不透過ステンドグラス

 自分が死ぬ前に、世界が終わってくれないかな、と思う。頻繁に考える。終われないのならせめて死ぬときはこの脳を破壊して欲しい。海馬ごと壊して欲しい。そう思って生きてる。
 厚いカーテンを引いた隙間から、アルミのサッシを指でなぞった。あたたかい陽光を遮る布は外の景色を映さない。それでいい、と思う。それがいいと思う。外からは子供の声が聞こえている。指がホコリで黒くなった。
 逢坂壮五は恋をしている。恐らくそうであると本人が考えているに過ぎないが、ともかく、窓の外を見れない程には焦がれていた。
 彼の住む部屋はごく普通のマンションの3階で、隣には幼稚園がある。度々、周囲の住民から苦情が寄せられるというが壮五は子供達の声を心地よく思った。外の景色を遮るカーテンを引いておきながら、窓を開け放しているのは暑さのためだけではない。
 あのカーテンを買ったのは、ここに越してきて1週間後のことだ。引越し前に買っていた薄いレースのそれは、数日使われたきり分厚い遮光カーテンにその役目を取って代わられている。
 窓の外から子供の声が聞こえる。きゃあきゃあ。わあわあ。ああ、泣き声、と思う。そろそろかな、と期待してしまう。きっともうすぐ。

 壮五の仕事は他人の秘密を暴くことである。スパイなんて映画のようなものじゃなく、ただ、死んだ脳を見る仕事。死んだ人が墓場まで持って行きたかった秘密を、意図せず見てしまうことは日常茶飯事。わざと暴くこともよくある話。
 仕事のことは誇らしく思う。人が死んでから始まる捜査だけれど、それで解決する事件も、防げる被害もある。不満はない。不満はない。
 今日は休みだ。休日でも幼稚園は繁盛している。というか、カレンダーで言えば今日はまだ平日である。この休みは、ここ連日みんなで徹夜して当たっていた仕事が今朝ようやく終わったからだった。先日入ったばかりの新入りがよく働いてくれたお陰でもあり、人手が増えて室長は嬉しそうだった。
 新入り、和泉一織、彼がはじめてのMRI映像で吐きそうになっていた横で、壮五は自分が最初に映像を見た日を思い出していた。プラスチックのバケツに朝食をぶち撒ける光景は一種の恒例行事だ。一織はギリギリ吐かなかったけれど、眠れなかったのだろうことは次の日会ってすぐに分かった。自分もそうだったな、と微笑んで、その日の休憩時間には室長室から貰ってきた菓子をあげてみたりした。
 和泉一織はたぶん、グロテスクな光景に負けて眠れなかったのだろうが、壮五の場合はそうではなかった。彼が初めに見た映像は、ごく普通の−−死に方は壮絶だったのだけれど−−女子学生が毎日を過ごしているだけの風景だった。
 彼女は朝目を覚まして、最初にお祈りをする。日本人にしては珍しく敬虔なクリスチャンだった。彼女の表情や考えは見えるものではないが、周囲の反応からも彼女の信仰心に偽りがないことは明らかだ。彼女は神を愛していたし、家族を愛していたし、友人達を愛していた。
 このことは全く彼女の死因に関係が無いのだが、彼女は一人の人間をずっと目で追いかけていた。当然、彼女と同じものを見る壮五達にもすぐにそれは分かった。彼女はクラスメイトを、こっそり、ずっと見ていた。相手は同じく女子学生で、けれどその視線の意味が分からないほど逢坂は鈍感になれなかった。彼女は恋をしていたのだ。神や家族、友人に向けるものとは違う想いで女子学生を見ていた。一人で祈りを捧げるとき、何度か涙で画面が滲むことがあったから、それは懴悔であったのかもしれない。教会でやるような告解ではなく、赦しを得られないそれは確かに懴悔だったと壮五は思った。彼女は彼女を愛していた。ついに誰かに言うことはなく、死ぬ間際まで握りしめていたパスケースにはクラスの集合写真が入っていたのを逢坂は知った。彼女は最後まで言わなかった。第九の男達以外に、それに気付いていた人はいなかった。それを暴いてしまったのだ。その日の夜はどうしても眠れなかった。
 何日か経ってから、室長にぽつりとこぼしたら「そういう仕事だからなぁ」と返された。残念だけど、よくあることだよ、と。

***

 窓の外から子供の泣き声がした。あの日もそうだった。あの日の壮五は何気なく薄いカーテンの外を見やった。園児達がケンカをしたようで、二人して泣き叫んでいた。しばらくして、保育士がやって子供達を宥める。子供達と一緒になって遊ぶ姿を見たことがあった。
「もー、ひとのもんは盗っちゃだめだって言っただろ」
 ちゃんとごめんなさいして来い、なんて、子供っぽい喋り方。子供相手だからなんだろうけど。
 3階から幼稚園の広場はよく見える。保育士の顔も見えた。優しそうな男だった。すこし子供っぽいと思った。
 次の日の朝、幼稚園の前を通るとちょうど登園の時間で、子供達を迎えるその保育士を見た。上から見たときは気がつかなかったけれどずいぶん背が高いな、とか、名札に"よつば たまき"と丸いひらがなで書いてあってちょっと微笑ましくなったりとか、あれは彼が書いたんだろうかとか、やっぱりすこし子供っぽいな、とか、前を通ったものだから「おはよーございます」なんて挨拶されたりとかして、同じように挨拶を返して角を曲がったところでドッと冷や汗をかいた。いつかあの女子学生のように暴かれる日が来るのでは無いか、と。
 その保育士に抱いたものが恋なのかどうかは分からない。ただ暴かれる日が来ることに恐怖した。遠くではまだ子供達と彼の声が聞こえている。
 目で見ることは自由ではない。ただ見るだけすら自由ではなくなった。秘密はいつか暴かれる日が来る。止める手立ては無いに等しい。
 その日の帰りに遮光カーテンを買った。幼稚園の前を通らない道を選んだ。マンションの3階からは幼稚園の広場がよく見えた。薄いレースのカーテンは雑巾になった。

 意識が再び現実に引き戻される。陽だまりを遮って作った薄暗い部屋は憂鬱を含んでいた。子供の泣き声がしている。彼が、慰めたり怒ったりする声が聞こえる。
 耳で聞くことは自由だった。まだ許されていた。現在故人の生前の音を聞く技術はない。いつかそれも奪われるのだろうか。
 今の技術では、5年前まで遡って映像を再現することができる。きっとそのうち、MRI捜査は何年でも昔のことを知ることができるようになるだろう。素晴らしい仕事だと思う。誇らしいと思う。不満はない。
 だから、自分が死ぬ前に世界が滅んでくれないかな、と壮五は思う。それができないならせめて死ぬときは脳を木っ端微塵にして欲しい。誰にも暴かれないと保証してくれたら、世界が滅ぶと言ってくれたら、こんなカーテンも雑巾にできるのに、と、思う。ホコリで黒くなった指を雑巾にできない布で拭う。
 あの女子学生は毎朝、祈りという名の懴悔をしていた。それでもどうか彼女を見ることだけは赦して欲しいと乞うたのかもしれない。女が女を愛した、その罪があの死に様なのかもしれない。
 外から彼の声がする。反して陽光を遮った部屋は陰鬱を孕んでいた。優しげで、少し子供っぽい声。宥める声。諌める声。笑う声。気がつくと両手を組んで祈っている自分がいる。たぶん懴悔なのだと思う。ふっと重いカーテンがゆれる。声。柔らかい声。丸いひらがなが脳裏をよぎった。

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