休日・姉


LINEの通知で目が覚めた。
遠くから聞こえた機械音に意識がゆっくりと浮上する。カーテンの隙間からこぼれる日差しが明るい。しまった、寝坊した……そう思いながらも睡魔に浸った身体はなかなか動こうとしない。
眠りの浅瀬をうつらうつらと行き来しながら、今日が休日であることを思い出した。
枕元に置いたスマホに手を伸ばす。温かい布団にもぐりこんだまま通知を眺めた。メッセージは姉からだった。

『今日はお休み?』『うん。まだふとん』『もう9時だよ』『んー』

とりとめのないやり取りを何度か繰り返す。
スマホを操作しているうちに意識が少しずつはっきりと、身体が目覚めていくのを感じた。

『春がよければ今日ランチ行かない?』
『りょうかい。12時にいつものお店がいいなあ』

特に予定のない休日だ。二つ返事でOKしたわたしは、やっとの思いで布団から這い出した。ベッドの上でうーんと大きく伸びをする。身体の節々が鈍く痛むのを感じて、少し寝すぎちゃったかな、なんてことを考える。
日差しのあたるカーテンを開け、わたしは出かける支度に取り掛かった。
玄関を出たところで五条さんと鉢合わせた。

「おはよーぉ」
「おはようございます」

挨拶をしながら部屋を施錠する。いつも通り黒い服に身を包んだ五条さんが、あれれ?と言って首を傾げた。

「なんか、今日の春ちゃんいつもと違う」

五条さんがわたしのことをちゃん付けで呼ぶのは、だいたいが茶化している時だ。軽薄な言動が目立つ彼に対して、日頃の付き合いで(認めたくないけど)学んだわたしはあえてあしらうような態度で返した。

「そんなことないです。ふつうです」
「え〜? 褒めてるんだから素直に受け取りなよ」

褒め、……うん?
五条さんの言葉の意味が理解できず、今度はわたしが首を傾げる番だった。
カードキーを鞄にしまいながら五条さんを眺めた。いつも通りの真っ黒な服装に身を包んでいる。このマンションで絡まれる時は朝も昼も夜もこの格好だ。仕事着なんだろう、けど。そういえばこの格好以外しているところを見たことないな。抜けたところを感じさせない、もっと言えば生活感ゼロの、闇に溶け込むような黒服。
ふと擡げた疑問をわたしは思うまま口にした。

「五条さんって服それしか持ってないんです?」
「……そんなことないけど」

口元が3の字になった。

「ったくさぁ。春ちゃんって空気読めね〜」
「ええ?」

唐突な悪口である。
脈絡もなくそんなことを言われて「はいそうなんです」なんて頷くお人よしではない。かといい年上男性に言い返す度胸もなく、曖昧な反応を返した。
「まあいいけどさ。ってか早く行こ。僕遅刻しちゃう」
切り替えの早い五条さんに促され七階のエレベーターに向かう。この話はどうやらこれで打ち切りらしい。
狭いエレベーターに乗り込む。二人分の重みで底が僅かに揺れる。一階を押そうと手を伸ばすと、それより先に後ろからにゅっと突き出された五条さんの手がボタンに触れた。1Fの文字がオレンジに点灯する。

「春はどこ行くの? カレシぃ?」

わざとらしい質問を五条さんはにやけながら投げかけてきた。何度も部屋に押しかけてきて、居ないの知ってるくせに。
横に並ぶとよくわかるが五条さんは背が高い。服の袖が触れそうな距離に立つと尚更実感する。狭い空間で彼の顔を見上げて、茶化された分を仕返す気持ちで舌を出した。

「残念でした。姉とランチです」
「あー。だよね。姉か妹だったら妹だと思ってた」
「……もー、さっきからどういう意味ですか。頼りないってこと?」
「なんとなくね。年下だから余計にかな」

あと怖がりだし、と五条さんは付け足した。それは妹関係ないだろ。
わたしが見上げるのと同じ角度で五条さんはこちらを見下ろす。目隠しの下にある瞳を見たことはないけれど、たぶん今、からかうように目を細めて笑っているんだろう。その証拠に口元がにやにやとしている。
わたしは口を結んで腕を組んだ。まったくさっきから、今日の五条さんは一言多い気がする。
「何? 怒ってんの?」「怒ってません」「まあ春ちゃんが怒ったところで怖くないからいいけど」「こっ、今度わたしの部屋に勝手に入ったらほんとに怒りますよ?!」「そんなこと言っていつも流されてるじゃん」「くっ」
エレベーターのドアが閉まり、鉄の箱がゆっくりと降下を始める。
この時わたしはなんとなく、本当になんとなく、エレベーターの外を見た。
通路を挟んだ六階へと続く階段の暗がりに、何か動く影を見た気がした。

「……?」

目を凝らした。見間違えでなければ、人影だった。

(女の子……?)

小学生くらいだろうか。それは女の子の姿をしていた。
女の子がゆっくりとこちらを振り返る。エレベーターがわたしの意思とは関係なく下っていく。階を跨ぐのと横顔を捉えたのがほとんど同時だった。視界を遮られたわたしは呆けたように一点を見つめていた。
「春? どうした」隣で五条さんが怪訝そうな声を出す。どうやら急に無言になったわたしを不思議に思ったらしい。
「いえ。なんでもないです」答えながら、わたしは背筋が寒くなるのを感じた。今の女の子、……足が、変な方向に曲がってた、ような。

いやいや、まさかね。
そんな、怪奇現象なんて……生まれてこのかた見たことないし、なんなら心霊番組だってヤラセだって信じてるもん。
だけど、思い込みとは裏腹に、すっきりと一つ結びしたうなじがさっきから冷たい。紛らわせるように手のひらで撫でた。
「そっ、そういえば」「うん?」努めて明るい声を出すと、五条さんがいつも通りのテンションで応じた。

「五条さんはどこに行くんですか? カノジョ?」
「うるせー余計なお世話」
「人には聞いたくせに……」

ノータイムで返ってきた台詞にちょっとだけ笑った。
わたしはほっと息をついた。安心した。五条さんは何も目撃していない。やっぱりアレはわたしの見間違いだ。
エレベーターが一階に到着した。外に出ると、昼下がりの眩しさに目が眩んだ。
そう、目の錯覚。気にすることはない。

「僕ねえ、今から大阪なんだよ。出張出張。明日には帰ってくるから寂しがらないよーに」
「そうですねー、お土産はしょっぱいのがいいです」
「話し聞いてた? 仕事だっつーの」

揃ってエントランスを出る。駅方面へ歩くのだと言う五条さんとわたしは反対方向だ。
わたしは何も知らなかった。
五条さんが何の仕事をしているのか。出張の単語が出たこの時に聞いておけばよかったと後になって思う。彼がわたしに付き纏う理由だって、まだ、見当さえつかなかった。


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