薄暗い部屋でジャックは武器の手入れをしていた。彼の腕であり相棒であり彼自身でもある刀は、その構造上非常に錆びやすくまた欠けやすい。よって彼はそれを振るう度にこうして丁寧に手入れをする。
年齢が滲み出る細い素足が、少し裾の長いスラックスから覗いている。ベッドの上でぐしゃぐしゃになったシーツに胡座をかいて、抜き身の刀を見つめていた。
窓の外、白んだ曇り空は何処か恐怖すら感じさせる。

ピピ、と彼のCOMMが着信を告げる。足と同じく、少々骨ばった細い指を耳へ伸ばした。

『よお、ジャック』
「――ナギ」

明るい、きっと見えないが笑顔なのだろう声がした。彼のクラスメイトで、諜報課に所属する青年のものだった。

「どしたの、何かご用ー?」

彼は、その友人が何の用も無しに連絡を寄越すような人間でないことを知っていた。
必ず何かしらの用事があり、もしくはジャックの様子を尋ねてくる。
監視なのだ。それが、諜報課でありながらも0組に居る為の青年に対する義務であった。0組は未だ信用に欠け、謎も敵も多い。不審な動きがないか、何か秘密があるのではないかと監視する必要がある。そのこともまた、彼は承知していた。

『いや、なにしてんのかなと思ってさ』

ほらね、とジャックは心の中でだけ呟いた。口からは適当な返事が溢れた。
いつだって0組は監視されている。警戒されているのだ、クラスメイトによって。きっとナギだけではない。そう思うと今は随分と片身の狭い生活なのかもしれない、と思った。
鈍く光る刀は持ち続けているには重たかった。シーツに埋もれた鞘までは遠く、しかし刀は重く抜き身のまま自分の側に横たえた。
小さな通信機器から漏れる言葉はどれもこれも、すっかり疲弊してしまったジャックには尋問か何かのようにしか聞こえなかった。その度に生返事を返す。

空が重たかった。刀と同じように、腕と同じように。湿気を含んだ空気は錘となって腕を落とした。その手と刃で切り捨てたものの重さだった。

『そういえば、大怪我したんだって? 大丈夫なのか?』

ああそんなものもあったなと、落ちた方とは別の腕に視線を投げる。それらしいものはどこにも認められなかった。
骨を折ったはずであった。肉が切れたはずでもあった。皮も破れているはずだった。しかし何も、何も無かった。
そこには何も。

「もう綺麗さっぱり消えたから、大丈夫だよ」

跡形も無いのは、初めから無いことと同じだとジャックは考えていた。何も考えていないようで、彼は酷く現実主義であった。そこにあるものが全てで、彼が手を伸ばして触れられる範囲のものこそが世界だった。遠く離れてしまった記憶はさして重要でない。
今朝交わしたはずの言葉も、見たはずの顔も、初めから無かった。そう、初めから。そんなものは無かった。形などもう無いのだから。

『……なあ』

それまでが嘘だったのかと思える程に、ノイズ越しに彼の友人は重く重く口を開いた。

「なあに」
『ほんとに大丈夫か、ジャック』

何が、とは言わなかった。何がとも聞かなかった。ただ暫く沈黙がそこを征した。
そして、友人の無言と共に通信は途絶えてしまったようだった。何だったのさ、と呟いたが、小さな機器は糸を切るような音をたてただけで答えなかった。

びゅう、と窓の隙間がひとつ鳴く。強い風にも関わらず空を陣取る雲は退こうとはしなかった。風でははその重さに勝つことが出来なかったらしい。真っ白な空の真っ白の雲はとても重たそうに見えた。そこに感じれる程の重さなどありはしないのに。ただの水蒸気にさえ、彼は重さを見た。

身体を後ろへ凭れ掛かろうとする。肘で支えて天井を向く。空の重さに耐えかねてか、彼を責めるようにか、迫って来る天井。いずれにせよ疲弊しきった彼に苦痛であることに変わりはなかった。
同じことを繰り返されれば、人は必ず飽きを感じる。更に繰り返せば疲労を感じる。やがて麻痺して何も感じなくなる。
それが戦争であれば尚更。生死を分けるギリギリを楽しみたいような者は、大概精神異常者だ。誰だってそんなスリルを欲するような余裕など持ち合わせていない。
ならば無いことにすれば良いと、思い至ったのも必然と言えた。繰り返すのではない、前回などありはしなかったと、そう思えば幾らか楽になった。ジャックはあまりに疲れていたのだ。

迫る天井から目を移す。凭れ掛かった身を起こして座り直した。
もう一度刀を手入れしようかな。そう思って側にある鈍色を掲げて見る。そこには少量の鮮血が散っていた。

「あれ?」

いつのまに切っていたのか、彼の左腕に赤い筋があった。かなり深かったらしく、赤い雫石はシーツに染みを作っている。
気付けなかった、そのことに彼は酷く驚いたようであった。少し目を見開いて、ぼとぼと零れる赤い液体をただ呆然と見ていた。

「――ほら」

急に声がかかった。視界の隅に、少し赤の差した金髪が映る。さっきまでノイズの向こうに居たはずの彼の友人が、隣まで来ていたのだ。やはりジャックは随分驚いて凝視した。
その友人は彼へ手を伸ばし、依然血が流れ出る腕に翳すようにする。薄い緑の光が包むように輝いた。
再び跡形もなく消えるのなら、この傷も初めから無いのと同じ。そうしてまた、前回を無かったことにする。繰り返さないくりかえし。壊れたレコードの如く。
けれど光は傷を塞ぐまでせず、血を止めただけで終わってしまった。ふわと消えた光を、彼は惜しそうに眺める。うっすら赤い筋の残る腕を強く掴んで、友人は彼に言った。

「まだ、痛いって分かるんだろ」

懇願するような声だった。どうかそうであって欲しいと望むような言葉であった。しかし傷を負ったことに気が付けなかったと、未だどこかでショックを受けているジャックは口籠もることしか出来ないでいた。掴まれた腕から目を反らした。
彼のその反応に、友人は痛そうな顔をして腕を放した。そうしてごそごそと辺りを物色しはじめた。無論ここはジャックの部屋である。真っ直ぐに向かった魔導院から支給された部屋に備え付けのクローゼットの引き出しから、これまたどの部屋にも設置されている簡易治療セットを取り出した。箱には万一の為の、消毒液やら弱い痛み止め等が入っていた。

決して綺麗とは言えないが、丁寧な手つきでナギは傷にガーゼを貼り包帯を巻く。どちらも今の曇り空と同じ白。
これさ、とナギは言う。

「やっぱりあった方がいいよ、お前には」

白い帯の端を止めて、ついでに刀の血も拭いてしまって鞘に戻した。かつて彼の腕に、傷もないのに包帯が巻いてあったことを知っているらしかった。また、彼がそこに在るものしか見えないことも知っているようでもあった。
ジャックが呆然とそれを眺めている間、ナギは決して顔を向けなかった。

いつの間にか、傷だらけになっていた。前へ前へ出る度に傷が増えて、その度に消して、感覚が鈍っていくのが分かった。それでも彼は前へ出た。
彼は刀ではなかったのだ。確かに振るったのは刀だったが、彼自身は人間であった。錆びた刃は研いでも研いでも、元には戻らなかった。鈍くなっても、戦わなくてはと、理由すら分からずに。
そうして終には錆び付いて動けなくなるのだ。

「大丈夫じゃないならそうやって言え。そのくらいはまだ分かるだろ」

自分が大丈夫じゃないことくらいは、まだ。それは彼の中に突き刺さるように響いた。監視などではない、一人の友人としてナギは彼の目を見た。

「お前が、一人で背負うことはない。……怖いなら、見なくていいんだ」

見慣れてしまった死に、慣れてしまった傷に、目を向けるのではない。消してしまうのでもない。確かにそこに在るのだと、分かるように隠すのだ。

「俺も前へ出るから」

俺が代わりに、とは言わなかった。自己犠牲などに意味は無いと、歳の割には長く居た戦場で既に学んでいたのだ。その分、やはり青年の方が彼より大人だった。
端から無い記憶が、温もりを求めていた少年を泣かせた。ごめんねと言う。今更になって傷がじわり、と滲んだ。

白い空を見た。


▲ まどろみ始めた音の無い遊園地で
徐々に死んでいく棒切れ


title by 不在証明


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