まるで黄泉の国だなあと言つた。黄泉など知らぬくせにそういうことを奴は簡単に言ふので、彼はほとほと呆れて溜息を吐いた。
「君は槍だらう。墓にゐた鶴丸国永なら兎も角も、君は死んだ事も墓に入つた事もないだらうに、さう言ふものぢやないよ」
「だつて歌仙、見えるだらう、ヒトが沢山並んで歩いて、まるで黄泉の国へ向かう行列だよ。本当に黄泉を見たことはないけれど、俺にはどうしたつてさう見えるのさ」
厭な音を立てて、奴は足元の亡骸を踏みしめた。ただ気が付かなかつただけなのだらうが、彼は、気味が悪い、風情が無い、どうして主はこの槍を手元に置き続けるのだと顔を顰めた。其れを気にした素振りも無く、奴はまたボンヤリ言葉を続けるのだ。
「歌仙、なあ見ろよ、まるで、まるで黄泉の国だ。みんな炎に焼かれに行くんだ。可哀相になあ、みいんな焼かれてしまうんだ」
彼は再び、溜息を吐いた。この槍は、こうして度々、言葉を交わしてはゐても会話に成らないことがあつた。血と土埃で頭が可笑しくなつたのだらうと、彼の主が笑つてゐたのを思い出して、彼は急に奴が可哀相に思えた。実際奴が、主の言ふやうに可笑しくなつてしまつたのかは判らない。けれどもいくさしか知らぬやうに戦う、ヒトの身体を持つたことを未だ受け入れられない御手杵という槍が、彼には酷く可哀相に思われた。奴はいつまでも槍であつた。表向き喜怒哀楽は、あるやうに見えてゐるが、いったい何人の
何振りの刀が、奴の喜怒哀楽が表面だけだと気付いているだらう。斯うして哀れんでいるやうな振りをしているが、果たして其れはきつと、本心ではないのだ。
硝子を擦り合わせたやうな厭な音を立てて、奴はほんの少し後退つた気がする。可哀相にと言ひながら、何かに怯えてゐる。ここで、はて、黄泉の国の御話に、炎は出てきたかしらと彼は思つた。
「黄泉では焼かれてしまうのかい」
「さうだよ、業火に焼かれて、溶けて、骨も残らないんだ」
「君は黄泉を見たことがあつたかい」
「無いよ、俺は槍だもの。死んだことは無いけれども、其れでも俺は、其処がさういうものだと知つてゐるよ」
「焼かれてしまつた後は、どうなるんだい」
「どうにもならないよ。何も残らない。さういうものだよ」
いくさばには、数多のヒトと武器の亡骸があつた。ヒト同士のいくさの跡と、二振りの打刀と槍とが殲滅してしまつた跡しかなかつた。黄泉へ向かう行列はなかつた。
彼は、もう帰ろう、と言つた。奴の顔を覗き込んで、はじめて、彼は言ひ知れぬ恐怖を感じた。奴の瞳は何も見てはいなかつたのだ。ポカリと真ッ暗な穴が開いていた。奴は本当に血と土埃で可笑しくなつたのだらうか。もしかしたらはじめから、きつとはじめから、可笑しかつたのではないか。彼が奴の瞳を覗き込んだのは今日が最初であつたから、確認は出来ないが、どうにもそんな気がした。底のない場所に立たされてゐる気分になつた。気味が悪い、風情が無い、こんな槍など棄ててしまえと彼は言ひたかつた。
奴は、自らを振り下ろして、刺していた首を投げ棄てた。後退りした筈の左足は、ためらいなく踏み出された。
「ぢやア帰ろう」
彼は、もしも主がこの槍を棄てたとき、きつと其処に刺さつてゐるのは自分の首に違いないと、さうして業火に焼かれてしまうのだと、思つた。さういうところを主は気に入つたのだらう。どうしたつて奴は槍で、ヒトの心など解りはしないのだ。怯えてゐるやうに見えたのは矢張り彼の気の所為なのだらう。
帰りながら、奴は、鶴丸国永は黄泉を見たことがあるんだらうかと呟いた。彼は何度目かの溜息を吐くしかなかつた。奴の手が少し震えてゐることには気が付かなかつた。
▲ 黄泉の国