「サイス」

彼女を呼ぶ、声がする。

「……サイス」

呼ばないでくれ、と彼女は思う。

「なあ」

そんな声で、呼ぶな。呼ぶな、呼ぶな、止めてくれ。
サイスは足を止めた。空は夜である。木霊するのは彼女を呼ぶ声だけで、それすらも暗闇に融けてしまいそうだと、思った。

「サイス」

呼ぶな。
ただ一言だけ、呟いた。それで呼ぶ声は押し黙った。

サイスは、自分達を呑み込もうと渦を巻いている夜を窓枠に眺め、踏みつけた絨毯に舌打ちをした。
墨を溢したような空は、どこまでもどこまでも暗い。血を流したような絨毯はどうしてもどうしても赤い。
悲しい、色だと。柄にもなく考えた。

「サイス」
「呼ぶな」
「なあ」
「黙れ」
「サイス」
「喋るな」
「なあ、」

繰り返され続ける声に痺れを切らして、彼女は振り返った。短気な少女は殴りかかる勢いで後ろを睨んだ。

「黙れよ、ナギ」

朱いマントの笑顔が、サイスを見ていた。
綺麗に弧を描いた唇と、しかし笑えていない赤い目を彼女に向けたナギが佇んでいる。

「聞きたい事があるんだ」

中途半端な笑顔で。歩み寄る自称アイドルに、サイスは益々顔をしかめた。
窓の外では、静寂が二人を呑み込もうと蠢いている。

「……黙れよ」

彼女はまた、舌打ちをする。女の子が何てことをするんだと、彼はまた笑う。笑う。笑う。
渦巻いているのは何だろうか。サイスの感情だろうか、ナギのものだろうか、それとも夜空だろうか。ぐるぐるとしていて、吐き気すら誘う。

「お前、ここで何してんだよ」

ぐるぐる、ぐるぐる。気持ちの悪い空気が目眩になる。サイスはナギに問い返した。
真夜中の教室に、つい最近0組に配属された諜報四課の人間。元から0組であるサイスがそこに居ることよりも、奇妙で怪しい事この上ない。

「……ああ。そうだった。俺がここにいちゃあ、おかしいよな」

くつくつと彼は笑う。妙だ。何かが変だ。サイスは募る吐き気に耐えながら、彼の姿を改めて見る。

赤、だった。
所々黒ずんだ、赤。
鮮血ではない、鈍い色。

ああ、これがきっと、吐き気の正体なんだ。
彼は、笑う。

「ヒトがヒトを殺すことを、悪と呼ぶ人がいるのなら。俺達は、どうすればいい?」

自らを殺せばいいのか。
ヒトでないものが、ヒトを殺せばいいのか。
化物になればいいのか。

窓の外の黒と、床の上の赤。ギャンブルは黒と赤で勝敗を決める。勝つのはどちらだ。

「……なあ、サイス」

どちらが、正しい?

「喋るな。もう、やめろ」

呑み込まれそうな夜に、彼が飲み込んだのは何だっただろう?
滴ることもない乾いた血を、貼り付けたままナギは笑うので、ぱり、と苦い音をたてた。
サイスは見ていた。壊れていく音だと、悲しい色だと、柄にもなく考えて。同族嫌悪にも似た吐き気を無理矢理殺して、言ったのだ。

「お前の笑顔なんて、死ぬほど嫌いだ」

だからアタシの前で、笑ってくれるな。

彼は目を丸くした。一呼吸置いて、乾いた血糊が剥がれて落ちる。嘘臭い笑顔は崩れていた。年相応の、ある意味では彼らしくない、驚いた顔だった。
サイスは再び窓を見やる。吐き気は消えて無くなっていた。


▲ ルージュとノワールの毒


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -