引越し初日


「こんなもんかな……」

ローテーブルに広げた焼き菓子の詰め合わせを眺めてわたしは一人唸った。
引っ越しの挨拶に準備したのはいいものの、甘いもの嫌いな人だったらどうしよう。710号室はエレベーターを降りて一番手前の角部屋だから、とりあえず隣室ともう一室奥の分を二つ用意した。気に入ってもらえたら嬉しいけど、もし嫌な顔をされたらさっさと引き下がろう。焼き菓子だし賞味期限は持つから自分で消費してもいいし……。
引っ越し初日は慌ただしい。業者の出入りや荷物の運び込み、荷ほどき。挨拶は初日に済ませたくてお菓子自体は優先して準備してたのに、いざシチュエーションを考えると今さら気後れしてしまう。
スマホに何かのアプリのポップアップ画面が浮かび上がった。ついでに時間をチラ見するとそろそろ十七時を回ろうとしている。これ以上遅くに訪ねるのは迷惑だよなと思い立ち、お菓子を手に立ち上がったその瞬間。
ぴんぽーん。間の抜けたチャイムが部屋に響いた。
こんな時に誰だろう。マンションの七階、しかも引っ越し初日である。
……引っ越し業者かな。何か手違いがあったとか。無防備にドアを開けると、そこには見知らぬサングラス男が立っていた。
背高っか……! 首を傾けないと正面が拝めないほどの身長に、黒を基調とした露出の少ない服。怪しすぎる。わたしは備えつけのドアホンカメラを確認しなかったことを後悔した。

「あの、どちら様ですか……?」

ノブに手をかけたまま恐る恐る尋ねる。できることならこのままドアを閉めてしまいたい、けど、ひとまず我慢だ。不審者と決まったわけじゃない。
来訪者は朗らかな声とサングラスの奥で笑っているであろう瞳をわたしに向けた。

「僕は709号の五条悟だよ。隣に住んでんの。これからよろしくね」

向こうから挨拶に来た……だと……?!
わたしは一瞬動きが止まった。
五条と名乗った男はどうやら軽いテンションの持ち主らしい。わたしが手に持ったままだった余所行きの菓子袋を目ざとく見つけて「もしかしてそれ、今から僕のとこ来ようとしてた?」と言う。
正解っちゃ正解なのだけれど、どちらかと言えば図星をつかれた気がしてわたしは曖昧に笑った。五条さんのテンションに気おされたのもあるし、なんとなく気恥ずかしかった。
だけど、ここで渡しそびれてはせっかく準備したのに意味がない。隣人ということは、わたしがこの部屋を二年契約したので五条さんが引っ越さない限り近所付き合いが続くということだ。初対面でこれほどフランクな五条さんなのだし、廊下ですれ違えば気持ちよく挨拶を交わしたい。

「ご、ゴジョウ……さん? これ、つまらないものですが」
「やったあ。僕甘いもの大好き。大事に食べるよ」

快く受け取ってくれて良かった。甘いものが本当に好きなのか社交辞令なのか、今のところ知る術はないけれど、ひとまず五条さんが嬉しそうにしてくれたので胸をなで下ろす。
わたしはもう一つ、手に残った詰め合わせを持ち直した。

「迷惑を掛けないよう気をつけますのでよろしくお願いします。あの、五条さんのお隣……708号室の方にも挨拶しようと思ってるんですけど、どんな方なんですか?」

印象を聞いておけば今回みたいに狼狽えることはないだろう。五条さんは見た目が怪しいしどことなく胡散臭さがあるけど、そんなものはこれから付き合っていくうちに晴れていく些細な事柄だ。
お菓子を前に子どもみたいに笑っていた五条さんがふいにキョトンとした表情をする。

「この階は君と僕しかいないよ?」
「……えっ?」

なんて事のないように五条さんは言った。
わたしは咄嗟に言葉の意味が理解できなかった。ドアから身体を出して、廊下を確認する。
七階には確かに十個の扉がある。

「でもそこ……ドアありますよ?」
「ああ。この階ね、残りの部屋は全部僕が借りてんの。だから誰もいないよ。あはは」

軽快に笑う五条さんから、わたしは少し、いやかなり身を引いた。どういうこと?
物置きにしてるとか。でもそんなに部屋数いるか?
もしかして仕事用? だったら一箇所に集中させないで点在させたほうが良さそうだけど。
部屋を九つも借り入る理由は、果たして。

(やっぱりこの人、怪しすぎる……!)

「えっと、すいません。今後ともどうぞよろしく……」

意味不明な謝罪をしながらドアを閉めた。
いや閉まらなかった。
五条さんが、ドアにストッパーを噛ませる要領で革靴を突っ込んできたからだ。へらへらと笑いながら、声音は明るく、仕草はこちらの反抗を許さない圧を発している。自分の頬がヒクリと引き攣るのがわかった。

「そんなに怖がらないでよ」
「こ、こわがってなんか……」
「だよね。よかった。僕ね、君と一緒に暮らすの楽しみにしてたんだ。七階を一室だけ残してみたりね、そうすれば君は僕の隣人でしょ」
「ひえっ」
「あー隣人なんて回りくどいな。同居人のほうがよくない? いいよね」

強引な手つきでドアの隙間を広げて五条さんは部屋の中へと侵入して来ようとする。わたしは慌てて両手に力を込めてそれを阻止しようと励んだが、男女の力の攻防などすぐに勝敗がつく。五条さんが「君、もう部屋は解約しなよ。家賃は僕が払うからさ」なんてにこやかに笑うのでわたしは気が遠くなった。

(も、もう引っ越したい……。)


2019.10〜2020.5
拍手お礼文


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -