「ナオちゃーん」

返事がない。
縢は電気ケトルから手を離した。ダイニングを覗くと、彼女の丸い後頭部が見える。
なんだ、居るじゃん。縢は軽くため息をつくと、ナオの座る二人掛けソファに歩み寄った。
髪の毛の隙間から形の良い耳が覗いている。視線はまっすぐ正面だ。何を熱心に見ているのかは知らないが、俺が呼びかけたんだから「なあに?」って反応くらいはしてほしい。
何のために今夜、ナオの部屋に泊まっているのか、もしかすると鈍い彼女は意図を汲んでいないのかもしれない。

「ナオちゃんってば。聞こえないのォ? 」

ソファの背もたれ越しにナオの肩を抱き寄せた。ようやく縢の存在に気づいたナオは一瞬驚いた顔をし、ごめんと笑った。

「気づかなかった。なあに、呼んでた?」
「何回も呼んだっつの」

本当は名前一回しか呼んでないんだけど。というのは伏せたまま、わざと拗ねた表情を作ってみせる。唇を尖らせるなんて子どもっぽい仕草のおまけつきだ。首をもたげたナオの顔を見下ろす。
指先を使って顎をつまむと、あっと言わせる前に口を押しつけた。
重なった柔らかな皮膚の下でナオがゆるりと微笑んだのがわかった。
暢気に俺を享受するナオをこのまま押し倒してやりたい。衝動が脳から指先まで駆け巡ったが、努めて自制の心を保つ。
ナオはこんなんであるが一応、監視官であり、縢の上司だ。ぼんやりしていることも多く、凡ミスをしては先輩監視官である宜野座に叱られている。「ごめんなさあい」というやや間の抜けた台詞はナオの専売特許だ。それでも一係監視官を何年も続けているのはどことなく愛嬌のある性格所以だろう。それか刑事に必要なものか、宜野座は険しい顔をして否定しているし、縢にとっても疑問ではあるが。
能天気。彼女を言い表すならこれだろう。縢は少なからず意地悪い気持ちになりながら、ナオの頬を軽く摘んだ。

「俺んのこと無視して、一体なにに夢中になってたのさ」
「んー」
「ほんと鈍いよな。俺たち今から何すんの?」
「何って……わわっ」

回り込んで、横から覆いかぶさるようにナオをソファに押し倒した。「な、何って。かがりくん」ナオはまだ状況を判断できていないようで曖昧に名前を呼ぶだけだ。

「俺が呼んだらこっち向いてくれねえと」
「……うん」

我ながら餓鬼っぽい拗ね方だと思いながらも、口にしてみると気持ちのいいもので、このどうしようもない言葉が自分の本音なのだと知る。
ナオちゃんは鈍感でトロい。でも、そこを含めて思うままにしたい。好きだ。支配欲。俺のせいでもっとドロドロになってしまえ。
何度も舌で触れた。縢が追いかけると、ナオは懸命に応えようと唇を濡らし、時折酸欠になったように息を荒くした。

「はあ……っ、ん、か、縢くん、テレビ消してくれる……?」
「いいじゃん、点きっぱでも」

それよりこっちに集中したい、と縢はナオの首の裏を撫でる。

「そ、だけど……気になるから、ね?」

ナオの仕草に縢はぐ、と息を飲んだ。乱されたせいで潤んだ瞳に上目遣いされては堪ったもんじゃない。
事の中断は不本意だが、縢は仕方なくナオの身体から離れ、リモコンを探す。
上半身を起こしたところで気づいた。ナオが気になると言ったそれ、テレビの画面は、ただの砂嵐であった。

「あ、あのさぁナオちゃん。これ何?」

この画面をついさっきまで、ナオは食い入るように見ていなかったか。
黒と白の点が散りばめられた、ノイズまじりの出来損ない。

「あ……それ、映画を見ようと思って」
「映画? なんでまた」
「トモさんに旧式の機械を借りたんだよ。100年くらい前の機械って言ってたかなあ。それで、弥生ちゃんにおすすめの作品を教えてもらったの。ほら、弥生ちゃん、そういうの好きだから」

そういうの、とは芸術方面の分野を指しているのだろうか。確かに六合塚はシビュラ公認の芸術家ではあったが。音楽と唐之杜以外にも趣味があったのかと縢は意外に思った。

「ほんとは監視官がこんなことしちゃダメなんだけどね。古い時代に固執してると宜野座さんに怒られちゃう」
「いや……ちょっとビビったわ。天然も上を行きすぎると怖ぇなと」
「失礼だな。うまく操作できなかったのよ。明日トモさん呼ぶもん」
「とっつぁんを部屋に入れる気? ダメ」

ローテーブルから探り当てたリモコンを操作し、雑な動作で画面を消す。とたんに部屋が静かになった。今の今まで砂嵐の発する雑音にも気づかなかったとは、よほどナオに夢中になっていたものだと縢は自分に呆れた。
これじゃまるで自分だけがっついてるみたいだ。
ナオの細い手が縢の頬を包んだ。遠慮がちに顔を引き寄せられ、触れるだけの口づけを施される。

「ばかだなあ、縢くんは。縢くんだけ。縢くんだけだよ、わたしに触れていいのは」
「……二回も言わんでいい」
「あ、照れた。かわいいなあ。もっと見せて?」
「もーいいから! もうだまれ」

食いつくようにキスで仕返しすると、ナオは幸せそうに縢の下で微笑んだ。



ナオが潜在犯落ちしたと一係に通達があったとき、一番驚いていたのは笑えることに宜野座だった。
どうしてあいつが、と狼狽える様子は、いつも彼女を頭ごなしに叱っていた宜野座からは想像もつかない。何だかんだ言って後輩を良く思っていたのだろう。明らかに縢より動揺しており、取りなす側に回ったおかげで縢は冷静さを失うことはなかった。

「ギノさーん、ちょっと落ち着いて」
「くそっ。何でお前はそんなに冷静なんだ。執行官は黙ってろ」
「言ってること無茶苦茶っすよ……」

縢はため息とともに肩を落とした。
ナオのデスクはまだ私物が置かれている。だが、彼女があの席につくことはもうない。
潜在犯落ち。監視官としての道は絶たれた。安定した生活水準を奪われたナオはきっと今頃、どこかの無機質な隔離施設に収容されているはずだ。
縢は一係の部屋を見渡した。執行官の面々は比較的落ち着いている。取り乱しているのはやっぱり宜野座だけだった。
俺もなかなかに薄情者だな、と縢は口の中で呟いた。恋人が犯罪者になったというのに、宜野座ほど激情に囚われていない。それどころか一歩引いたところで客観視している自分がいる。
穏やかな性格の女だった。公安局の女はおっかねえ奴ばかりだが、あいつはそんな刺々しさもなく、悪く言えば頼りないが、何事も「いいよ」と笑って許してしまうようなやつだった。
突然自分を裏切った犯罪係数を憎むこともなく、ただぼんやりと部屋の片隅に座り込むナオの姿が、脳裏にありありと浮かんだ。

「……ばかだな、あいつ」

どうしてもっと怒らない?
俺なんか施設で散々暴れまわったっつーのに。
誰に尋ねればナオの所在や様子を教えてくれるだろう。しかしそこまで考えて、ただの末端、それも執行官である自分にそんなことを教えてくれる人の良い人間はいないと思い当たるのだった。



あの時ナオが見ようとしていた映画のタイトルは何だったんだろう。縢はふと意識が途切れた時、知り得もしないことに考えを馳せることがある。
あの夜は、部屋に縢もいた。ということはナオは自分と二人で映画鑑賞をしようとしていたはずだ。征陸から機材を借り、六合塚に話を持ちかけ、宜野座に叱られないようにとこそこそと準備をしていた。
縢が消した砂嵐。それを見つめていたナオとはもう、数ヶ月会っていない。
仕事で施設に向かうことはあるが、どこを探してもナオの姿は見当たらなかった。

もうすぐ新任の監視官が一係に配属されるらしい。一人で一係を仕切っている宜野座がいい加減ピリピリしているのでそれが分散されるのはありがたかった。ナオがいなくなってしまった分まで叱咤されている日々におさらばできると思うと清々する。
清々する、のに。
前任者のいなくなったデスクは私物も撤去され空っぽだ。あそこに知らない荷物が置かれる。彼女の名前が呼ばれることもない。共に夜を過ごした部屋も、いまでは空室だ。
会いたい。
ナオがいなくなって数ヶ月が経ち、縢は初めて強く思った。

執行官と監視官の恋人関係なんざ、と最初は鼻で笑った。うわべだけの好きも愛情の薄い抱擁も片手間で足りると思っていた。
それなのに今、どうしようもなく彼女に会いたかった。

映画のタイトルなんていらない。執行官とか監視官とか潜在犯とかどうでもいい。俺が名前を呼んだら、「なあに?」って返事をしてくれる、それだけでいいからさ。



救済措置様に提出
2020.5.12

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