戦争神経症
そう、軍医に診断された彼はへらへらと笑うだけで何も言わない。意味も無く、へらへら、へらへら。何が楽しいのか、何が悲しいのか、俺には解らない。
戦争は苦しい。憎しみばかりが渦巻いて、渦に呑まれて息をするのがやっとで、そこから逃れるために人は武器をとって、負の連鎖は続く。その連鎖はやはり耐え難いもので、俺達、前線に立つ皇国兵の中には彼のような精神のイカレたやつが時々出る。だからその病名を聞いたとき、またか、と思った。これで何人目だと軍医に無言で問うたら、私に聞くなというように首を振られた。まともに歩くことすらままならない彼に肩を貸し、廊下を行く。空は暗い。

悪いのは誰だ。
朱雀か、白虎か、俺か彼か、それともクリスタルか。

さっきまで笑っていた彼が急に叫びだした。言葉にならない悲鳴のようなそれは、俺の耳元から発せられた。なんの前触れも無く、多分人間が出せる限界の声量。鼓膜を突き抜けるような叫びに思わず耳を塞ぐが、もともと弱っていた俺の左耳から血が流れた。
叫び暴れる彼を押さえつけ引きずり、自室の扉を開く。必要なもの以外置かれていない質素な部屋は、無彩色のまま俺達を迎える。
物が少ないのは、住人の入れ替わりが激しいから。前ここにいた人物が誰なのか知らない。どうなったのか、知らない。ただ知らないだけなのか、忘れてしまったのか、そんなの知りたくもない。
どうにか彼を部屋に押し込み、扉を閉める。それでも廊下には彼の悲鳴は響く。暴れる彼に対する対処方は無い。俺が出来るのは部屋まで運ぶということだけ。血が流れる左耳を押さえ、今来た道を引き返す。軍医は少しだけ微笑んで、やっぱりね、とガーゼを手に俺を待っていた。ここまで悲鳴は聞こえていたらしい。俺は苦笑しながら椅子に座った。
やはり鼓膜が破れていたそうだ。左側の音を拾えない。処置を終え、何度目かの廊下に出る。悲鳴はもう響いてなかった。
部屋に戻ると、彼がベッドの縁に腰掛けていた。今度は幾分まともな笑顔を見せた。悪いな。そう言う彼の顔は、笑っているのに泣きそうだった。
幸せって、何だろうな。俺が望んでもいいのかな。
ぼそりと彼は呟いた。

悪いのは誰だ。
この時代か。
この時代、この場所に生まれ、この道を選んだ俺か。

敵襲――………

そんな声がしてから、街が朱雀に占領されるまではあっという間だった。

▲▼

今俺達がいるのは建物の外。鉄骨の階段の隣。左手側には武器を構えた朱雀の軍人。かちゃりと鳴っているはずの金属音が聴こえない。
少し離れた鉄骨の階段の影には、倒れた朱雀兵の若い女。その傍には同じく朱雀兵の若い男。女の脇腹から流れる血は、もう彼女が助からないことを告げている。男は必死に崩れ落ちそうになる彼女の手を握って何かを言う。彼女を撃ったのは俺の横で倒れている、例の彼。暴れながら、笑いながら、泣きながら、彼女を撃った。すぐに彼も撃たれた。もう間も無く、どちらも死んでしまうだろう。
幼い子供が、両腕を挙げる俺から、倒れた彼から、持っていた物を盗っていった。
壁に凭れた彼女が何かを言った。辛うじて発した声は、ここまで届かない。血塗れの手が落ちた。
隣の彼が大きく一つ、息を吐いた。悪いな、とまた言った。悲しげに笑った。

通りかかった赤いマントの少年が、この状況は何だというような顔をした。

「頭のイカレたこいつが、あの娘を撃ったんだ」

普通に年老いて、孫達に囲まれて、日の光の下で、笑顔で紅茶を飲むの。そんな幸せを、夢見たわ。彼女は最期にそう言ったそうだ。
不毛な争い。終わらない憎しみの連鎖。苦しいのは皆同じ。

何故か笑いたくなった。意味も無く、へらへらと。そして同時に泣きたくなった。叫びたくなった。彼の病気がうつったのだろうか。
左耳に、ほんの数時間前の彼の叫びが聴こえた気がした。
走り去った子供と、赤いマントの少年と、泣き崩れる若い兵と、武器を構えたままの軍人と、苦笑いをした軍医と、彼女と、彼と、俺と。叶わないのは誰もが一度は見た夢。奪ったのは彼の病か戦争。悪いのは誰だ。

見上げた空は、暗い。


▲ 夢喰い病


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