あまいろの空が広がっている。
ちぎれた雲と川を挟んだ町並み。一人暮らしの部屋から見える景色は、午前中に見るのが一番シンプルで綺麗だと思う。
春から夏にかけての移ろいの季節だ。網戸からは軽くて心地よい空気と、それにまぎれて煙草のにおいが漂っている。

「甚爾くん、煙草やめてー……」

窓際まで這っていくと彼の後ろ姿が見えた。ベランダの手すりに上半身を預けてぷかぷかと紫煙をくゆらせている。わたしの声に気づくと、ニコリともしない顔が振り返った。

「禁煙だっけか? ここ」
「禁煙だよ。アパート敷地内全面」

とは言っても甚爾くんは普段からベランダで煙草を吸っている。敷地内がどうとかいうより、わたしが今気分的に副煙流を遠慮したいのでやめてほしい。なんてクレームをつけても、この蛍族はやめないだろうけど。

「いいだろ。昨日買ったばっかなんだよ」

どういう理屈かはわからないが、そういうことらしい。
非喫煙者のわたしには伝わらない言い分である。モヤッとした気持ちが一瞬だけ胸を満たした。甚爾くんとわたし。違うのは年齢や性別、視線の高さだけじゃない。
甚爾くんは煙草を咥えたまま薄く笑った。人差し指と中指で煙草を挟むとゆっくりとした動作で持ち上げる。窓際で壁に背中を預けて座り込んでいたわたしに顔を寄せて、何を思ったか煙をふーっと吹きかけてきた。
突然煙草くささに包まれたわたしは咳き込んだ。眉を顰めて彼を見上げる。

「げほっ。もう、なにすんの」
「おすそわけ」
「要らないよ、もー……」
「煙が嫌なら奥にいろよ」

すう、と煙を吸い込む呼吸音。
澄んだ天色を背負った甚爾くんは、ムカつくくらいカッコいい。
長くなった灰がぽろりと落ちるのが見えた。

「甚爾くんの側にいたいからいい」
「あ? 何それ、死亡フラグ?」
「こっちの台詞だよ。何かあったんでしょ、甚爾くん。昨日から随分と機嫌がいいもん」
「良くちゃ駄目なのかよ」

はん、と鼻で笑われた。

「ねえ、変な仕事で稼いでないよね?」
「めんどくせえな。違ぇつってんだろ。何回も聞くなダルい」
「お金のことじゃなくて」

心配なんだよ。の言葉は言えなかった。
知らないことが多すぎる。たまにふらりと訪れる甚爾くんは、ごはんを食べて、シャワーを浴びて、わたしを抱きしめて眠る。
それ以外の時間をどう過ごしているのか、何の仕事をしているのか。たまにどっさりと置いていく金銭が何を意味するのか。自分の知らないところで移ろう事象がたまに恐ろしくなる。
その渦中で生きている人がわたしの隣で無防備に目蓋をおろす。甚爾くん、今日は何をしてたの。どうしてわたしのところに帰ってくるの。口元の怪我、どこで負ったの。
答えが返ってきたことはない。
甚爾くんは大きな身体を丸めて眠る。
わたしにできるのは、この小さな部屋で、受け入れることだけ。

「仕事してくる」
「……うん。いってらっしゃい」
「楽しみにしてろよォ。雑魚が多いおかげで今回は楽に稼げる」

ここに来た当初、灰皿がねえと騒がれたので灰皿代わりにわたしが置いた空っぽの缶コーヒーで煙草を揉み消す。
甚爾くんが仕事の話を漏らしたのはこの時が初めてだった。だからだろうか。魚の骨を飲みこんだような違和感が胸の内側からじわじわと湧きあがる。
あ、と足を止める。思い出したように言う。

「そういや一人いたな。油断ならねえのが」
「何の話?」
「こっちの話」

餌をやるようで与えない。すぐに話を逸らされ、部屋の中には煙草のにおいだけが残る。
それっきりだ。
甚爾くんに会ったのは、それが最後。
大金をばらまいた甚爾くんがわたしに、何がほしい、と尋ねたことがある。おいしいお肉が食べたいなあ、なんて冗談まじりに言うとたっかい焼肉屋に連れて行ってくれた。
違ったな。
わたしが欲しかったのはお金でも思い出もなかった。あの人が生きていた証が一つでも残っていたら。吸い殻が押し込まれた缶コーヒー。ベランダを汚した燃え殻。暴力でもなんでもよかったかもしれない。傷一つ残してくれなかった。ぞんざいな言葉づかいとは裏腹に。優しい人だ。
あの人の気配がなくなったこの部屋で気持ちだけが宙ぶらりんになっている。変わらないのは、それだけ。


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2021.5.31

その後のはなし

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