六合塚さんに車椅子を押してもらいながら診察室を出たところで、今一番会いたかった人の姿を見つけた。
清潔を思わせる病院の白さの中、鮮やかな茶髪は存在感を放っている。おかげで廊下に立つ後ろ姿が縢さんだとすぐにわかった。
いや、単にわたしの願望の現れかもしれない。彼に会いに来てほしいという願い、会いに来てくれたらという想像――それは遠目から見たシルエットに対する希望的観測だった。
恥ずかしいような、焦がれるような。わたしの事を好きだと言ってくれた人が、けれど本当にそこにいる。そのことを理解した心臓の裏側がちりちりした。怪我をしていることも忘れて駆け出しそうになる。が、力を入れた瞬間、左腕と左足が割れるように痛み、結局動作には至らない。
縢さんはへらへらと笑いながら膝をつき、立ち上がれないわたしに目の高さを合わせると、やっぱりへらへらと笑った。

「ナオちゃん、また怪我してんねェ。今度は何? 階段から落ちた? もー、走るときは前見て走れって俺何回も言ったじゃん! 嫁入り前に身体中キズだらけにしてどうすんの。貰い手いなくなっちゃうよォ?」
「縢。ナオは左腕左足を折ってんのよ。鬱陶しい冗談はやめて」
「そっ、そうですよ縢さん! それに、前はちゃんと見てます!」

反論すると縢さんはおかしそうに目を細めた。それから、「クニっち、押すの代わるよ」と言って車椅子のグリップを握った。

「言っとくけどナオちゃん、被疑者追っかけるとき大抵前見えてないよ」

三人で廊下を進んでいく。六合塚さんの話だと玄関に迎えが来てくれているそうなので、このまま一係に戻り、今日の事件の報告をするつもりだ。

「そんなことないですってば」
「いーや。この怪我の量は並みじゃないからね。足元がお留守なんだよきっと。ねえ? クニっち」
「それには同意する」
「ふっ、二人とも酷い……被疑者捕まえたの、一応わたしなんだけど」
「日に日に怪我が増してるわよ」
「よくまあこれで執行官の適性おりたよなあ」

状況が完全に一対二になっていることを察して口をつぐんだ。もう何も言うまい。言ってもきっと墓穴を掘るだけだ。
包帯で吊るした左腕と固定された左足を見下ろす。被疑者を追いかけた際、ビルの螺旋階段を踏み外して負った怪我だ。腕と足の両方だなんてついてない。踏み外す直前に苦し紛れに放ったドミネーターの一撃が命中したのは幸いだった。おかげで取り逃がすこともなく収容できたのだから。

ナオちゃん、また怪我してんねェ。
貰い手なくなっちゃうよォ?

縢さんの冷やかし混じりの言葉を反芻する。
――確かにここ最近、怪我をすることが増えたかもしれないけど。ちょっとくらい、ちょっとくらい心配してくれてもいいんじゃないですか。
そんな、構ってほしさに怪我してる訳ではないけどさ。貰い手、いなくなっちゃうよお、って。
『一生で一回しか言わないからよく聞いとけよ。ナオ、好きだ』
数ヵ月前の明け方、まだ薄暗かった縢さんの部屋で初めて告げられた言葉。そのくせ事あるごとに身体を寄せて『好き』を連発するものだから縢さんマジ犬と思ったものだ。
なのに。
縢さん、わたしが怪我しても心配してくれた事ってあんまりないなあ……そんなことをふと考えてしまった。もしかしてわたしの事そんなに好きじゃないのかも、と。
首を伸ばして後ろを振り返る。わたしの視線に気づいたらしい、縢さんが余裕たっぷりの表情で「なあに?」とこちらを覗きこむ。

「……別にー」
「あれま、拗ねちゃった? ごめんって。ナオちゃん、よく頑張ってんよ」
「はいはい。どうせわたしは拗ねてますよ」
「……ナオ、縢は『無茶するな』って言ってるんだと思う」
「え。そうなの?」
「……さて、どうだろうね?」



意識が浮上した。
天井の白さには既視感がある。清潔を思わせる、染みひとつない衛生的な色彩。
ああ、病室か。また怪我したんだっけ……。何時間か前、潜在犯を追いかけてて逆に取っ捕まって、首をぐいぐい絞められた気がする。
ふと違和感を覚えて頭部に触ると、包帯の手触り。同時に全体に鈍い痛みが走った。
記憶にあるのは間近で獣みたいな息をする男の顔が最後だ。その後のことはぷっつりと映像が途切れている。首ならともかく、なんで頭まで怪我してんだろ……。

しばらくして身体が僅かな重みを感じていることに気づいた。病み上がりとは思っている以上に感覚が鈍るらしく、まるで呆けた反応しか示さない。
緩慢な動作で感触をたどり、視線を腹部のあたりに定める。
皺の寄ったリネンに埋もれて茶髪がくうくうと寝入っていた。

「……縢さん?」

備え付けの椅子に腰かけたまま上半身をベッドに預ける形で縢さんは静かに眠っている。
名前を呼ぶ。んん、と小さな吐息。それに合わせて髪の毛が揺れる。
目蓋の奥、穏やかな瞳が現れる。
しかしそれはすぐに、激しい感情を灯して丸く見開かれた。

「ナオ!!」
「えっ……うわ?!」

がばりと抱きつかれてまた頭が脈打つ。「い、いだいです……っ」苦し紛れに訴えても、縢さんの腕の力は緩まることを知らない。
ナオ、ナオ、とひたすらわたしの名前を繰り返す様子に、こんな切羽詰まった縢さんはなかなかレアかもしれんと馬鹿なことを考える。

「……縢さん、わたし、ここにいます。そんなに引っつかなくても、いなくなったりしませんよ」

ぱっと縢さんが顔をあげる。まったく今犬みたいに尻尾振ってますね? そう言って縢さんの必死の行動も、わたし自身の怪我も、笑い飛ばしてしまえと思った、のに。
縢さんがあまりにも真剣な目をしていることに気づいて、息を飲んだ。

「……このまま目覚めないのかと思った」
「え?」
「ナオちゃん、分かってる?! 何日眠ってたと思ってんの?! 丸々三日間だぜ! 信じらんねえ、俺すっげえ、……」

縢さんの顔がくしゃりと歪んだ。

「……すっげえ、心配した」

今度はやさしく抱き留められた。痛みよりもやさしい、縢さんの体重がじんわりと伝わってくる。
……心配した、だって。
片手片足骨折したときも、刺し傷を十針縫ったときも、冗談半分の言葉でわたしを嗜めていたあの縢さんが。
貰い手なくなっちゃうよォ、とへらへら笑っていたあの縢さんが。
彼の言う『丸々三日間』、もしかして、こうやってわたしの目覚めを待っていてくれたのだろうか。
思い込みかもしれない、けれど縢さんの気持ちの片隅に少しでもそんな思いがあったなら。そう考えると頬がふるりと緩んでしまった。

「……縢さーん」
「あーもう、マジで信じらんねえ。むしろ目覚めたのが信じらんねえ。大男にあんだけボコボコに殴られて首絞められて、ナオちゃんよく生きてんね。しぶと過ぎ」
「そりゃあ縢さんが心配してくれてたみたいですし。目覚めないと悪いかなと思って」
「よく言うよ! 気持ちよさそーにグースカ寝ちゃってさあ」
「あの、縢さん。せっかく起きたんだし縢さんの顔が見たいです」

べらべらと喋っていた口がぴたりと止まる。
仰向けになったわたしに被さるような体勢の縢さんの表情はここからは見えない。

「……いやだ」
「どうして?」
「泣きそう」
「……見たいです」

お願いします。ねえ、
なかなか顔をあげてくれない、わたしの鎖骨あたりにうずめたまま、縢さんはあーだのうーだの煮えきらない。
茶髪から覗く形のよい耳朶がらしくない珊瑚色に染まっている事はとりあえず言わないでおく。
首まわりからゆっくり腕が離れた。空調完備の病室であるはずなのにすきま風のような冷たさを感じる。
「やっぱ嘘。全然俺泣きそうじゃないし。見たって何も楽しくないからナオちゃんもっかい寝れば?」
縢さんの体重が、意地っ張りな言葉とともに名残惜しく離れて、いく。

「縢さんもそんな顔するんですねえ」
「……るっさい」


title/けしからんね

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