はいもう一回


『エレベーター調整中』

「うそでしょ……」

エレベーターを封印するかのごとく扉に貼られた貼り紙を見て、わたしは悲鳴をあげた。
仕事帰りにディスカウントストアで買い出ししてきたので両手が重い。手のひらに食い込むほどの重量を持つレジ袋からびょんと飛び出たネギが太腿に擦れ、なんだか悲しくなってくる。
今日はまるでツイてない。朝から二度寝に失敗して仕事にはギリギリで遅刻するし、揚げたてのカレーパンを網から落とすし、お客さんにはお釣りを渡し損ねた。どれも自分の注意散漫だとめげずに一日頑張ったというのに、帰宅した途端にこれだ。今日の星座占いはきっと最下位だったんだと思う。
仕方がないので七階まで階段を使おうと重い荷物を手に進行方向を切り替えると、反対側のエントランスから五条さんの声がした。

「やっほー、春ちゃん」
「五条さん。いつも急に現れますね……」
「だって帰るとこ同じじゃん。しかたなくなーい?」

ひょいひょいと石を跨ぐような軽い足取りで五条さんは階段へと歩いてくる。エレベーターを気にしていない様子で、調整中であることは知っているらしい。

「何日か前にお知らせが来てたよ。終日使えませんって」
「え? 見ないで捨てちゃったのかな。朝は普通に動いてましたし」
「そりゃ春ちゃんの出勤が早朝だったからでしょ。こういうのって業者が入るからだいたい九時からとかじゃん」
「あ、そっか。そういえば五条さんも今朝は早かったみたいですね」

言いながら、隣室の生活音に安心して二度寝してたら遅刻したことを思い出す。情けないから口が裂けても言えないけど。

「なあに? そんなに僕の生活が気になるの? いやん、照れるな」
「早朝って静かだから隣の部屋の音聞こえますもん」
「僕はそんなに聞こえないけど」

まだ何か言いたげににやにやする五条さんは無視して階段をのぼり始める。
このマンションは結構壁が厚くて防音に優れている。隣室の生活音が聞こえにくいのは事実だし、わたしが自分の安堵のために耳を欹てていたのも事実だ。ヘンタイっぽいので絶対に言いたくない。五条さんの性格だと今後のからかいのネタにされること必須だ。
それに。
わたしがあの時求めたのは、五条さんの気配、存在感だ。朝から夢見が悪くて、ひとりぼっちの寂しさに押し潰されそうになって、あなたの存在に安心しました、なんて。

「……さっさとのぼっちゃいましょう」

なんとなく気恥ずかしくなって、わたしは手と足に力を込めると五条さんを置いてすたすたと階段を上がった。
が、すぐに追い抜かれた。

「貸して」

すれ違いざま、両手にさげていたレジ袋を二つとも奪われる。安かった洗剤やシャンプーなんかも買ったせいで随分と膨れ重みのあるそれを、五条さんは軽々と片手で持ち上げた。

「ほら行くよ、春ちゃん、僕より若いんだからへばんないでよ」

とんとんと軽快にわたしの前を歩いていく。
あれ、なんか変だ、と違和感を覚えて瞬きする。いつもなら隣でわたしのことをからかう五条さんだから、背中を見るのは珍しい。変なのはこんなことにいちいち喜んでしまうわたし自身だ。
ついていきたくなる背中とでも言うのだろうか。広い肩幅を見つめながらトン、トン、と追いかける。

「五条さん、ありがとうございます」
「なに? 荷物? いいよこんくらい。僕男だし」
「それもだし、色々と。あ、今度わたしが働くパン屋に来てください。サービスしますから」

甘いパンもあるので、と提案してみると、数段先にいる五条さんが不思議そうな、けれどどこか楽しさの滲む表情で振り返った。

「なんか春ちゃん変わったね」
「……そうですか?」
「家にも入れてくれなかったのに、職場に誘うなんてさ」
「それは五条さんが勝手に押しかけてくるからで、」

ふうん、と五条さんの口元が笑う。黒いサングラスの奥では、あの空色の瞳がからかうように笑んでいるのだろう。
見えない造形を見た気になって、胸をざわつかせてしまうほどに、わたしは。

「もしかして僕のこと好きになっちゃった?」

「……え?」

段差を昇ろうとした足が思わず止まった。ぐ、と心臓が鷲掴みされたような感覚。
まさか五条さんから話をふられるとは予想もしていなくて、咄嗟に口籠るわたしを見て、五条さんは先を促すように首を傾げる。

「どう? 僕が春を守ってあげるよ」
「そ、それは……」
「ん?」
「五条さんは、わたしを好きってこと……ですか?」

こんな、部屋に向かう階段の途中で、なんて恥ずかしいことを尋ねてるんだろ。
勝手に部屋にあがりこんだりお土産を置いて行ったり、やけにわたしに構いたがる五条さんはとにかく謎が多くて、行動は明け透けでも心情が窺える機会はほとんどなかった。訊きたかった言葉は声にしてみると随分と浮ついたものに聞こえて、自分の口を少しだけ恨む。でも最初に言い出したのは五条さんだ。
緊張で微かに震えるくちびるを噛み、おそるおそる五条さんを見上げる。サングラスの奥にある瞳がどんな表情を浮かべているのか、今はわからない。
数段先にいた五条さんがわたしの高さまで戻ってくる。足音は、先ほどよりもゆっくりと、トン、トンとわたしの耳に届いた。

「好きだよ。当たり前じゃん。僕の今までの行動なんだと思ってたの」

買い物袋を持つ手とは反対の手が、わたしの頬をするりと撫でる。

「春は? 僕のこと好き?」

至近距離で甘い言葉をかけられてはその場に立ち尽くすしかなかった。

「えっと、その……五条さんのこと、いいなって……思います。だけどわたしまだ、あんまり五条さんのこと知らないっていうか……」

ああ、わたしの馬鹿。愛読してる少女漫画の主人公ならもっと気の利いた台詞を言うんだろうな。

「僕のこと? 例えば?」
「普段なにしてるのかとか……」

うじうじしている自分に恥ずかしさを覚えたその時、五条さんが噴き出した。

「ふは、そーくるか。そーだよねえ」

子どもみたいに笑う五条さんを、今度はわたしが不思議に思う目で見る番だった。
頬にかかっていたわたしの髪を五条さんは自然な手つきで耳にかけると、腰を屈めて、くちびるの横にキスを落とした。今までのどんなスキンシップよりも甘やかに、小鳥が囀るようなリップ音を残して。

「……っ?!」
「うん、その顔もたまんないね。今日のところはこのくらいにしてあげるから、僕以外に見せないでね」
「またそうやってはぐらかして……っ」
「いやいや、今は説明しても分かんないと思うよ。いつか話すから」
「五条さん……!」
「早く帰ろー」

何事もなかったかのように五条さんは階段を昇り始めた。あの言い草だと今日は本当に説明する気がないのだ。振り回されっぱなしのいつもの調子に心がわなないたけれど、これが五条さんなのだと諦めて後ろをついていく。
初めてキスをされた。くちびるのすぐ横を掠めた感触がまだ残っている。
今さらのように高鳴り始めた心臓が、うるさい。


七階に辿りついた時、わたしの心臓はもっとうるさくなっていた。
完全に体力不足だ。

「春ちゃん体力なくね? さすがに僕も何往復はしたくないけど」

今日はもう家にいるかあ、と言う五条さんの声は平常で、荷物も持ってるのに、ほんとに普段なにしてんだろと頭の隅で考える。乱れた息をなんとか整えた。
部屋の鍵を取り出そうと鞄を探り、血の気が失せる。

「あ……五条さん」
「なに? はやく開けてー。僕お腹すいちゃった、昼食べてなくってさあ。春ちゃんち何かない?」
「かばん……自転車のカゴに置いてきちゃいました……」

あまりにも買い物袋が重くて気をとられて、と頭の中で言い訳を並べる。同時に過ぎるのは『エレベーター調整中』の貼り紙。
やっぱり今日はツイてない。やることなすこと上手くいかない。
疲労困憊の足と空っぽの両手に放心するわたしを見て、五条さんは一言、にこやかに言った。

はいもう一回。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -