!ヤパロ



 蝉のがなりに満ちている。
 ナオは首筋に伝う汗をハンカチで押さえた。三十度を超える外気温は日陰にいても堪える。鯨幕に囲まれた盛夏の敷地内を歩く人間は誰もが黒い喪服を身に纏い、故人を悼み、それがまたさらにナオの心身を参らせるのだった。
 夏の葬列ほどさびついた風情のあるものはない。
 ぼんやりと佇むナオの視界の奥で、喪服の群れから一人が逸れた。その人物はまっすぐこちらに向かってくる。見覚えのある顔だと気づいたナオはハンカチを懐に戻し軽く会釈した。

「暑い中すまないね」
「ほんまやで。こんな暑苦しい時に死なんでもええやろ。行くのやめよか思ったわ」
「あんたの兄さんだろ」

 開口一番に文句を垂れるこの男はナオにとって義弟にあたる。実兄の葬儀だというのに準備に顔出しもせず一般参列者と同じ足取りでやって来た。兄弟仲がよくないのは知っていたし、直哉の難のある性格は昔から身に染みているのですべてが今更だ。
 ネクタイを緩めながら自然な動作で隣に立とうとする直哉をナオは一歩譲って日陰に迎え入れた。黒い草履の下で小さな砂利を食った違和感がある。

「やっと死んでくれたなんて言うなよ。あたしにとっちゃ大事な旦那だ」
「言わへんよ。言わんでもナオちゃんは分かっとるみたいやし」

 舌打ちでもくれてやろうかと思った。代わりに煙草を取り出すと、直哉が当然のようにライターを差し出して火をつける。

「何でそんなもの持ってるのさ」
「出る時に組に誰かが忘れていってな。持ち主に置き去りにされとる様がナオちゃんみたいで拾ってしもた。可哀想やなって」
「……タバコ吸わないだろ。直哉が持ってたって意味がない」
「意味ならあるやろ。ナオちゃんとオハナシできる」
「阿呆くさ」

 銃殺された旦那は組で大幹部だった。暴力団を中心とした関係者が多く参列し、それ以外にも繋がりのあった人達が頻繁に出入りしている。ナオの知らない顔もあった。相方が生涯を通して結んだ縁の入り乱れる黒い空間で気丈に立ち振る舞いつづけるのは骨が折れる。
 肺に吸い込んだ紫煙はいつもより重く、吐き出せば一切風の通らない宙へと行き場をなくしたように霧散していく。

「直哉。あんた周りに挨拶はしてきたんだろうね?」

 気を紛らわせようとして思いつくのは、直哉の世話を焼くことくらいだ。
 
「してへん。俺と兄さんは血が繋がっとっても別の組や。兄さんのために下げる頭は持ってへんねん。別にええやろ」
「その血が大事なんだろ」
「口うるさい姉さんやなあ」

 この世界では血の繋がりによる仁義を重んじる。例えそれが出生の系譜として繋がったものではなくとも、盃を交わすことで結んだ擬制の血縁関係が絶対だ。
 それを破って再起不能になった連中をナオは何人も知っている。厳粛な儀式を経て結ばれた血縁関係は命よりも重い。誰もが胸に刻んでいるその誓いは、同じ胎から生まれた者同士には適用されないのだろうか。
 少なくとも直哉はそうだ。十年前、出会った時からずっと。

「犯人分かったん? 殺されたんやろ」
「まだだよ」
「分かったらどうするん」
「さあね」

 蝉のがなりに満ちている。隣に立つ直哉の唇の動きさえ真夏の一枚絵に見えた。男の涼しげな顎の線に汗が伝うのを見届ける。咥えた煙草から白い煙が立ち、二人の間に薄い仕切をつくった。

「悪い。聞こえなかった」
「はあ? この距離で聞こえんことないやろ」
「本当だよ。少し疲れたからかもしれない。ねェ、もう一回言ってよ。今度は弟の戯言も聞き漏らさないから」

 弟、と揶揄いまじりの口吻を漏らせば、直哉は気に障ったように眉根を寄せた。

「弟扱いすんなって昔言うたやろ。きしょいねん」
「時効だろ、そんな昔の話。直哉にとってもあたしは姉。……ちがう?」

 初対面時の話だろう。まだ中学生だった直哉が興味本位で組の事務所に出入りするのを、すでに入籍の段取りを決めた男の後ろに控えていたナオが見咎めたのだ。ここは子どもが来るようなところじゃない、と。
 血の気の多い男共に比べてまだ幼さの残る眼差しをしていた。直哉はこれきり、裏社会を生きる兄とは別の道を選べばいいと、強く想う心が動いた。
 直哉が父親の組に入ったのは高校を卒業してすぐのことだった。
 何を思って極道者になったのか。生意気も過ぎれば傲慢な男が、義理と人情を重んじる世界で生きていくには敵が多いことなど明白だ。
 だからこそ本当の姉のように接してきたというのに。

「ナオちゃんは最初から兄さんの女やった」
「妙な言い方はよしとくれ。あんたに女扱いされると寒気がする」
「兄さんを殺したんは俺や」

 聞き間違いかと思った言葉が、意思とは裏腹に心臓に染みていく。軋むような心音が耳の奥にこだました。

「何だって?」
「――って言うのは流石にアホらしいな。女のために人殺しになるとか頭悪すぎやねん。運が良かったわ」
「……。言いたいことがあるならはっきりおし」

 情の欠片もない直哉の口ぶりはどこまでが嘘でどこからが本当なのか判別ができない。
 
「好きや。ナオちゃんのことどうやったら奪えるかずっと考えとった」
「だから死んで良かったって? 冗談が過ぎるよ」
「ああ、今のは内緒にしたってや。吹聴されたら俺、ナオちゃんの仇になるやろ」

 まさか、と短く息を吸う。直哉は女のために一喜一憂するような男ではない。そう思うのに、冗談を口にする直哉の目はどこか狂気を帯びている気がした。指先で長く積もった煙草の灰が落ちて、足元で砕けた。

「煙草、もうないやん。新しいのつけたる」

 ナオの懐から勝手に取り出した煙草を一本、直哉は差し出した。節張ってはいるが細く形の良い指先だ。死んだあたしの男にそっくりだと思いながらそれを受け取る。
 火をつけようとして、ライターがまだ直哉の手にあることを思い出した。

「血なんてどうでもええ。兄弟なんておってもおらんでも俺は俺や。自分のやり方で欲しいもん手に入れたる」

 ――何て名前なん。
 十年前、その場にいることを咎められた直哉が最初に発した言葉。
 ナオが名を教えると直哉は鸚鵡返しした。今思えば、あれはまるで与えられたものに所有権を刻むような、少年なりの儀式だったのかもしれない。
 目の前で火が揺らめいている。仕方なく寄せた顔をあげると、直哉が不敵に笑みを敷いていた。

「俺にも火、つけてや」
「……吸わないだろ。タバコ」
「吸いたい気分やねん。な、ええ?」

 箱から抜き取った煙草を唇に押し当てた直哉がねだるように首を傾げた。
 ライターを受け取る手が汗に濡れている。滑って一度失敗した。二度目でついた火種を見て、直哉がそっと口元を寄せる。

「何を怖がってんねん。火ィつけるなんて簡単やろ。引き金引けばええんやから」

 ――ナオちゃんはどうやったら俺のもんになる?
 初めて会った日、真顔で問いかけた直哉の眼差しを、幼さゆえの純真だと思って答えた。死ぬまであたしはあんたの兄さんのものだよ。
 蝉はがなりながら愛を求めている。首筋を伝う汗も暑気に紛れる白い煙も、壁に凭れる男の立ち姿と共に強烈にナオの網膜へと貼りついた。
 引き金、という言葉をわざとらしく使った直哉の真意は何なのか。
 脳裏に頭を撃ち抜かれた亡骸が浮かび、その奥には硝煙を燻らせる直哉がいる。潔白を主張する男の台詞とはとても、思えない。

「これでナオちゃんは誰のもんでもなくなったなあ」

 直哉の瞳がゆるりと弧を描く。その表情が示すものは紛れもなく愉悦だった。
 睨むと、双眸にはナオだけが映っていた。
 
「……あたしは絶対にあんたのものにはならない」
「ええねん別に。俺だけ見とけや」

 あの日の心の動きを恋だと認めていたら。今この手で灯した火種に憎しみが宿ることも、これほど歪な姉弟関係に堕ちることも、なかったのだろうか。



2022.8.28

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