攘夷戦争の最中、陣営内ではとある噂で持ちきりだった。
とても強い男がいる。その男は、たった一人でいくつもの天人の敵陣を壊滅させたという。

絶望的な戦況のなか、こういった噂はよくあることだった。天人の圧倒的な武力を前に、人間はそういった並外れた力を持つ武勇伝をでっちあげることによって、自分たちの勝利を信じようとしていたのだ。
今回のことも初めはその類だろうと思っていた。ところが、何か月経ってもその噂が消えることはない。先日の××戦でまたあの男が天人を殺しまくったらしいだとか、あの男がいるとふしぎと味方の死者が少ないだとか……口々に伝わる噂は、時間が経つごとに色濃くなっていくようだった。

もしかしてこの男は実在するのではないか。ナオがそんな淡い気持ちを抱き始めた頃、さらに現実味を帯びた噂がもたらされることとなった。営内の仲間が、酒を飲みながらああそういえば、という顔でその話題を披露したのだ。
「ああそういえばさ、この前、××に天人の奇襲があったじゃん。そこに俺のダチもいたわけよ。でさァ……いたんだって、例の男。すんげェ勢いでこう、ばったばった天人どもを斬り払っていくわけよ。見ててこっちが怖ろしくなるくらいだったね。人間のはずなのに、味方のはずなのに、やっべェ俺ら殺されるって。小便ちびりそうになったわ」
「なんでお前の体験談みたいになってんだよ」
「アッハハ。でさ、そいつ、白い頭してるらしくて、その頭が返り血に真っ赤になるもんでついた渾名が【白夜叉】よ」
白い夜叉。白い鬼神。たいそうな渾名だ。もっとも、これほどに噂を轟かせている男なら、大袈裟な渾名がひとつふたつあったって当然のことだろうが。
なぜか、見たこともない白髪がありありと脳裏に浮かんだ。血に塗れて艶を失った髪も、脂のこびりついた刀をぶらさげて俯いた姿も。実際にこの目で見たように、鮮明に。……なぜだろう?
「白い頭って爺さんかよ」
「さあ?」
「渾名かァ。いいなァ、俺もほしい。おいナオ、俺に何か渾名をつけてくれよ」
ナオはすり寄ってきた男に辛辣に返す。
「あんたはいいとこ呑んだくれ兵衛でしょ」
「ははっ。違いねェな」


***


酒は好きだが、酒の席は嫌いだ。
仲間にすすめられた祝い酒を一杯、一気に煽って、すぐに席を立つ。
「おい坂田、どこに行くんだよォ」
「主役が居ねェでどうすんだい」
袖を引っ張る野次を無視して銀時は廊下に出た。

月のきれいな夜である。銀時は梁に背を預け、酒蔵から勝手に持ち出した酒で一人飲んでいた。
酒は好きだが酒の席は嫌いだ。やんややんやと囃子のとぶ宴会はもとより、気を許した友人や独りきりでこうしてちびちびと飲むのが落ち着く。ほろ酔い気分でぼんやりと夜の景色を眺めるのも好きだった。
腕を伸ばすと、指先に持った猪口の水面に月が映った。傾けるといとも簡単に揺らぐ。ぐらり、ぐらり。
『――銀ちゃん、月がきれいだねえ』
声が蘇る。耳に水が入った時のように、ぼんやりと曖昧な声が――

板張りの廊下が軋む音がした。銀時はぐいっと酒を煽り、見向きもせずに言葉を投げた。
「猪口は俺の分しかねェぞ」
「貴様と思相などご免被る。自前のぐい呑みを持ってきたわ」
「こっち来んなつってんだよ、ヅラ小太郎」
「ヅラじゃない桂だ」
足音だけで自らを判別する銀時にいまさら驚くふうでもなく、暗闇から現れた桂は当然のように銀時の横に腰をおろした。
大方、桂も宴会を抜け出してきたのだろう。互いに五月蝿いものに囲まれて飲むのは嫌いなたちだ。加えて銀時にとって桂は「気を許した友人」であり、だから共に酒を飲むのも嫌いではない。唯一、人の酒瓶を我が物顔で傾けるところは癪に障るが。
きれいだな、と月を流し見、桂はなみなみと酒を注いだ。
いつものことではあるが、いつものように銀時は悪態をつく。
「俺の酒を勝手に飲むんじゃねェ」
「貴様の酒ではあるまい。蔵から1本、瓶が減っておったぞ」
「……誰が1番死にもの狂いで働いてると思ってんだよ」
「死にもの狂い? それは想像もつかなかったな。近頃はただ闇雲に剣を振り回しているだけに見えていたぞ。昔、高杉と竹刀でチャンバラをしていた時のようにな」
ふふんと鼻で笑いながら返され、銀時は思いきり眉間にしわを寄せた。「……何が言いたい」
静かな夜だった。虫が小さく鳴いている。時おり吹き抜ける夜風が雨戸をかたかたと揺する。
月がきれいだ。染みもなく広がる真っ黒な空にぽつんと浮かぶ月。その明かりの隣で星はとうに眠りについている。あいつが好きそうな、飾り気のない風景。
猪口を傾け、ひとくち、口に含んだ。
「……銀時。いつまでも腑抜けているなよ」
ごくりと嚥下する。熱い塊が喉をずるずると落ちていく。
「……忘れろって、そう言いたいのか。自分が守れなかった女を」
「そこまでは言っておらん。忘れることができるならとうに忘れておろう。それができぬお前ではあるまい」
ああ。そうだ、忘れることができるのならとっくに忘れている。
死なせてしまった。守れなかった。いちばんそうしたくないと願った人間を、手離してしまった。
血に沈んだ白い顔を、今でも覚えている。忘れ去ることができない。
「離れないって約束したはずだったんだけどな。俺ァいつまでも引きずるんだろなァ……」
「ふん。珍しいこともあるじゃないか。高杉の寝耳に水を垂らした時も、先生を怒らせた時も、次の朝飯を食う頃には忘れていたくせに」
「くだらねーことと俺の傷心を天秤にかけるな」
桂がくくっと笑った。
月がちらりと輝く。


***


海に沈む感覚を、いまだに忘れられない。

ぶくぶくぶく。あぶくが口を、鼻を、耳を、皮膚の割れ目を覆う。不快な気泡が身体のなかへと潜り込んでくる。ぶくぶくぶく、ぶく。
あっ、わたし死んだな。そう思った。
膨れる空気と裏腹に、血液がすーっと抜けていく。

死に追いやられる絶望感。
透明でたちの悪いそれに苛まれる人を救いたくて、わたしは白い着物を選んだ。
これなら飛散した血液にすぐ気づける。誰かの命が摩耗されているその瞬間に、手を差し伸べることができる――


陣営が慌ただしく動いていた。念入りにたてていた戦略が天人たちに次々に突破されたのだ。増すばかりの戦死者数に、前回の戦で療養していた者たちが叩き起こされ戦地へと赴いた。
もちろん万全の策ではない。陣営を捨て逃亡しようと唱える者もいた。人員があれば再び場所を据え、天人に一矢報いることもできると。
案の定、この提案には反対する者が多かった。敵を目の前にして逃亡を計るのは武士道に反していると男たちは唾を飛ばしたのだ。
武士道。久しく聞かなかった言葉だ。
そういえば、とナオは懐かしい気持ちに思い起こされた。
そういえば、あいつは口にこそしなかったが、自分の内にぶれない何かを持っていた。牙を光らせる獰猛な獣を飼っていた。破天荒な言動が目立ちはしたが、その腕っぷしは右に出る者がいなかった。喧嘩が好きで幼い頃から竹刀を持ってチャンバラをしていたらしい。唯一、幼馴染の桂と高杉の2人とは、付き合いの長さより得た互いの弱点を突きあい、勝っては負けて負けては勝ってを繰り返していたと。

……あれ?とナオは首を傾げた。
桂と高杉って、誰のことだ。営内にそんな仲間はいない。
あいつって、今わたしが想った人物は一体。

『なにお前、あんな味気ない月が好きなの』
『味気がないなんて酷いなぁ。せめて飾り気がないって言ってよ』
『……あんま変わんなくね?』
真白な髪に気だるげな目元、そして
蘇る、 声が、


陣営が慌ただしく動いている。営内で最強と謳われた男が率いる一軍が、たった今壊滅したと知らせが入った。
なだれ込むようにして搬入される負傷者を前に、救護担当をしていた女たちは必死に手当をしている。しかし、その徒労も報われることはないだろう――
「誰か! ナオを見てないか!」
怒声が響き渡る。中心となって救護員を指揮していたナオが消えたのだ。
見渡せども捜せども、白い着物を着ていたその姿は見つからない。
忽然といなくなった女の存在は、直後に焼き討ちされた陣営の塵芥とともに消え去った。


***


北へ進むと、ここにも人骨が転がっている。
周囲には焼け焦げた建物の跡。奇襲され火を放たれたであろうことは、簡単に予測がついた。
「……どこもかしこも人間の死体だらけだ」
桂がしゃがみこみ、頭蓋骨に向かって手を合わせた。
「ここに強い侍がいるって聞いてたんだがな。ホラだったかね」
「無礼だぞ。彼らは国にために死んでいったのだ」
「死んだらその場でシメーだろうが」
女も巻き込まれたらしい、いくつかの骨が寄り添うようにして形を成している。
風が吹いた。煤を巻き上げながらさすらう風は無味無臭であり、一帯が滅んでからしばらくの時間が経過していることを告げた。
銀時は落ちていた棒切れを、骨の転がる土に突き刺した。ざくりと軽い音がたつ。長い合掌を続ける桂の横を素通りしていく。
「寄り道してねーでさっさと行くぞ、ヅラ。噂じゃここらへん、【赤夜叉】とかいう化け物が出るらしいじゃねェか。化け物つっても侍の身ぐるみひっぺがす物盗りらしいが」
桂はようやく顔を上げた。その眉間には浅い皺が寄っている。
「そのまま命も盗られるぞ。目撃者は全員死んでいるからな」
「盗れるもんなら盗ってほしいね。ここの【強い侍】もそいつに追剥ぎされたんじゃねえの」
「寄り道をしているのは貴様だ、銀時。くだらないことをのたまってないでさっさと行くぞ。高杉、貴様もだ」


***


月がきれいな夜である。
これだけ明るければ足元を蝋燭で照らす必要もない。心地よい暗闇は、それでも程よく、都合よくその姿を隠してくれる。
あの日、背中で業火を見送ったあの夜。どうしてそれまで彼の存在を忘れていたのか分からない。必ず守ってやると、まっすぐにこちらを見据えていた彼を自分は心の底から愛していたというのに。
離れないと、約束していたはずだったのに。
行くあてもなく、生きるための備品を通りすがりの人から拝借しているうちに、真白だった着物は赤く染まってしまった。
それでも、汚れを知らない白色より、戦地に馴染む赤色のほうが助かる。……皮肉では、ない。

「銀ちゃん……銀ちゃん、待っててね、わたし、必ずあなたに会いにゆくから」

あなたが守ろうとしてくれたこの命は、今でもわたしが持っているよ。それを証明するから。待っててね。
そして、もう2度と離れないって約束してね。
約束するよ。


***


月を見上げた。たった1人で、何度も何度も、いつまでも。


もう離れないと約束したはずだったのに
『僕の知らない世界で』様へ提出


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