夜の都会は目に痛い。雑多に並んだ飲食店からは眩ゆい照明が溢れ、電光掲示板は繰り返し点滅することで自己の存在をアピールしている。
入り混じったさまざまな種類の光に照らされながら、わたしはゆっくりと車のハンドルを切った。路肩に駐車しているタクシーの隙間に車体を滑り込ませる。後ろにいた普通車が迷惑そうに迂回し、やがて追い抜いて行った。
車道側に比べて光源の多い歩道は、車内から見ると逆光になって道行く人々の顔の造形が判別しにくい。腕を組んで歩く若いカップル、スマホで調べ物をしている学生風の男、チェーン店へと入って行くサラリーマン。人間の行動がシルエットになって様子を伝えてくる。
わたしは助手席の窓を開けつつ周囲を見渡した。あの男の写真を一度だけ見たことがある。人探しにはあまりよくない条件だったが根気よく捜し、ようやく声をかけるに至った。

「伏黒さん」

建物の壁の一部である打ちっぱなしのコンクリートに背中を預けていた伏黒さんがわたしに気づく。
気だるげに車に近づくと、今夜の迎えが初対面の女であることを訝しがった。

「誰だ? お前」
「時雨さんの代わりにお迎えにあがりました。ナオと言います」
「んなこと時雨から聞いてねえけど」
「急用で今朝母国に発ったんです。ホテルまでお送りしますので、とりあえず乗ってください」

乗車を促すが、伏黒さんは胡散臭そうな視線を寄越すだけだ。どうやらわたしの言葉を疑っているらしい。なんの変更連絡もなく現れた黒塗りの車で、しかも運転席にはスーツを着た知らない女。信用しろというほうが無理である。
さて、どうしようか。
連れこむための口説き文句を思案していると、後部座席のドアを開く重たい音がした。
意外に思って後方を見る。

「乗れっつっただろうが」
「まあ、そうですけど。こんな簡単に信用してもらえるとは思いませんでした」
「信用なんかしてねえ。どうでもいいしな。そんなことより姉ちゃん、送ってくれるんだろ? ホテルまでドライブしようや」

わたしは無言でギアをドライブに入れてゆっくりと車を発進させた。目の前に止まっていたタクシーの赤いテールランプが左後ろに流れていく。ルームミラーを確認すると詰まらなそうに夜景を眺める伏黒甚爾の横顔が映りこんでいた。まるで世の中に渦まくすべてのことが他人事だと言うような、興味関心の失せた視線だった。
彼が車に乗り込んだ瞬間に漂った硝煙のにおいがまだ鼻腔に残っている。それを少しだけ不快に思いながら、ビジネスホテルへと車を走らせた。



車内には沈黙がおりていた。ラジオもつけていないので、走行音とたまに操作するウィンカーの音だけが二人の間を流れている。目的地まではまだしばらくかかるため先に事務連絡を済ませることにした。

「時雨さん、一週間は向こうに滞在するそうです」
「あ? じゃあ明日は」
「わたしが同行します」

はあ、と大きなため息が後部座席から聞こえる。続けて「マジか」と面倒くさそうに呟いたのはおそらく、明日の依頼案件に「人間の後始末」が含まれているからだろう。
伏黒さんは組織に属さず単独で動く。よって可動範囲も限られてくるので、任務を遂行するにあたり用済みになった人物の処理を、必要に応じて時雨さんが請け負っていた。その時雨さんが明日はいないので代役を務めなければならない。
囮の役目を終えた人間、情報を漏らす可能性のある人間、消えることでこちらの利益となる人間、そういった者達を遠くへ運ぶか、もしくは殺害する。状況に応じた詳細は聞いているので自分にもできるはずだ。
同じようにやればいい。
問題は、時雨さんと違ってわたしとは初対面であること。連携にはある程度の信頼関係は必須だし、伏黒さんは粗野な外見とは裏腹に意外と疑り深い性格をしているようだ。

「女だからって回す仕事は変えないぜ。そもそもお前、時雨の何?」

前方の信号が赤に切り替わったので緩やかにブレーキを踏みこむ。
街中から離れた幹線道路で、周囲の明かりは減り、暗い車内のルームミラー越しに視線がぶつかった。

「部下です」
「部下ねえ。若いくせに、よくあんなヤツの下についたもんだな」
「あんな、とは?」
「食えない男だろ」
「ふふ。時雨さんには幼少の頃からよくしてもらいましたから。それに、案外かわいらしい人なんですよ」
「あ。お前らってそういう関係?」

身を乗り出した伏黒さんの顔に初めて表情らしいものが浮かぶ。面白がる声音のほかに、薄い唇が片方だけ吊り上がっているところからしても明らかに揶揄だが。詰まらなそうな態度をしていたけどそういうことには興味があるのかと思うと可笑しかった。本当にただの部下なんだけどな。わたしは振り向きざまに唇に指をあてた。

「ナイショです」



あがっていけよ、言われてわたしは伏黒さんの後ろをついてホテルの一室に入った。最初は断るつもりだったのだが「時雨に頼まれてるなら一杯付き合うのも仕事のうち」と言いくるめられてしまった。
街の中心部から離れた閑静な立地にあるビジネスホテルの一室は、セミダブルベッドと一人掛けのソファ、灰皿の乗ったローテーブルが置いてあるだけの殺風景な部屋だ。背の低い冷蔵庫から細身の瓶を二本取り出した伏黒さんが戻ってくる。

「女連れ込むならもちっとマシな部屋とっときゃよかったわ」

本気なのか冗談なのかわからない台詞を放ち、自分はベッドの縁にどっかりと腰をおろした。
伏黒さんの向かい側、一人掛けソファに失礼して、とある疑問が浮かんでいたわたしは正面から言葉をぶつける。

「アルコールは嫌いだと聞いてました」
「酔わないんだよ。ま、飲むふりだな」

伏黒さんは瓶のまま、わたしはグラスで軽く乾杯を交わして酒を煽る。

「時雨から俺のこと聞いてるんだな」
「古い友人だと」
「きしょくわりぃ」

は、と短く笑う声。
車内では暗くてよく見えなかった顔は、こうして明るい場所にいると端正な上にほどよく男の性を感じさせ、おそらくそこいらの女なら容易に落とせるのだろうと予想する。
仕事中のスタンスを保つつもりだったが、早くも伏黒さんの態度がくだけてきているのを見てわたしもつい癖で脚を組んだ。

「お前、名前は?」
「ナオです」
「そうじゃなくて苗字」
「……相坂ですが」

聞いたことねえな、と伏黒さんが思案する。

「どこかで会った気がした。術師の家系かとも思ったんだが」
「気のせいですよ。わたし、一般家庭の出ですから。呪霊は見えるけどそれだけです」

質問に答えるのと同時に伏黒さんの手がこちらに伸びた。あっという間に手元からグラスが奪われ、半分ほど残っていたアルコールをぐいっと飲み干す。
結構度数の高いものだろうに、顔色ひとつ変えずに口元を拭う伏黒さんを見て、グラスを奪われた驚きよりいっそ感心した。 

「酔わないってどんな感じですか」
「ヤなことあっても逃げらんねえ感じ」

アルコールで現実を有耶無耶にして一時的な忘却に陥るのはある意味享楽的な行為である。成人の特権だ。それができない伏黒さんはどこまでも綺麗な顔でくつくつと笑った。
伏黒さんはグラスを置くと、ゆったりとした動作でベッドから離れた。逃げる時間を十分に与えられた速度で、わたしもあえて身じろぎをせずに次の行動を待つ。
動揺を見せないわたしを良しと思ったのか、伏黒さんは薄く笑みを敷いたままソファの肘掛けに両手をつき、わたしの退路を断った。筋肉質な身体に前面を阻まれ、狭い空間に押し込められた気分だ。
しかもこれだけ至近距離に立たれては見上げるしかない。首を傾けて様子を窺うと、伏黒さんは今まさに舌舐めずりしていて、獲物に狙いを定める肉食獣のように映った。

「抵抗されるとか考えないんですか?」
「お前がホテルに入った時点で合意とみなした。明日も同行してくれんなら、ここでひとつ親睦を深めとくのも悪かねェだろ」
「一応、まだ勤務中なのですが」
「時間外はきちんと報告しとけよ」
「……同伴名指しでしましょうか?」

ばあか、それだと俺が時雨に怒られる、と伏黒さんは声を低くして囁いた。
その声音に誘発されたわけではないだろうけど、不思議と体温が上昇する感覚があった。血液に溶けたアルコールが四肢や脳を巡り始めている。半量近くを伏黒さんに奪われたのにこの酩酊感、渡された酒はやはり思っていたより度数が高かったようだ。
酔った勢いで、なんて時雨さんに言ったら怒られるかな。
伏黒さんの口づけを受けながら想像して、顰めっ面の時雨さんが脳裏に浮かんだ時点で思考を打ち切った。そりゃあ怒る、仕事相手とすることじゃない。だけど、触れた唇から伏黒さんが注いでくれる温度は思いの外やさしくて、身を委ねると心地いい。手つきも慣れているし、女の扱い方をよく知っているのだろう。
目を閉じると目蓋の裏で眼球がクラクラした。ねむい。きもちいい。あたたかい。循環の完了したアルコールのせいなのか、目の前の男の熱量がそうさせているのか、容易に思考を手放しそうになる。
わたしの身体を支えてくれている伏黒さんの首に腕をまわす。
うっとりと愛おしむように抱き寄せて、隠し持っていたナイフで彼の頸を貫いた。




「――ぐっ」

腕の中で女がくぐもった悲鳴をあげた。
ナオの構えたナイフの切先が皮膚に触れた瞬間、舌に噛み付いたのだ。食いちぎらないよう加減はしたつもりだったが表情は十分な苦痛に満ちている。
咄嗟に強い力で胸板を突き返されたが、それ以上の力で腕の檻に閉じ込めた。

「いてぇ?」

後頭部にまわした手で頭を固定し、口をくっつけたまま分かりきったことを尋ねてみると、本人は唾液と出血で舌がまわらないらしく苦し紛れに喘ぐだけだ。
無力も同然の手からナイフを抜き取る。酸欠で潤んだ瞳に初めて見せる攻撃的な色が浮かんだ。
横目で観察して気づいたことだが、ナイフは鋭利な暗殺用のものだった。

「何か仕込んでるとは思ってたが。物騒な女は嫌われるぜ」

わざと軽薄な声音で囁けば明瞭な瞳で睨み返される。酒に酔った熱っぽい仕草は演技だったらしい。まあ、それも匂いでなんとなく気づいてはいたけど。
茶番に付き合うのは得物を取り上げるまでと決めていた。

「返して」
「やだ」
「……離してっ」
「うるせーなあ」

黙らせる目的で口元に溢れた血ごと唾液を啜ってやると、なんとか身体を引き離そうとするナオに髪の毛を掴まれた。好きにさせようと思っていたが、容赦なく後方に引かれるのはさすがに鬱陶しい。戦利品であるナイフを床に捨て、自由になった手でナオの手を捻り上げた。
気の済むまで口内を犯してから顔を離すと、互いの間に赤く染まった糸が引いた。
構わずジャケットを脱がしにかかる。間髪入れずに腹部めり込もうとした膝を軽くいなした。ナオの脚力では正直痛くも痒くもない。
いくら突っぱねてもびくともしない身体を前に、さすがに無知な頭でも分の悪さを悟ったらしくナオは絶望的な表情を浮かべた。

「なんなの……あなた」
「さあな。お前の上司にでも聞いてみな」

術師殺しなんて(クソダサい)渾名で呼ばれている自分は、いろんなところで恨みを買っている。泣き寝入りすればいいものを、手駒を持つ組織連中は面倒な返報をしてくることがあった。
この女、初めは禪院家や高専の関係者かと疑ったが、天与呪縛に無策で挑むところを見るとむしろそういった弱小組織の下っ端なのだろうと予測した。わざわざ残穢の残らない暗器を仕込んでいたあたりに明確な殺意を感じる。
だが、人を呪わば穴二つなんて諺はあっても生憎こっちは呪力も持たない猿なもんで、自分の墓穴は用意していないしする気もない。
なんの感慨もなくナオを見下ろした。もはや敵わないことを頭では理解しているだろうに、胸板を突っぱねて逃れようとする細い体躯がいっそ健気な存在に思えてくる。口の端を汚す赤を親指で拭ってやった。

「殺すなら早くして」
「弱すぎてそんな気にもならん」
「じゃあ離して!」
「暴れんな。女を黙らすにはこれが一番なんだよ」

暴れる身体を抱えあげ、隣のベッドに放り投げる。
予定ではすでに殺しているはずの男にあっさり反撃され、組み敷かれたナオは黒目がちの瞳を大きく見開いた。
顔の横に両手をつき、形の良い耳朶に口を寄せる。

「聞くだけ聞いてやる。誰に言われて俺を殺しに来た?」

優しく問いかけてもナオは唇を引き結び答えようとしない。

「一枚ずつ脱がすか」

脅すために裂いてもよかったがあえて時間をかけて脱がせていく。ブラウスの最後の釦に指をかけたところでナオが悔しそうに呻いた。

「心当たりはないの?」
「ありすぎて分かんねえ」

まともな社会で生きたことがないのだ。恨みつらみなんぞはそのへんに転がしている。

「……あなたが先月殺した術師は、わたしの弟だった……」

胸の詰まりを吐き出すような声でナオは言った。

「誰の指図も受けていない。あなたを狙ったのはわたし個人の意思よ」
「弟ねェ。金にもならねえのにご苦労なこった」
「失敗してしまったけど」
「途中まではよかったと思うぜ。まあ、そもそも俺を狙ったのが悪かったんじゃね」
「みたいね」

ナオは諦めたように肩から力を抜いた。

「伏黒さんみたいな強い人は、弱い人のことなんてすぐに忘れてしまうんでしょうね」

初めて本音らしき言葉を吐いたナオに対して、なぜか言いようのない齟齬を覚えた。
この女は、自分のことを単なる術師殺しとしか見ていない。当然といえば当然か。出奔するまで外界とはほとんど縁がなかったし、今頃になって自分の名前を出す身内などいるまい。
術式至上主義の禪院家で落伍者とみなされ迫害されつづけた惨めな過去は、今でも澱のように腹の底に沈んでいる。忘れようにも、身体の一部と化したように消化できない。

「興味ねえな」

チッと舌打ちしてからブラウスの釦を最後まで外しきる。フリルのついた黒い下着が現れた。また暴れると思ったのに、予想に反してナオは静かだ。

「抵抗しねえの」
「無理です。さすがにもう、あなたから力づくで逃げられるなんて思ってません」
「よく言う、襲ってきたのはそっちだろ」

ナオは両手をあげて降参のポーズをとった。

「諦めます。わたしだって命は惜しい。殺されるよりマシです」
「他に武器仕込んでないだろな」
「なんなら自分で裸になりましょうか?」

顎を引き、挑むようにナオは笑ってみせた。
ベッドシーツに沈んだ身体は、上半身はシャツがはだけているしタイトスカートから伸びる脚もストッキングが破れて肌が露出している。随分と眺めの良い景色だ。口を割らせるために遊んだ結果だが、尚も態度を崩さない様子は逆に感心する。よほど強がりな女らしい。
その時、ローテーブルに放っていた携帯がタイミングよく鳴った。ベッドから退いて手にとる。着信表示は時雨だ。

「あんだよ」
『あんだよじゃねえ。伏黒、お前今どこにいるんだ』
「ホテル。躾の行き届いたお前の部下が迎えに来てくれたんでな」
『部下?』

なんの話だよ、と時雨の訝しがる声が通話口から聞こえてくる。後ろから入る雑踏は思いっきり日本語だ。時雨の不在をでっちあげた理由を思い出して笑えてくる。

「会ったら話す。明日は何時だ?」
『十五時。明日のクライアントは時間にうるせーから遅れんなよ。迎えがいるなら俺が行くけど』
「あー。いらん。明日はアテがある」
『アテ?』

は?と疑問符をつけた時雨とナオの声が重なった。
はだけたブラウスもそのままに、耳を欹てていたナオと視線がぶつかった。すぐに意図を理解したらしく、ぎゃんぎゃんと抗議の声をあげる。
最初に時雨の代わりだと名乗り出たのはこいつだ。

「行きませんよ。なんでわたしが!」
「タダで使える運転手がいるのも悪くねえだろ」
「理解できません。自分を殺しに来た人間を側に置くなんて……馬鹿にしないで」
「今夜は背中刺す練習でもしとけよ。ま、お前にできるとも思えねえけど」

時雨との通話を切り上げて、再度ベッドに近づく。片膝をつくとスプリングがぎしりと軋んだ。怯むように強張ったナオの顎を摘み、無理やり上を向かせる。

「それに、ツラは好みだ」
「……最低」

まったくその通り。こちとら生まれた時からどん底にいたんだ。今さら這い上がるつもりなんてない。
一度は目的を諦めたと言うナオの綺麗な顔立ちが歪むのを見下ろし、喉の奥で嗤った。


吝嗇家様に提出
テーマ/悪い女
2021.11.25


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