学長室からはちょうどグラウンドの様子が窺えた。
 晴天の下、若い青葉が鮮やかに映え、グラウンドに敷き詰められた砂土さえ白く発光しているように見える。学生生活の風景を切り取るならまさにこの場面が相応しいだろう。
 そんな一枚絵の中、まばらに散った高専生の中心で名前が必死に駆け回っていた。
 どうやら主に二年にしごかれているようだ。パンダに投げ飛ばされた小さな身体が棘の腕の中に落ちて行く。
 悟の向かい側のソファに座る夜蛾が、物珍しそうに窓の外へと視線を移した。声は世間話をするように軽い。

「聞き慣れない声がしてると思えば名前がいるじゃないか。悟が連れて来たのか」
「呪術師になるってうるさくて。ダメっつってんのに僕の言うことなんて聞きゃしない」
「諦めろ。お前の娘だ」

 それってどういう意味。
 思ったことがそのまま顔に出たらしく、高校時代の担任はこれ見よがしに肩を竦めてみせた。

「高専に入学させるつもりか? どういう心変わりなんだ。あんなに娘を呪術師にしたくないと言ってた癖に」
「そりゃ本音は今でも反対ですよ、呪術師なんてイカれてないと務まらない」
「そうは言うが、御三家生まれで相伝持ち、しかもお前の娘とくれば周りや上層部が黙ってないだろう」

 先ほどとは打って変わって、東京校をまとめる長らしく厳めしいトーンで夜蛾は言った。
 総監部からの通達や呪詛師の動向をあらかた共有し終え、話題は学生たちが鍛錬に勤しむ風景へと移行する。
 今まさに若い術師から洗礼を受けている名前は、それでもへこたれることなく果敢に身体を動かしている。顔立ちの似た父娘だとあらゆる場面でからかわれるが身長は似なかったので、年上連中に囲まれると小柄な体躯が余計に悪目立ちしていた。しばらく揉みくちゃにされた名前が力尽きたように膝から崩れた。身体的なポテンシャルはともかく、あのスタミナのなさは実践では致命的だ。

「上層部なんて僕が圧かけりゃすぐ黙りますよ。なんたって自分の身が一番可愛い連中なんだから」
「またお前はそうやって……」
「できれば真っ白なままでいて欲しいんだけどなあ」

 ジャージを砂埃まみれにして地面に突っ伏す名前に、恵が呆れながら手を伸ばす。
 その手をとった名前の横顔が、諦めとは無縁の、未熟ながらも強さを求める真摯な瞳をしていることを、他の誰でもない父親である自分がよく理解している。
 ひねくれた背中を見て育った娘のくせによくもまあ真っ直ぐ育ったものだ。成長を見るごとに、呪術師なんて不快な道を選ばないでほしいと身勝手な思いが強くなる。

「親のエゴだな。俺が言うまでもないが名前はしがらみが多すぎる。呪いを捨てて一般社会で生きていくには呪術師になるより努力が必要になる……が、多少は分かるぞ。お前の気持ちは」
「は?」

 思いもかけず柔らかい言葉を発した夜蛾に、悟は目を見開いて振り返った。

「父親になったんだな、悟」
「……背中痒くなるんでそういうこと言うのやめてくれません?」

 

 案の定半日でズタボロになった名前と、夕陽の差す帰り道を歩く。
 真希に強烈な一撃でも喰らったのか、隣で名前はしきりに横腹をさすっていた。悪戯心が湧いた悟は患部を軽くつついてみる。

「どうだった? 先輩たちのありがたーい授業は」
「あいた! やだ、触んないでよ父さん……めちゃくちゃ痛い。わかってたけど真希さんほんと容赦ないね……」
「真希は近接頭ひとつ抜けてるからね。いい経験になったでしょ」
「うん」

 幅のある歩道を、悟がガードレール側に立ち、名前は街路樹の横を素通りしていく。
 口をへの字にして痛みに耐えていた名前が、途端にまっすぐな表情を浮かべて頷いた。
 その視線が何を追っているのか思い至った瞬間、悟はなんとも言えない照れくささを覚えた。呪術師になることを反対する自分にとる反抗的な態度も、まだまだあしらうようにしか相手にしてくれない先輩術師に食らいついていく昼間の様子も、名前の原動力になっているのは父親に対する憧れだ。
 陽はゆっくりと傾いていく。オレンジ色に染まった道路に大きな影と小さな影が伸びていた。
 足元に転がった小石を名前はローファーの先で弾くと、ぽつりと呟いた。

「でも、ちょっと意外だった。父さん、わたしが怪我したり、危ない目にあったらいつも心配するでしょ」
「そりゃダイジな一人娘だからね。やっぱ先輩のしごきは止めてほしかったの?」
「そんなわけないじゃんっ。中途半端なことされたくないもん……そうじゃなくってぇ、その」
「お、なになに?」
「……今日はありがと」

 擦り傷の残る顎をくっと上げて名前は微笑んだ。
 歩幅を合わせてゆっくりと歩いていた足が思わず止まる。気づかない名前はさっさと歩いていくので、悟が我に返った時には数歩分の距離ができていた。
 まったく、そこで感謝するか。親の心子知らずなんて言うけど、世の中の父親が娘に勝てないわけが分かった気がする。
 いつまでも手の内でちやほやできると思っているのは大間違いなのだろう。名前の背中は巣立っていくように、夕焼けの中を一人で歩いていく。
 そして、ふと足を止めた。

「父さん? 何してんの、置いてくよ?」
「はーいはい。今行きますう……あれ、名前スマホ鳴ってない?」
「あ、ほんとだ」

 スマホを取り出した名前は、画面を確認すると嬉しそうに笑った。

「野薔薇さんからLINEきてる」
「LINEやりとりするほど野薔薇と仲良いんだ? 妬けちゃうな〜」
「そりゃあ同じ女性で呪術師してるんだもん。仲良しっていうか、わたしが勝手に尊敬してるの」

 何て返そっかなーと呟きながらフリックする名前の横顔は満身創痍のくせに楽しげだ。

「あはっ、見てよこれ。野薔薇さんから送られてきた画像。寮かな? 悠仁と恵が同じ顔してる」
「見せて見せて」

 差し出されたスマホにつられて近寄るのと同時に、名前のスカートのポケットから黒いものが落ちた。アスファルトとぶつかってカシャンと軽い音を立てる。拾ってやろうと腰を屈めて、悟は数回瞬きした。
 名前の足元に落ちたのは丸いサングラスだった。悟が持っているものと、よく似ている。

「……うん?」

 訝しく思いながら拾い上げると名前にもの凄い勢いで引ったくられた。慌てた様子で隠すように胸の前で押し抱いている。
 頭にメガネを乗せたままメガネを探すなんてベタなボケをかますつもりはなかったけど、悟は一応目元に触れてみた。フレームの硬い感触がある。そもそもあのサングラスは名前の裾から転がり出てきたのを見たし、必死になって誤魔化そうとする名前の可愛い姿が、なによりの証拠だ。

「それ、僕とお揃いのつもりで持ち歩いてんの?」
「わっ、わるい?!」

 悟の言葉に噛みついた名前の顔は真っ赤だった。
 生まれつき色白で、髪の色もしっかり遺伝しているので頬が染まると分かりやすくりんごになる。耳まで色づいているからにはよほど恥ずかしがっていると見た。
 六眼持ちの悟が使っているサングラスは特別仕様なので完全なお揃いは不可能であり、色味や形を似せているのは故意に違いない。どんな気持ちでペアルックのサングラスを選んだのか、どう考えても好意的にしかとれない名前の行動に、そして俯き加減に恥じ入る様子につい悟の感情が許容量を越えた。
 あの名前が。人前では素直で人懐っこくても、根っこの部分は自分に似て生意気で負けず嫌いな、名前が。
 歩幅を活かして一気に距離を縮めた悟に、名前は困惑したように後退りした。

「名前、スマホじゃなくてそっち見せて」
「ちょっ、何でニヤついてるの、気持ち悪いよ」
「だってさそれ僕とお揃いにするためにわざわざ買ったんでしょ? 大好きすぎない? 僕のこと」
「……う、」

 反応がわかりやすすぎて、まだまだ子どもだ。
 
「はあああ僕の娘が可愛すぎるんだけど。目に入れても痛くないからちょっと抱きついて良い?」
「良くないよこんな道端でっ!」
「僕も名前ちゃんが大好きだよ〜。お嫁に行かせたくないなあ」
「まだそんな先の話してないじゃん!」
「恵とか連れてきたらどーしよう……」
「な、なんでそこで恵の名前が出るのよ。ばかじゃないの!」

 うん、その反応は果たしてどっちだ。
 悟が抱きつこうとすると、恥ずかしいからやめて!と顔を真っ赤にした名前が腕を突っぱねて逃げていく。帰るところは同じだというのに、その子どもっぽさが愛おしい。
 家についたら甘やかそう。同じテーブルでご飯を食べて、風呂からあがったら今日できた擦り傷を手当てしてやろう。名前は嫌がるだろうけど、これから怪我は増える一方だろうけど、名前に傷を残したくない気持ちは悟の中で疑いようのない事実だ。
 呪術師として歩き始めた名前はまだスタートラインに立ったばかりだ。一人前とは程遠い。それは今まで名前を意図的に呪術界から遠ざけていた悟の根回しの結果であって、最強と呼ばれる立場に立つ悟との実力的な距離そのものでもあった。
 強くなってよ。僕に置いていかれないくらい。
 才能を芽吹かせようとしている少女を前に、かつて呪術師になる道を選んだ少年にかけた己の言葉を反芻した。

「父さん!」
 
 悟の手から脱出した名前が先をぱたぱたと駆けていく。振り返って、悟を呼んだ。

「ほんとに置いてっちゃうからね!」
「今行くってば、名前」

 悟は夕焼けに飲み込まれそうな名前の姿を軽快な足取りで追いかけた。



2022.6.14


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