生活音


近頃よく夢を見る。胸にしまっていた引き出しの奥からフィルムが取り出されて、夜になると勝手に再上映を始めるのだ。

まだわたしが十代の前半だった頃。わたしを取り巻く環境が一辺に変わってしまった頃。
二人部屋にしては少し狭い自宅の真ん中で、わたしはお姉ちゃんと横並びになってカフェオレを飲んでいた。お母さんが手作りするカフェオレは牛乳と砂糖がたっぷりで、年相応に背伸びしていたわたしには甘すぎるくらいだった。
舌に乗った甘さをお姉ちゃんと笑い合って、それから、そのあと、どんな話をしたのかは覚えていない。取り留めのない内容だったと思う。
ただ、お姉ちゃんの性格を表すように、薄桃色の唇が繊細な動きで言葉を紡いでいたことだけは、まるで映画のワンシーンのように覚えている。

あの頃、わたしの心はいつも何かに巣食われていた。誰のことも大切にしたくない。お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも、自分自身も。
誰でもいいから呪いたいと願ったのは、怒りの矛先を誰に向けていいのか分からなかったから。自分の感情を消化できないほどに、わたしはまだ子どもだった。

『春ちゃん、あのね』

微笑みが見えない。お人形みたいな口元だけが動いている。
この人は一体、誰に向けて喋っているの。

『今日からよろしくね』
『……うん』



薄目を開ける。またこの夢か。女の幽霊に殺されそうになって以来、走馬灯のように昔の夢を見る。
寝返りをうった。カーテンの外はまだ暗い。出勤までまだしばらくの時間があることを知り、わたしはそのまま布団の中で虚な時間を過ごした。
忘れていた記憶だ。もう気持ちは古びている。気にすることはない。そう思うのに、負の感情はいつまでもわたしの胸の中をぐるぐると廻っている。
人なんて、誰もが気持ちよく生きているわけじゃない。みんな何か暗いものを抱えている。それを理解できるほど大人になったはずなのに、わたしだけが一人ぼっちで、底の見えない穴へ放り出されたような寂しさを感じた。
呼吸がしづらい。

「……、……」

物音がする。静まり返った部屋。微かな足音は隣の部屋から聞こえてくるようだ。
五条さんだ。まだ夜も明けていないというのに起き出しているらしい。今日は随分と早く出勤するんだなあ、とぼんやり考える。壁越しに微かに伝わる生活音は、孤独な空間に他者の気配をもたらしてくれて、わたしは少しだけ安堵した。

『あ、春〜。おっかえりぃ。お邪魔してるよ』
『でしょう? ほら、耳貸しな』
『さっきから赤くなったり青くなったり忙しーねえ、春ちゃん』

五条さん。変な人だ。人の生活空間にずかずか入ってきて、我が物顔で入り浸る。
壁一枚を隔てた空間でそれぞれ生活しているので毎日顔を合わせるわけではないけれど、最近は五条さんが隣にいることが当たり前のようになってきた。あんなに迷惑がっていた気持ちが懐かしい。

スマホの着信音が鳴った。続けて五条さんの声が聞こえる。壁に遮られて何を言っているかまでは聞き取れないけれど、会話のペースから時折り相槌をうっているのがわかる。こんな早朝だし仕事相手かな。

小さく息を吐き出すと不思議と気持ちが落ち着いてくる。隣の部屋から伝わる音を子守唄のように聞きながら、わたしはゆるりと目を閉じた。


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