午前7時40分。
ドスンと重いものが床に落ちる音がした。次いで「いってぇ」と低く唸る声。扉を1枚隔てた寝室で起こったらしい惨事はその物音と台詞から容易に想像でき、わたしは思わず苦笑した。
ベッド、狭かったからなぁ。わたしが抜け出たあとも頼人は端っこに丸まっていたから、障害物がなかったせいで遺憾なく身投げしたのだろう――そのまま床に激突。
同い年である頼人は陸上自衛隊員として日中活動しているけれど、わたしはまだ学校に篭って大学3回生をしている。最近面倒くさいレポートを課されてそのための参考書だとか各資料だとかまあ要するに、角にぶつかると痛い厚さの本、それらが部屋に散乱している。頼人がぶつかってないといいけれど。頼人の心配もしているが若干、若干は図書室から借りた本の心配もしている。
わたしは現在向き合っている鍋の火加減を調節しながら、頼人がのびているであろう寝室の扉に声をかけた。

「頼人、今すごい音したけど、大丈夫?」

返事はない。
お玉ですくった中身を小皿に移し、熱さを確認してから口をつける。昨日作ったものだから味見は昨日の時点でしていたのだが――うん、悪くない。
よりとー、と鍋から目を離さず呼び続ける。
三度の沈黙を味わったところでようやく、ぎしぎしばたんと今までの趣向とちがった音がした。気づいたときにはがちゃんと扉が開き、そこにはグレーの寝間着を着た頼人が立っていた。

「……はよ、ナオ」

がらがらに嗄れた声だ。まだ相当に眠たいらしく目蓋は半分しか開いていない。寝癖のひどい後頭部を右手でがりがり掻きながら頼人はそこに立っていた。

「いーにおい」

素足をぺたんぺたんと鳴らして歩み寄ってきた頼人がわたしの肩口に顔を乗っけて鍋を覗き込む。ねぼけなまこで呟く頼人に、いたずらっぽく笑いかけてみせる。

「でしょ? 頼人が大好きなシジミの味噌汁」
「げっ、やだ。俺の大嫌いなシジミの味噌汁……」

寝惚けていた声が一瞬で覚醒する。頼人はシジミが苦手だ。
田舎出身で(わたしもだけど)幼い頃から山菜に囲まれて育ったらしい頼人はほとんど好き嫌いをしない。肉ばっかりを好む体育会系のような外見をしているし実際肉料理も大好きなのだけれど、意識の高い女子に引けをとらないほどのベジタリアンでもある。きのこも大好きでわたし以上に選りすぐりに詳しい。
田舎を出て都会にやってきた今でも頼人の実家からは直送で野菜が送られてくる。つい1か月前には大量にモロヘイヤが届けられて、自分のレパートリーのなさに絶望しながらも頼人と有難く、おいしく頂いた。
惜しむらくは、田舎の山育ちであったゆえに海鮮に弱かったりする。魚なら塩焼きや煮つけはうまいらしく、刺身もここ数年でようやく克服したらしい。が、今でも貝類はてんで駄目だ。シジミ、サザエ、ホタテ、その他もろもろ。焼こうが煮ようが二枚貝は無理。頼人の言い分である。サザエは二枚貝ではないのだが黙っておく。
わたしは自分でしたときと同じように、お玉で味噌汁を少量すくい小皿に移して、背中にへばりついたままの頼人に差しだした。今日の朝食にシジミの味噌汁を並べるのは、わたしなりにいろいろと意味を持っているつもりだ。

「ちゃんと食べてよね? 好き嫌いしてると大きくなれませんのよ」
「俺もう21だし」
「わたしの実家から送られてきたやつなんだから」
「……有難く食べさせていただきます」

頼人がしぶしぶというふうに小皿を受け取った。ふーふーと息を吹き冷ましてから一気に飲み干した。「おいしい?」と尋ねると頼人は小さく「……おいしい、です」。うん、この反応は想定内。
わたしは身をよじり、すでに食卓に並べている茶碗やお皿を指差した。

「味噌汁以外はほら、頼人のリクエスト通りだから。筑前煮と、おひたしと、卵焼きとー、あとはリンゴ食べたいって言ってたからリンゴもあるし」

ボウルを持ち上げてみせる。少しのレモン汁を含ませた水のなかでリンゴが揺らめく。
「うさぎにする?」「俺やりたい」わたしの背中から離れ、隣のシンクでじゃぶじゃぶと手を洗う頼人。リンゴを水から上げながらぽつりとつぶやいた。

「朝からありがとな。すげーうまそう」
「……頼人が無事に帰ってきてくれたから。ありがとうって、思って作ったの」

ずっとつけっぱなしだった火を止める。ほこほこと漂う湯気が眼球を曇らせていく。つんと痛む鼻孔をくすぐるのは、朝食のにおい。

「実家の父母もね、よかったねって。頼人が……生きて帰ってくれて。ほんとに、よかったね、って……」

つとめて明るく振る舞おうと決めていたはずなのに、一度意識すると箍が外れるのは簡単だった。まばたきをすると、突然、涙があふれてきた。
2週間前のニュース、新聞、雑誌。メディアが報道する内容はどれもわたしの精神を打ち砕くものばかりだった――【陸上自衛隊のヘリ、物資輸送訓練中に行方をくらます】。
頼人が乗っていたのが、このヘリだった。二士から陸士に昇進して、先月には誕生日を迎えて……陣営の同期や先輩方にもひどくお祝いしてもらったらしい。ふだん規律の厳しいなかで生活しているぶん、飲んで食べてのひとときの祝福は、それはそれは楽しい時間だったそうだ。電話をすると頼人が話してくれた。入隊前は自衛隊での集団生活を案じていたわりに仲良くやっているようで、わたしが頑張りなよと笑うと「おう、次は輸送訓練がヤマだな」なんて言っていた。
輸送訓練がヤマだな。その電話から3日後、頼人の乗ったヘリはこつぜんと消えた。
父母もものすごく心配してくれて、大学の知り合いにはどうしたんだと世話をかけ……1週間前、頼人の無事を知った。
死にたくなるくらい嬉しかった。頼人が生きている。生きて、ここへ帰ってきてくれる。
嬉しかった。

「嬉しかった、の……ほんとに」

涙があとからあとから頬を伝う。喜びも悲しみも考え出したらキリがない。だから今、わたしの胸に渦巻かせるのは、頼人の存在だけにしたい。
名前を呼びながら泣き崩れたわたしの肩に、温かいものが触れる。
頼人の腕だと、すぐに分かる。

「……ごめん、心配かけて。ちゃんと帰ってきたから許せよ」

濡れた手で、ふたつのお椀を渡される。わたしと、頼人のぶん。
頼人がこの部屋に私物を置くようになった頃、おそろいで買ったものだ。
腕をまわして首にすがった。ちゃんと、身体がある。温かい。
どうしてそんなことを言うの。許すよ。当たり前じゃない。
ありがとう。わたしのところに帰ってきてくれて。これからまた、今までの生活が続くんだと思うと、心の底から安心する。頼人の好きなものを作るよ。そして、2人で食卓を囲んで食べよう。生きていこう。今日の、幸せの延長線を歩くように。
頼人がぎゅっと抱きしめてくれたから、わたしもすがりつく腕にいっぱいの力を込めた。

「生きて帰ってきてくれて、ありがとう」





午前7時20分。
わたしはコンロの火をつけた。
昨日のうちに作っておいたシジミの味噌汁だ。しばらくして熱が通ると、湯気に紛れて温かいにおいが漂い始める。
作り置きの筑前煮とおひたしと、あとは卵焼きを作って、リンゴを切って、それから……
頼人を、起こしに行かなきゃ。きっとまだベッドの上で眠っている。
リモコンを取り上げテレビをつけた。2週間前からチャンネルの変わらないニュース番組。今日の天気予報が流れて、そのあとに、アナウンサーが悲しげな声で告げる。

『痛ましい陸上自衛隊ヘリ墜落事故から、今日で2週間が経ちました。現時点で死亡が確認されている隊員はイチフジニタカさん39歳、ミサワタケアキさん38歳、オキタヒロシさん31歳、……』

食卓に目遣ると、必死に掻き集めた新聞が山積みになっている。記事に記された文字はどれも、【陸上自衛隊】【墜落事故】【死者多数】――電話が鳴った。受話器をとらなくても誰からのものか分かる。
母だ。この時間になると毎日、母から電話がかかってくる。
毎回同じ内容の話なので、なんと返答するかは決まっている。今日もまた同じセリフを口にして受話器を置くのだろう。おかあさん、おはよう、うんわたしは大丈夫、心配しないで、ちゃんと大学にも行くから、がちゃん。
頼人を起こしにいかなきゃ。ああでも、もうしばらくしたら頼人は勝手に起きてくる。出会った頃から寝相が悪くて、外泊許可をもらってはうちに泊まりにきて、寝惚けてベッドから落ちて。
おはようって言いながらキッチンにやってきて、おいしそうって笑ってくれて。
ブラウン管のなかでアナウンサーが『速報です。』と慌てた。

『陸上自衛隊ヘリ墜落事故の速報が入りました。新たに隊員が発見された模様です。発見されたのは永井頼人さん21歳、発見時にはすでに心肺が停止しており――』

午前7時41分、
部屋には、朝食のにおいが漂っている。


朝ごはん/シジミの味噌汁
『チャミィ』様へ提出


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