕には、仲間達が振り上げた拳を下ろしたほどだったと言う。
 その際、共犯者の方の竜騎士が、「片目が見えてないくらいでどうにかなるタマじゃないだろ、こいつは」と宣うので、冒険者の性質を理解できないが病や外傷に詳しい医者は、未知の症状のため急変の可能性があることや隻眼により起こりうる弊害やリハビリの必要性などを懇々と言い聞かせ、説教は深夜にまで及ぶ。
 患者であることを免罪符に、早々に解放された彼の相棒へエスティニアンは思わず悪態を吐く。これにより医者の話がさらに二時間伸びたのだった。


***


 あの日、いつ死んでもおかしくない状態で運ばれ、いつ死んでもいいというような表情を浮かべていた患者が脱走を繰り返しているという。全く医者泣かせの飛んだ愚患者である。
 左腕は千切れかけ、顔の半分は潰れており、足の骨は砕けているし、喉の損傷も激しく、片目はほとんど機能していないと来た。シャーレアンの誇る医術により、腕は繋がれ、顔も元の形に戻り、足の骨も喉も治った。隻眼だけはどうにもならなかったが、命の危機は去ったと言える。
 医療スタッフの男は、何度目かの脱走の末、自力で戻ってきた患者を見かけてほっと息を吐いた。ベッドに縛り付けられているときは乾涸びたマンドラゴラのようだし、自力でちゃんと帰ってくるのだからたまの外出くらい正式に許可を出してやれば良いのにと医師に溢すと、「許可を出す前にはもう居ないし、出したら出したで今度こそ帰ってこなさそうだ」と苦い顔をしていた。
 文字通り世界を救った英雄であるが、ここでは一人の患者にすぎない。ここで医者に逆らえると思うな!と大きな声を出した医師に続いて、男は病室へと入った。
 死ねない理由を思い出したのか生きる理由が見つかったのか、件の患者は申し訳なさそうに、それでも楽しげな顔で、何度目かの外出許可を要求する。

 片方だけの青い瞳は窓の外と同じ色をしていた。




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