縢をほっとけない

「新任の執行官?」
「そ。来週にも来るそうよ」

音楽雑誌をめくりながら同僚の六合塚が言った。
皺のない黒スーツにしっかり詰めたネクタイというお堅い格好にパンクな装飾が施された表紙はいささか不釣り合いではある。が、六合塚は生粋の音楽好きであることを知っているので今さら話題にするつもりはない。
六合塚はクールな女性だ。普段から口数もあまり多くはない。
しかしこの日は珍しく饒舌に話を振ってきた。

「相坂はどんな人だと思う」
「んー、征陸さんみたいに熟練の人だと頼りになるね」
「残念。年齢は若いらしいわよ。性別はあってる」
「じゃあ年が近いじゃん。それはそれでいいな、話し易そうで」
「どこかの監視官みたいに心配性で口煩かったら?」

六合塚が珍しく冗談まじりに言うものだからつい笑ってしまった。
わたしが吹き出すのとほぼ同時にスライドドアが音をたてて開いた。入ってきたのは今しがた話題にしていた張本人で、わたしたちは口を噤みつつ、からかい半分、反省半分に顔を見合わせた。
宜野座さんにわたしたちの噂話に気づいた様子はない。長い足を神経質にコツコツと鳴らしながらデスクへと歩いている様子からかなり苛立っているようだ。確か今日は公安局内でも重要な合同会議だったはず。

「ギノさん、おかえりなさい」

声をかけると「ああ」と短い応答があった。
宜野座さんは席につくとそれっきり、黙ってパソコンキーを打ち始めた。
局長に何か難しい案件でも吹っ掛けられたのだろうか、眉間に刻まれる皺はいつもより深い。

……今はあまり話しかけないほうが良さそう。
そう思って自分のデスクに向き直る。隣の席で六合塚はすでにてきぱきと仕事をしていた。

「おい、相坂。何をボンヤリしている。暇なら昨日の報告書をさっさと仕上げろ」
「はぁい」

宜野座さんの棘のある声がわたしに向けて飛んでくる。
六合塚の要領のよさを内心恨めしく思いつつも、この、あまり空気のよくない一係について改めて考えてみる。
ここ数ヵ月は怒濤の渦中にあった。忌まわしい事件を主軸に、いろんな人間が動いていた。敵も見方も関係なく。
大切な仲間を失った。
空席となった笹山執行官のデスク。一係は変化せざるを得なかったのだと、ムードメーカーの不在によりめっきり静かになった部屋の中で思う。
あの事件以来、常に苛々している宜野座さんと、表向きは変わらず沈着冷静に仕事をこなす六合塚。黙って一係を見守る征陸さんと、黙って執行官として戻ってきた狡噛さん。

「……新任の執行官、賑やかな人だといいね」

これ以上、四角い部屋に角を作りたくない。
言われた通り報告書をまとめながら、願掛けめいた気持ちでわたしは呟いた。
宜野座さんの手前、六合塚は何も言わなかったが、そうねと同調するように肩を竦めるのが見えた。



「――征陸さん?! どうしたんですか、その怪我っ……」

腹部を血に染めた征陸さんが帰ってきたのは、それから7日後のことだった。
内勤していたわたしは慌てて立ち上がり征陸さんに駆け寄った。駆け寄りながら彼の全身を観察した。染みは一ヶ所だけ、顔色は悪くない、意識もはっきりしている。何より、一人で立ち歩いている。

「心配はありがたいがね、相坂。こいつは俺の血じゃねぇよ」

征陸さんは落ち着いた声で言った。
声音に制されてわたしは立ち止まる。白いシャツの赤く染まった部分をまじまじと見つめた。変色の具合からしてもやっぱり血液だ。でも、征陸さんのものではないとなると。

「返り血ですか」
「それも違うな。というより、俺よかコウの心配してやってくれ。あいつのが手酷くやられてる」

そこまで言われてようやく今日の勤務メンバーを思い起こすことに至る。征陸さんと狡噛さん、宜野座さんに、それから確か――

「やめてくれとっつぁん。大した話でもないだろ」

征陸さんの背後から現れた狡噛さんの頬には、斜めに細く赤い線が走っている。
まだ新しい傷だ。

「それ……まさか銃痕なんて言いませんよね」
「ああ。引っ掻かれただけだ」
「潜在犯に?」
「新入りにさ」
「は? 何があったんです」
「さあな。気に入らなかったんじゃないのか、猟犬の仕事が」

――新任の執行官。
彼の配属日が今日だ。
初日に事件にあたって気の毒に、なんて考えていた。朝イチで現場に呼ばれていたので内勤のわたしは顔を合わせていない。
が、書類には目を通していたので名前は知っている。

「征陸さん、じゃあその血も」
「ああ。坊主のもんだ。連携もなしに一人突っ走っちまってな、ありゃあ無鉄砲にも程がある――おい相坂、何やってる?」
「様子を見てきます」
「どこにいるかも分からんぞ。護送車を降りたとたん、官庁フロアにふらっと消えたんだから」

大丈夫ですと言葉にはせず視線だけを征陸さんに送った。
呆れた物言いをしながらも無駄足だと止められることはない。それがわかった上での行動だ。
征陸さんの横を通り抜ける。目の前に狡噛さんが立っている。
何があったのかは知らないが、狡噛さんが振り払われたのは確からしい。近い距離で見ればわかる、これは爪による引っ掻き傷だ。

「今はやめとけ。俺みたいに傷物にされるぜ」
「……ほっとけません!」

すれ違い様に聞こえた狡噛さんの声を振り切り、わたしは一係を飛び出した。



自動販売機のある休憩スペース、使われていない会議室に喫煙室、食堂……身を寄せる場所などその気になればいくらでもある。
しかしわたしは迷わずにある場所へと向かった。
宿舎だ。
一応警備室にも顔を出した。彼の部屋のドアと対峙することに特別な気持ちは何もない。部屋番号だけが記された無愛想な隔たり。手を伸ばし、控えめにノックした。
ノックをしてから、どう名乗ればいいのかだとか、何と声かけるべきだとか、考えていなかったことに気づいた。

「……」

応答がない。
部屋は間違えていない。本当に留守なのか、それとも居留守なのか。
ドアに手をかけると抵抗なく開いた。電灯はついておらず、数センチの隙間からは暗い奥行きが覗いている。カーテンも閉めきっているようだ。
室内に音はなく、人間の気配すら感じない。
恐る恐る隙間を広げた。
腹を決めて部屋へとあがりこむ。端から見ればただの不法侵入だ。
部屋の中はがらんどうだった。見渡してみても家具も装飾品もない。支給品である簡素なシングルベッドだけが左壁際に寄せてあり、そのすべてが暗い色彩に沈んでいた。
わたしは瞬きした。見間違えでなければ、ベッドの上に人がいる。
足を踏み出す。パンプスのヒールがコンクリートの床に擦れてコツリ、と乾いた音をたてる。

「……誰だよ」

あ、と思ったときには気づかれた。こんなにコソコソする必要はないのだけれど。
暗がりに慣れてきた目を凝らす。
ベッドに投げ出された脚、脱力したように壁に預けられた背中。こちらを見る目は『警戒』に満ちていて、そっから先は近づくなと睨んでいるみたいだ。

「あなたと同じ刑事課一係の人間。名前は相坂。……怪我してるんでしょ。手当てしに来たの」

ここへ来る途中、医務室から借りてきた救護セットを持ち上げて見せる。

「そんなもんいらねーよ」
「感染症にでもなられたら困るんだよ。刑事課は常に人手不足だし」



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