無題

 体が重い。
 いつかの、光のエーテルを飲み込みきれずに吐き出した時とは全く別の苦痛があった。

 思うように動かず、いつもならすぐに気が付くはずのことに反応できず、剣を振り続けるスタミナもなければ、記憶だけではどうにもならない技術の無さが盾をただの板切れにしている。ただでさえ自分のものではない肉体で、物の聞こえ方も体幹も重心も何もかも違うのに。
 瓦礫を踏み締め、物陰に身を潜めながらテンパードと化した帝国兵や兵器を躱し、遺体からポーションを拝借してはまた身を潜める。避けきれずにこちらへ向かってきた魔導兵器を、どうにかして叩きのめす。
 平時であれば槍で数回、脚の外装の隙間へ刺したり足元を薙いだりすれば、それなりに簡単に倒せるはずが。まるで木の棒で鉄の板を殴りつけているようだった。刃の欠けた剣で肉を切ろうとするよりも酷い。
 こんな状態で戦うなんてどう考えても無謀だ。それでも急いでキャンプへ帰らなければ。あの男が、惨劇を、繰り広げる前に。一刻でも早く。
 肩で息をする。慣れない兜も苦しいくらいだが、これがなければ早々に頭蓋なんて吹っ飛んでいたかもしれない。呼吸を整える暇はない。けれど、ここで焦って足止めを食らうわけにもいかない。旅慣れた冒険者とは言え、これだけ密集した兵士や兵器の全てを、わざわざ踏み行った上で避けたりすることなんてなかった。剣が滑る。盾が重い。
 帝国の、武装した民たちが必死に戦っているのが視界に入る。ほとんど反射のようなものだ。魂の側の意志であったし、体の方の本能だった。請われずとも加勢に入る。だが今の状態では、守るどころか、手助けにすら。

 ああ、本来の自分の体であれば! 身の丈ほどある剣ひとつとその身を盾として、こんな雑兵なんて一手に引き受けてしまえるし、あるいは呪具を掲げて朗々と叫んで、魔法で一面焼いてしまえるのに!

 鎧の下が血で濡れていて、呼吸もままならず、指先の感覚は疾うに無く、耳もイカれているし、目なんてほとんど見えちゃいない。意識をそちらに向ければ、おそらくはもっと詳しく自分の状態を知ることができるだろう。だけれど今、エーテルを編んで無理矢理傷を塞ぐことも出来やしないのだから、そんなことは意味がなかった。
 極力、気が付かないように、ただ、前だけを見る。厚い鎧を着込んでいたのは幸いだった。どうせ布切れ一枚であったって、この体がどうしようもなく重いことに変わりはないから。

 文字通り地を這う。一刻も早く行かねばならない。かろうじて動く足で蹴る。一刻も早く、間に合わなくなる前に。棒切れのような腕を伸ばす。まだ動ける。息を吸って、咳き込んで、吐いて、ついでに何か液体も吐き捨てる。目が渇く。瞬きに割く力さえ惜しい。ついさっきまで人だった残骸を通り過ぎて、その血で鎧を汚す。傍らの肉塊と、その動く肢体はほとんど同じと言ってよかった。
 這って進むうちに、体の動かし方が分かってきた。さっきよりも得られる情報も動かせる部分も極端に少ないが、やるべきこともただ歩くだけでいい。どうせどこに何がいるかなんてもう分からない。ただ、キャンプがあるはずの場所へ向かって、歩けばいい。
 雪原には兵士以外の生き物も居るが。おそらく彼らの方がよく分かっている。手負の獣を相手にするのは割に合わない。得られる報酬が、その労力に見合わない。
 這うより立った方が、早く辿り着ける。剣を支えに、どうにかして二足歩行へと切り替える。右足を前へ。重心をずらして、左足を前へ。その繰り返し。それだけを考える。何処へ行くのか、何故そこへ向かうのか、何をするつもりなのか、全部を忘れて、歩くことだけを考える。

 剣だけは離さなかった。英雄たる男の、その執念がそうしたのかもしれないし、伽藍堂の抜け殻に残っていた、一介の帝国兵である男の残留思念とでもいうべきものが、そうしたのかもしれない。溶けて固まってしまったかのように、柄から手を離すことはなかった。
 白い雪の上に、血の道をつくる。
 体がいやに重かった。

 ただ歩くことだけを考える。それだけが、その死体を動かしていた。



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