右手から何かが滑り落ちた。
はっと我に返る。いつの間に町中へ出たのか、あたしは制服を着て人の往来する歩道の真ん中に立っていた。
どういうわけか直前の記憶があやふやだ。なんでこんなところに一人でいるんだろう。必死に頭を巡らせてみるけど、なんにも思い出せない。
視線がふと足元に留まった。黒いビニール片のようなものが水溜まりに落ちている。そういえば今、手に何かを持っていたんだった。……手にしていたものの覚えはないけれど。
まるで何かを「誰か」に手渡そうとしたような。忽然と姿を消してしまった相手に、あたしの手は意味もなく空中で空振りして、何かは受け取られることなく落下してしまって……

「……あれ?」

何か、は、見覚えのない黒い折り畳み傘だった。あたしの持ち物ではない。けれど確かにあたしの手から滑り落ちたもの。
膝を折って水溜まりから取りあげてみる。注意深く見てみると、留め具のところに小さくイニシャルが書かれていた。
白いペンで書かれた、湿気にやや滲んだ『C.M』の文字。
誰の傘だろう。
首を捻った時、うなじにポツリと小さな刺激を感じた。顔を上げる。コンクリートみたいな色をした空が飽和して、水滴が少しずつ垂れ始めていた。

「……。
雨。」

ようやくひとつ思い出した。今朝の天気予報だ。今日は午後から降りだして夜まで小雨がつづくと言っていた。
濡れないうちに早く帰ってしまおう。そうは思っても、手元の黒い傘を使う気にはならなかった。誰の持ち物とも分からない不審からではない。何かもっと、あたしがこの傘を落としたことには、大切な意味があるような気がした。
結局、折り畳傘は使わずに鞄にしまいこんだ。水溜まりが飛び散るのを気にしながらあたしは雨の降る町を足早に後にした。



塾に通い出したのは三年生になってからのことだ。高校受験を来年に控えて、時間に焦りを感じたのがきっかけだった。
もともと勉強の出来は平凡中の平凡だ。塾の先生いわく「まだ切羽詰まらなくても大丈夫じゃねえの」ってレベルらしいけど、その台詞はあたしの頭の出来によるものではなくて先生の物臭さに由来するものだ。要は勉強を教える気がないってこと。
六月上旬、梅雨入りして間もない季節。学校を終えて、あたしは放課後の僅かな晴れ間にいそいで塾へ駆けこんだ。
がちゃん!
結構な音を立てて扉を開閉したというのに、先生は狭い教室の机に身を突っ伏している。白いシャツがゆったり上下するのと同じタイミングでくうくうと息を吐き出す音が聞こえる。たぶん、というか、明らかに昼寝だ。
この塾は駅前から細い路地に入ってさらに入り組んだ場所にあってとにかく立地が悪い。そのせいで塾生は少なく、お世辞にも栄えているとは言えない。今日だってこの時間の生徒はあたしだけだ。
先生の寝息は無視して二つしかない長机の後ろの席についた。前の席では先生が顔を伏せて寝ているから。数学の参考書を開いて静かに自習することにする。
数字と記号と解答欄。シャープペンをお供にしてそれらと睨み合う。どのくらい時間が経った頃だろうか、不意に前方から声がした。

「そこ、間違ってる」

赤みがかった茶髪の先生は、授業中に居眠りをしていたことを悪びれもしない。それどころか堂々とあくびをする始末だ。

「……間宮センセー。今って時給発生してますよね?」
「当たり前だろ。ブラックバイトじゃねーんだから。つーかその問題、前も間違えてたぜ」
「えっ」
「この公式あんだろ? これのここに代入すんの。で、最後にひっくりかえす。はい終わり。簡単じゃん」

馬鹿だなー、と今度は頭の後ろで手を組んでふんぞり返る間宮さんに、『梅雨』と書いたルーズリーフの切れ端を突きつけた。

「この漢字の読み、あててみて」
「……。うめあめ」
「はい不正解〜」
「あーあーうるせーうるせー! ガキは黙って数学やってろよ」

数学はてきめんに出来るけど漢字はめっぽう弱いのがこの間宮という先生だ。
実際は先生というよりは年上の先輩という印象で、その原因は間宮さんが高校指定の制服のままバイトしているからだと思う。不良よろしく腰までさがったスラックスと、ワイシャツは前ボタンが全開で中に私服の赤いシャツを着ている。どう見ても真面目にバイトして稼ごうとしているやつのファッションじゃない。
ぼんやり聞いた話によれば学費と生活費を稼ぐために、得意な数学の塾講師をなんとなく暇な時にやっているらしいけど。ほんとになんとなくなんだろうなってこの適当な授業を受けるたびにと思う。
いくつかの設問を解説してもらって今日の授業は終わった。適当だけど分かりやすいのが間宮さんの解説で、ときどき無駄なやり取りをしながら過ごすこの塾での時間があたしは結構、好きだった。
塾を出るとまだ空は晴れを保っていた。完全に夜を迎える前、夜と夕方の狭間で、空は薄い雲を敷いて紫色をしていた。
間宮さんも扉から身体を覗かせて「雨降る前に帰れよ」とあたしの背中を促してくる。

「間宮さんはまだ帰んないの?」
「俺? 俺はまだこの後授業あっから」
「じゃあ、はい、これどうぞ。今日は夜から雨降るらしいから。間宮さんの性格じゃ傘なんて持ち歩かないでしょ」

差し出したのはいつか拾った黒い折り畳み傘だ。
それを目にした途端、間宮さんの動きが一瞬止まったように見えた。

「……お前、この傘どうしたの」
「どうしたって?」
「お前んじゃねえだろ。イニシャルだってお前のと違うし」

留め具を指差しながら苦い声で言われる。言い訳めいた言葉が浮かぶよりも先に、目聡いなあとのんきに考える自分がいた。こんなに小さな文字なのによく気づいたなあ。
黒い傘。それはいつの間にかあたしの手の内にあったもの。あたしに『意味』の輪郭だけ残して、ほかはあのとき水溜まりに落としてしまった。
ずっとあのシチュエーションが頭から離れなかった。妄想だと一蹴されるかもしれない。けれどやっぱり、この傘には受け取り手がいたんだと思うし、記憶が不自然に途切れた現象にあたしはそう結論づけていた。

「この傘は……貰い物。なんか勿体なくて使えなかったんだけど。間宮さんにあげるよ」

間宮さんに傘を押しつける。渋っているようでなかなか受け取ろうとしない。
それどころか目の奥にいつもはない微かな険しさが宿っていた。
まるで何かを、自分を制約するものを、睨むように。

「……センセー?」

間宮さんが何事か決心した表情を浮かべた。
あたしの手から傘を奪って、それからまたあたしに押しつける。あたしはそれを反射的に受け取って――あれ、この、掌に乗せられた重さ。右手を伸ばした姿勢、目線。背の高いその人を見上げる。
あたしの視界には既視感があった。

「えっ……何?」
「お前がどうしてもって言うから、この傘は一度俺が貰った。で、それをまたお前に譲る。これでこいつはお前の持ち物。文句ねーな?」
「……ちょっと意味わかんないんですけど」
「馬鹿、俺はこれ以上ねえってくらい噛み砕いて伝えたからな。とにかく、この傘はお前んだ。これ持ってさっさと帰れ」
「お、おーぼーだ……」
「あん? センセーの言うことは絶対なんだよ。小学校で習っただろ」

どんな決心をしたかは分からないけど、いつになく真面目な顔で言うものだから気圧されたあたしはつい「はい」と応じてしまった。
あたしは右手にあるものを見詰めた。白い線で記された『C.M』の形に呼ばれた気がした。

「ねえ、間宮さんの下の名前って何?」
「個人情報は簡単には明かせませんー。特に俺のは機密情報です。俺のは」
「何それ。あたしの名前は知ってるくせに」
「そりゃ生徒の名前くらい知っとかないとセンセー失格だろ、ナオチャン?」

んん? あたしの名前ってこんなに馬鹿っぽい響きをしていたっけ? ってくらい間宮さんの口調はふざけていた。下心はまったくないのにどことなく色っぽさを感じてしまったのは完全に不覚だ。
ポツリ、うなじに小さな刺激があった。

「……。
雨。」

間宮さんも同じだったようで、あたしたちは同時に空を見上げた。
傘をさした。黒い折り畳み傘だ。

「じゃあ、またね。間宮センセー」
「次はあてろよ」
「?」
「問八」

振り返る。そこにはもう間宮さんの後ろ姿はなかった。カランと玄関の鈴を鳴らして閉じようとする塾の扉があるだけだ。
梅雨がくる。梅雨が明ける。夏が訪れる。そうしたら今度こそあの人に傘を返そう。この瞬間、名づけようのない気持ちをくれた人に。
あたしにくれた屋根が愛しかった。この季節がずっと留まってくれたらいいのに。


レイニーレイニー
『Ash.』様へ提出
BGMはチャットモンチー/湯気でおなしゃす


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