すなおな反応


視界いっぱいに幽霊の手が広がる。爪が剥がれ赤い身が剥き出しになっている指や、何かに打ち付けて擦り傷だらけになった手のひら。肌色とは程遠い、腐敗したみたいに変色した腕。
人間、こういう時って、衝撃に備えて目を瞑るものだと思っていた。
スローモーションで流れる映像を、わたしはもはや他人事みたいに見ていた。たぶん恐ろしさに感覚が麻痺してしまったのだろう。地面にへたりこんでいる両足にもさっきから感覚がなかった。
だから、突然吹き飛ばされた女の幽霊の姿を見ても、一瞬理解ができなかった。
いや、こんな状況でなくとも理解はできなかっただろうけど。
幽霊の手がまさに鼻先まで伸びてきた直後、けたたましい音とともに、彼女は向かい側の壁に激突した。
何が起きたの。
映画でしか見たことのないワンシーンのような展開に頭はますます混乱を極める。衝突を受けた壁には大きく亀裂が入り、周囲は粉塵が舞っている。

「だいじょーぶ? 春」

エントランスの入り口から、聞きなれた声がした。
どうして、と信じられない思いで声がした方向を振り向く。
一仕事終えて今帰宅しました、と言わんばかりに五条さんは片手をあげてそこに立っていた。
「五条、さん……どうして」帰るのは明日になるって言ってたのに。いや、というより、聞きたいことは他にもある。
五条さんは、へたりこんだわたしの心情や、破壊されたマンションの一部には一切関知していないような、いつも通りの軽い笑みを浮かべて言った。

「だって春ちゃん、僕のこと呼んだでしょ?」

指摘され、何のことかと逡巡する。
たすけて。五条さん。
確かに言った。心の中で。
窮地に神様に祈るようなもので、まさか現実に起こるとは思ってもみなかったけど、ヒーローみたいに現れた五条さんに対してわたしはコクコクと首肯するので精一杯だった。

「すごいでしょ。僕の春ちゃんレーダー」

得意げに五条さんは言った。その冗談のおかげか、高性能すぎるでしょ、と脳内で突っ込めるくらいには気持ちにゆとりができた気がする。
「立てる?」わたしの隣に立った五条さんはスラックスのポケットに手を突っ込み、こちらを覗き込むように上半身を折り曲げた。
彼の背後ではまだもくもくと粉塵が舞い、白い煙が視界を塞いでいる。あそこから今にも幽霊が現れそうで気が気でない。座り込んだわたしは、立ちっぱなしの五条さんの脚の向こう側にある大破した壁に意識を持っていかれる。
わたしの挙動不審の意図に気づいたらしい、五条さんが付け加えた。

「大丈夫だよ。祓ったから」

ハラッタ?
はらった。払った。掃った。祓った。どれだ。
立ち上がろうと両足に力を入れて気づいた。立ち上がれない。
情けなく奮闘するもなかなか努力が実らない。まだ?と視線で催促してくる五条さんを見上げて、わたしはばつが悪く曖昧に笑いかけた。

「た、立てません……腰が抜けちゃって。はは……」

やだな、情けない。呆れられたよね。とマイナス思考が発動する。
その一方で、だって怖かったんだもん、しかたないじゃん、と相反した気持ちがぶつかる。
もう一度、なんとか自力で立ち上がろうと力を入れたその瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。

「ごっ、五条さん?!」
「世話が焼けるなあ。暴れたら落とすよ?」

脅し文句を口にされ、わたしは「う、」と小さく唸った。
膝の下に差し込まれた五条さんの右腕がわたしを持ち上げている。左腕は背中にまわされ、落ちないように支えてくれた。腕に抱えた一人分の体重を気にもかけない軽い足取りで歩き出す。わたしは横抱きされたまま、さっき脱出ルートに使ったエレベーターに五条さんと乗り込んだ。エレベーターが上昇する頃には、わたしは情けなさや羞恥を押し殺し、彼の腕の中で黙りこくっていた。
五条さんがハラッタと言った女の幽霊の姿を思い出す。七階に佇んでいた様子。襲い掛かってきた時の奇形。吹き飛んだ衝撃。
まるで怪物だった。
俗に幽霊と呼ばれる、いつの間にか背後にいるような、湿っぽい存在感ではなかった。攻撃を受けて身体が消滅するような。幽霊なんかより、もっと怪物に近いような。
疑問が脳内をせめぎ合う。知らず知らず、問いかけていた。

「……さっき襲ってきたのは、一体なんなんですか……?」五条さんはそれを知ってるはずだ。
「んー」はぐらかすとも、答える言葉を探しているとも捉えられる、曖昧な相槌。
五条さんを見上げる。すると、思っていたよりも近くに顔があって驚いた。そうだ、今わたし、五条さんに抱えられているんだった。
びく、と震えた肩が伝わったらしい。わたしを抱えなおすように腕の位置を調整しながら「なに、まだ震えてんの?」と五条さんがからかってくる。それから「怖かった?」とも。
殺されるのかな、と思った。幽霊だったら呪って殺す?

「……こわかったです」

口にした途端、目からぽろりと何かが零れ落ちた。
涙だった。慌てて下を向き、それを隠す。
五条さんはそれ以上何も言ってこなかった。
わたしは五条さんの腕の中でしばらく泣いた。泣きながら、助けてもらったお礼をまだ言ってないや、とぼんやり考えた。



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