蝉がうるさい。ジワジワジワジワと、耳に張り付いて余計に暑くなる。講義室は空調が効いていて幾分涼しいはずだが、今しがた炎天下のアスファルトを駅から歩いてきたばかりの俺にはまるで役に立たない。
 厭な音だ。締め切った窓を無視してがなり立てる蝉の声に、俺は苛々しながらシャーペンを握った。

 蝉は大きさの割にかなり軽い。それは奴等の腹が空洞だからなのだが、俺はその軽さが苦手だ。そして何より音がよく響く腹と翅は、蝉が死んだあとも風に吹かれてカラカラと鳴く。それがどうしても気味悪くて嫌いなのだ。



 本丸の夏は蝉が鳴かない。代わりにちりんちりんと風鈴が揺れるだけで、基本的に自然の音が聴こえてこない。もしかしたら生き物は居ないのかもしれない、と言ったのは誰だったか。俺は審神者が人間かどうかすらちょっと疑っていたから、それは大いにあり得る話だと思った。

 縁側は外に面しているから、たまの風が幾分心地よい。

「蝉がいなくてよかった」

「そりゃまた、どうして。蝉の声も風流じゃあないか」

 独り言のつもりだったが聞き手がいたらしい。振り返ると盆を手にした歌仙兼定がいた。小ぶりの盆には2人分の冷茶が注がれたグラスがあって、きっと小夜とお喋りをするつもりなのだと思った。

「嫌いなんだ」

 大きいくせに腹が空洞で、うるさいから。

 そう言うと歌仙は、へえ、そういうものかい、と言って小夜の部屋へと向かっていった。声を掛けたくせに興味はなかったらしい。

 さて俺は蝉の腹が空洞であることをどこで知ったかな、と考えながら、三和土の上の突っ掛けを蹴った。
 雨。
 ここの夏は不気味なほどに静かである。



「テロだって」
「過去の歴史を変えてしまうそうよ」
「人が急に消えたり」
「大昔のSF小説みたいだ」

「人間じゃ太刀打ち出来ない」
「博物館が日本刀を」
「ツクモガミが手を貸すと」
「戦うためには実体が必要に」
「ならば適性のある人間を」
「国が民を殺すのか」
「このままでは対抗できる武力が」
「背に腹はかえられん」



 適性検査結果

 ×× ××殿

 適性 有

 刀剣No.138 御手杵
 種別 槍

 最終検査を通過後、速やかに召集に応じ刀剣男士として登録する事。
 人工知能[審神者]の指揮の元、"本体"と共に時代を遡り、戦場へ赴く事。

 この作戦及び召集に対し如何なる国民も拒否権を持たない。



 もうずっと、生きたものを見ていない気がする。審神者は生物か否かの前にそもそも姿を見せないし、蝉は鳴かないし、刀剣男士は人じゃない。俺は審神者どころかいつも乗っている馬ですら生きていることを疑っているから、馬の世話をしても生き物を見た気にはならない。ついでに池には何もいなかった、ここに来た日以来近付いてもいないけれど。

 そう、蝉が鳴かないのだ。もう4ヶ月は夏なのに。もちろん蛙の声も鳥の声もしない。動くものは刀剣ばかりで、馬は馬小屋に入ってしまえば不気味なほど静かだ。外でも、彼等が嘶くのを聴いた覚えはなかった。あれの世話をする奴は、一体どう思っているのだろう。

「そろそろ季節を変えてほしいな。四季が無いのは雅ではないと歌仙あたりが文句を言いそうだ」

 言ったのは蜂須賀虎徹だった。彼はここで最初の刀剣男士で、はじめからずっとここの近侍、審神者と刀剣男士との橋渡しである。つまり、蜂須賀だけが審神者と面識がある、ということだ。俺達は彼だけが出入りする障子の向こうを知らない。
 自分が本当に季節を変えてほしいのか、歌仙に文句を言われたくないのか、蜂須賀は縁側の俺に「そう思わないかい?」と尋ねた。俺は蝉がいないなら別に、季節なんてどうだって良かったので、さあなと言った。蜂須賀は目を丸くした。

「御手杵の槍は雪降らしの逸話があるから、冬が好きなのかと思っていたよ」

「俺が好きで降らせてた訳じゃあない」

 蜂須賀は、ふふ、と笑い、何方にせよ、俺もそろそろ飽いたところだからね、言って音を立てずに歩き去った。

 嫌味なくらい、静かな夏だ。俺はまた三和土の上の履物を蹴り飛ばした。
 雨。
 景色の変わらない庭に雨なんて降らない。
 どたどたと、後ろを短刀達が走って行った。チラと視線を向けると、厚藤四郎が虫網を肩に掲げているのが見えた。彼等の今日の遊びの結果は目に見えている。



 小レポートを提出して帰るように、と教授が告げて、授業は終わった。俺は薄いペーパーに適当な感想や質問を書き、名前を記して立ち上がる。テストもなく、毎回こうして小レポートを提出をしていればまず間違いなく単位が貰えるこの授業では、内職してもとやかく言われず、大半の生徒が講義室の後ろの方で惰眠を貪っているのが常。かく言う俺もその一人で、寝てこそはいなかったが教授が話した事なんてひとつも覚えていやしない。感想なんてレジュメに書いてあることから文字を埋めればいいだけ。一行にも満たない。俺がこの授業中しきりに気にしていたのは、明日〆切のレポートと講義室の外でけたたましく鳴く蝉の事だけだった。

 廊下に出ると、偶然にも友人と遭遇した。彼は、ひらりと手を振って「掲示板にあんたの名前もあったけど、事務室行った?」と尋ねた。まだだと言うと、俺の分も聞いといてと笑って、またひらりと手を振った。男のくせに彼に良く似合う赤い爪が目に残った。



 今日の食事当番は堀川派の三振りだった。厨からは味噌の匂いがしてきて、俺の腹が鳴く。生きてもいないくせに一人前に腹は減るんだよなぁ、と思う。

 日の傾いた縁側は、それでもまだ蒸し暑かった。出陣や内番がないと日がな一日、俺が縁側でこうして物想いに耽っていることを----実際は何にも考えちゃあいないのだけれど----知っている山姥切国広は、何のつもりか氷の入った冷茶を必ず持ってくる。空になったグラスは、さっき寝そべった拍子にひっくり返してしまっていた。溶けた氷が板張りの縁側に溢れている。

 三和土の上の履物を蹴る。
 雨。

 相変わらずここは何の音もしなかった。例のごとく雨は一度も降らなかった。気味の悪い夏は、5ヶ月を経過していた。

 秋田藤四郎が遠征先からこっそり持ち帰った花が、俺の部屋ですっかり腐っている。
 秋田は俺に、匿ってくれと微笑みながらあの赤い花を持ってきた。俺の記憶が正しければ、あれは冬の花だ。蜂須賀に呼ばれて彼が部屋から出る頃には、すでに枯れ始めていたのを、俺は見ていた。この場所は生き物に適さないのだろう。
 俺は立ち上がって、蹴り飛ばした履物を履いて庭を歩いた。雑草を踏んで花壇を跨いで、生垣を掻き分けると畑への近道だ。

 特にあてもなく畑の中を歩いていると、ちょうどシソを摘む山姥切がいた。食材の採り忘れだろうか。
 俺が近付くと、山姥切はちらりともこちらを見ずに「湯呑みは厨に戻してきたんだろうな」と聞いた。籠いっぱいにシソが乗っている。
 俺は答えなかった。俺たちが今踏んでいる畑の土に、ミミズの一匹もいないことを、そればかりを考えていた。
 きっとそのシソも生きちゃいないんだ。
 どうして畑になんて出てきたんだろうかと後悔した。敷地の外でしんしんと降り積もっているはずの雪を思い、目を伏せる。山姥切が立ち上がって戻るぞと言った。俺は彼に従った。蒸し暑い熱風が、彼の白い布を揺らした。

 秋田はあれから戻っていない。



 大学というのは世間とは異なる社会だと思うと、言ったのは赤い爪の友人だったが、高校の方が閉鎖的で奇妙なコミュニティだったと俺は思う。少しだけ。
 何が言いたいかというと俺達は、年齢だけ見ればもはや成人で、すでに社会に組み込まれているという話。

「おんしはほんに、たまにやけんど、難しい話をしよるよなぁ」

 けらりと笑った。数週間前のこと。彼はいつまでも故郷の訛りが抜けない。高校時代からずっと。それが少し、羨ましくもある。

 事務室へ行くと、大きな茶封筒を渡された。健康診断の結果だと書かれた封筒は、ただそれだけにしては分厚く、手渡される意味も分からなかった。健康診断の結果は自宅郵送だと最初に説明されたはず。気味悪く思いながらも封を切ると、なんてことはない、ペラペラの紙に適性検査結果とあった。確かにそんな検査受けたなあ、と、呆然と上から下まで読んで、また封筒に仕舞った。悲しいかな、その紙が示すことの意味が分からないほど俺は馬鹿ではなかった。

 事務室から一番近い空き教室に、彼がいた。同じ茶封筒を持って。珍しく静かに、静かに座っていた。柔らかそうな猫毛が、窓からの陽に当たって光っている。
 掲示板に書かれた名前は3つだったのだ。俺は数時間前にすれ違った赤い爪の友人にメールを入れるべきかどうか悩んで、悩んでやめた。封筒をワザと机に投げ出して、彼の隣に座った。

 蝉の声は遠かった。

 昔、彼や他の友人達と箒でチャンバラして、窓を割って怪我をしたことを思い出した。馬鹿をやったよな、とその話をすると、あの頃は良かったというようなことを、もぞもぞと彼は言った。ジジ臭いぞと笑ってやった。笑えていなかったかもしれない。



 何やら書類にサインをして、最終検査を通過して、いよいよという段になって俺はくどくど説明をしていた白衣の男に尋ねた。

 その"本丸"というところに、蝉はいますか。

「本丸において、あらゆる生物は存在できません」

 男は簡潔に答えた。清々しいくらいだった。こいつにも、あの忌まわしいペラペラの紙が届けばいいのにと思いながら、そうですか、と呟く。
 生物が存在できないなら、今から俺達は何になるというのか。
 さあ、と男が促して、俺の前にいた子供が泣きながらドアの向こうへと消えていった。

 俺は自分の番を待った。



「新しい男士が来たって」
「強い刀かなぁ」
「誰かの知り合いだといいですね」

 蝉の声は聞こえない。
 俺はもはや審神者のことも、他の刀剣男士達も、自分自身の存在すらも疑っていた。俺達の誰も生きていない。何だったら、御手杵という槍はとうに燃やされて----溶かされて、既に亡いのだ。
 久しぶりに新入りが来たと騒ぐ刀達を見る。俺は憂鬱になる。ここでは誰も生きていない。

 新入りは皆に温かく歓迎され、やがてここの一振りとして馴染んでいった。俺はといえば、夏の終わりを願っていた。蜂須賀虎徹を介して、審神者に頼み込む気にはなれない。ただただ、静かな夏を耐えるように過ごした。



 俺はただ待った。ドアの向こうへと消えていく子供、大人、友人。俺はその背中を見送った。泣く者もいれば、暴れる者もいた。そういう時は白衣の男達がやってきて、何やら注射を打っていった。
 俺はただ、自分の番を待った。



 そうこうしているうちに、新入りはすっかり強くなった。他の刀達と同じように遠征や出陣に参加し、飯を食べて眠るようになった。
 俺は相変わらず縁側でぼんやりとしている。それを見かねた歌仙兼定が、暇なら掃除をしろと言うので、俺は同じく暇そうに一人遊びをしていた秋田藤四郎と共に廊下の掃除をはじめた。
 二人で時々小突き合いながら、雑巾で端から端まで競争をする。それなりに楽しかった。たとえば、秋田が赤い花のことを覚えていなくても。

 そのうち競争が白熱してきて、勢い余った秋田が障子に突っ込んだ。紙は破れ木枠は折れ、部屋の主人が誰だか知らないが可哀想に、すっかり障子は使い物にならなくなった。秋田と二人で散々笑った。久しぶりだ、と思った。
 笑った後、やっぱり盛大に怒られて、二人で障子を直すことになった。どうやら新入りの部屋だったらしい。まともに会話したことはないが、彼は許してくれるだろうか。
 壁であり扉である障子を壊してしまったのだから、廊下からは部屋が丸見えになってしまっていた。かといって部屋に何か突飛なものがあるわけでもなかったのだが、直した障子を嵌める段になって、誰もいないはずの部屋から、カラカラともジジジともつかない音が聞こえた。すわ敵襲か、と身構えたが、横にいた秋田がひょっこりと部屋を覗き込んで、言った。言ったのだ。


「蝉だ!」


 蝉の、蝉の透明な翅が、風に煽られた翅が、畳を撫ぜた音だったのだ。

 俺は恐怖した。何だって新入りの部屋に蝉の翅なんかがあるのかは知らないが----俺が、彼の歓迎のための酒の席で、蝉が鳴かないことをぼやいたのかもしれなかった----知るはずもない蝉の鳴き声が耳に張り付いたように蘇った。槍に耳なんてあるわけがない、この姿になってから蝉を見た覚えもないのに、俺は"思い出した"蝉の声に慄いた。

 生きてないくせに蝉は音を立てたのだ。

「……う、あ」

 震えすぎて呻き声が漏れる。あまりにも蝉のいない夏が続きすぎた。暑いくせに静かなせいで、奴がいつ現れるか不安で夜も眠れない。それが長く続きすぎて、恐怖が大きくなっていた。
 死んだはずの死骸が音を立てるということに耐えられなかった。

「(だから嫌いなんだ、蝉なんて、生きてないくせに、空っぽのくせに、もう、死んだ、くせに)」

 畳に落ちた翅を光にかざす秋田の小さな背中を横目に、俺は廊下に蹲っていた。



 床に座り込んだ姿勢から、スリッパを蹴り飛ばした。ぱすん、と軽い音がして、ドアにぶつかる。そのまま反対のスリッパを蹴り飛ばす。ぱすん。部屋にはもはや誰もいない。とうとう、俺の番が来るのだ。

 ひっくり返ったスリッパが、虫の死骸に見える。

 蝉が嫌いだった。中身がなくて、うるさくて大きくて、死んだ後も風に吹かれて、よく響く空洞の腹と薄く硬い翅が音を立てるから。なんてのは後付けで、本当は幼いころに蝉取りをしようとして痛い目を見たからだ。

 これから、自分はどうなるのだろうか。先にドアの向こうへと消えていった友人はどうなったのだろうか。生物が存在できない場所へ行く、俺達はどうなってしまうのだろうか。
 ひっくり返ったスリッパを見る。
 意地汚く藻掻いて、死骸になってさえも鳴く蝉をそこに見る。
 白衣の男達がやって来る。
 目を閉じる。

 願わくば俺が死んだ後に鳴き続けることがないよう。



 生きてない俺の空洞な腹を撫でた。


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