「ん。上上だな」

薄闇の中、コンクリートに転がった死体を時雨が検分している。
ナオは今夜の仕事場だった古い建物の中をぐるりと見渡した。何かの作業場だったらしく空間は上にも横にもだだっ広く、壁沿いの窓ガラスはすべて割れている。さっきまで誰もいなかったのに終わりを見計らったかのようなタイミングで現れたこの男は、こちらの仕事ぶりをどこかで監視していたのかもしれない。
目蓋を押し開き瞳孔を確認する仕草が、言葉とは裏腹に、まるで質の悪い商品に触れるかのように冷ややかだった。

「車まで運んでくれ」
「わたしが? 重くて無理」

中肉中背の、しかも弛緩している男を運ぶのには骨が折れる。
ナオは背中を向けて反対側の水道へと向かい、両手にべったりと付着し爪の隙間まで入り込んだ男の血液を擦り落とした。シンクに水滴が跳ねる音に紛れて軽い溜め息が聞こえたが、あえて気づかないふりをする。

「次の仕事のことなんだけど。先客がいないならわたしに回してくれない?」
「またか。最近ずっとじゃねえか。金に困ってる訳でもないだろ」
「……何かしてないと頭おかしくなりそうだから」

指先に伝う水滴を払い振り返ると、仰向けに倒れている男と、その側で煙草に火をつける仲介業者の立ち姿が浮かび上がった。青みを帯びた灰色を刷毛でさっと色づけたような暗がりの中でオレンジ色の蛍が瞬く。

「あるぜ。お前にお誂え向きのやつ」
「どんな?」
「伏黒と組め」

聞きたくなかった男の名前にナオは顔を顰めた。

「時雨さんの仕事はできるだけ受けるつもりだけど、それは嫌」
「そう思ってんなら行動で示してくんねえかな」
「わたしの父を殺したのよ。あの男には恨みしかないもの。背中は刺せても手を組むのは無理」

お断りするわ。ナオは素っ気なく口にして、死体に歩み寄り膝をついた。入れ墨の入った腕を肩に回して持ち上げるとずっしり重い。洗ったばかりの手にまた血が着いて、汚れてしまった。
数ヶ月前、所属していた組織を甚爾に潰された。ナオを除いた構成員、すべて皆殺しだった。床に咲いた赤い花を踏みながら轍のように続く死体を辿っていくと、最後に行き着いたところで、それまでナオが我が身のように守っていた人が頭を撃ち抜かれて事切れていた。
……とうさん。
無意識に呟いたのは、もう何年も口にしていなかった呼び方だった。

組織が壊滅した後、ナオは時雨に買収された。というよりむしろ、自分から志願して時雨についた。
先の行き場がなかった。要人を護衛する呪詛師として育てられ、今まで生きてきた。そうする以外で生きていく方法を知らない。身内の亡骸を前にしても後追いするなんて感傷は微塵も湧かず、その代わりに組織という後ろ盾をなくした今、入れ替わりの激しいこの界隈で生きていくために時雨を利用してやろうと思った。
もちろんリターンばかりではない。時雨は甚爾と繋がっている。そのことに目を瞑ってでも時雨についたのは打算が大きかった。今はとにかく、時雨にとって使える呪詛師を演じるしかない。
すぐ側に気配を感じて振り返ると、咥え煙草の時雨がいた。ずるずると足を引き摺って運んでいた男の身体をナオから引き取り、代わりに車まで運ぼうとする。

「いい。運ぶから」
「伏黒と組みたくないからって分かりやすい譲歩すんなよ」
「わたし、やらないからね」

念を押すと、感情の読めない面がこちらを見下ろした。
すう、と煙を吸い込む呼吸音。吐き出された紫煙は闇に紛れてすぐに見えなくなる。その掴みどころのなさがまるでこの男にそっくりだ。
有無を言わさぬ冷めた目を寄越して、時雨は一言だけ放った。

「お前、仕事断れる立ち場だっけ」

仲介業者はその性質上、あらゆる情報に精通している。仕事を持ち掛ける相手の素性、気質、経済状況、ネットワーク、それから弱味。たぶんこの男は、ナオが想定している以上に手札を持ってて、必要な時にカードを切れるように策している。
いつでも捨てられる。それも、育てた稚魚を故郷に放つような生易しいやり方ではない。

「……わかったわよ」

立ち場関係は最初から決まっていた。不貞腐れたように顔を逸らしたナオの頭を時雨の大きな手がくしゃりと撫でる。
振り払おうとして、やめた。

「そうか。いい子だな」
「子ども扱いしないで。今回だけだから」
「ハイハイ」

どうして自分と甚爾を組ませるのかと疑問に思う。ナオが甚爾へ向ける感情を当然時雨は知っているのに。
他の構成員と同じ末路を辿るはずだった自分を、依頼主に金を払い戻してまで買ってくれたその理由は、闇社会らしく思惑に金が絡んでいるのだろう。つまるところ術式持ちの呪詛師は都合のいい金蔓なのだと、ナオは自分の存在理由を解釈している。
トランクに荷を積み終わり、黒塗りの車体にもたれて短くなった煙草を消費する時雨をナオは助手席側からじっと眺めた。

「ん、なんか食って帰るか。何がいい。晩飯くらい奢ってやるよ」
「回らないお寿司」

少しは遠慮しろ、と小さく笑った時雨が携帯灰皿を取り出したのを見て、ナオは一足先に車に乗り込んだ。
不本意な仕事を回されたことを軽く根に持ちながらも、こうなればとことん高いものから食べて財布を寂しくしてやれば少しは溜飲がさがるというものだ。どうせ金は後から入ってくる。




履き慣れないピンヒールのせいで爪先が痛い。広いベッドにそれとなく腰をおろすよう誘導したのは足に靴擦れができたせいだ。目の前にある情欲の浮かんだ双眸を見つめながらナオは、この仕事が終わったら傷跡が残らないようにケアしようと頭の中で考える。

「来て」

艶を含ませた音を声帯に乗せた。男好みの女の皮をうまく被れているだろうかと一抹の不安が過ぎったけれど、先を急ぐようにして覆いかぶさってきた中年を前に事は順調に運べていると判断する。
絹に触れるような仕草で首筋を撫でた。そのままネクタイの結び目に手を移せば「いいんだね?」と脂の乗った声が返ってくる。良くはない。
気取られない程度の視線でちらりと置き時計を見遣った。甚爾はまだか。ナオがこの男を手懐けているうちに建物に残った連中を全て片付ける手筈になっているのに、未だ何の音沙汰もない。
苛立ちそうになる手を抑えてあくまで焦れったく相手を誘う。手首にキスなんていらない。はやくこの男を殺させて。
ガシャン、と音がした。互いの息づかいだけが支配していた空間の中、突然響いた無機質な音に、ナオは僅かに身を引く。手首に違和感があった。
両手に手錠がかかっていた。なんて趣味の悪さ。顔には出さないよう、あたかも未練たらしく微笑みかける。

「これじゃあ腕を回せないわ。外してくださらない?」
「いいんだよ。きっと愉しい」

男はサイドテーブルに置かれた中身の残るグラスに鍵を落とし、期待を孕ませた笑みを浮かべる。
その表情のまま、時が止まった。
男のこめかみから血が噴き出し、図体は前のめりに倒れる。
倒れ込んできた男の死体をナオは不自由な両手で苦々しく受け止めた。

「わたしが殺すつもりだったのに」
「悪かったな。骨抜きにされたかと思ってサクッとやっちまった」
「ふざけんな」

今しがた対象の頭部に風穴を開けたリボルバーを手に甚爾が口端を吊り上げて立っていた。いつの間に部屋に侵入していたのだろう、気配が全くなかった。
ナオは数ヶ月ぶりに相見る甚爾の姿を凝視した。顔に返り血を浴びているところも、それを気にしていない態度も何もかも変わっていない。ナオが籍を置いていた組織を潰した時と同じだ。光景を重ねて、やっぱり甚爾が許せないと腹の中でふつふつと湧き上がる黒い感情を持て余した。ここで喧嘩をふっかけても迷惑を被るのは時雨だ。
そうは思うのに、一度文句をつけだすと口が止まらなくなる。

「だいたいもっと早くに来る手筈だったでしょ? あんたのせいでこの男の相手が長引いたじゃない!」
「悪かったつったろ。いいじゃねえか、こんな金持ちジジイに唾つけられるなんざお前の人生にそうないって」

人生なんて言葉を使った言い草が余計に神経に障る。誰のせいでこうなったと思ってる。
食ってかかるナオを甚爾はうるさそうに受け流し、ベッドに近づくと無造作にシーツを掴んで左のこめかみから顎まで付着していた返り血を拭った。真っ白だった布地に殺人を象徴する赤黒い染みが広がる。
雑に拭い終えると今度は床に頽れた死体を一瞥し、身体に巻きついていた芋虫のような呪霊を放った。ぞんざいな仕草で放られた呪霊が口を開き、死体を頭から飲み込み始める。武器庫呪霊だ。間近で見るのは初めてだった。小さな容量にどうやって人間一人を収納するのかと不気味に思っていると、呪霊はぬちゃぬちゃと音を立てながら虫が這うような速度で丸呑みしてしまった。

「……きもちわる」

便利な呪霊だとは思うがそれが正直な感想だ。
一生懸命に蠕動運動している己の呪霊をよそに、甚爾はナオを見下ろした。何を考えているのか分からない鋭利な光を宿す翠色の瞳が、ベッドに座るナオを射抜く。

「いい趣味してんな」

それが両手首にかけられた手錠のことを指しているのだと気づき、ナオは顔を顰めた。
グラスに水没している鍵を指差すと、手元でじゃらりと重質な音がした。

「悪いけどそこの鍵取ってくれる? 外せない」
「いらねえよ」
「いるってば……ちょ」

おもむろに鎖を握った甚爾が手に力を込め、耳障りな音を立たせながら引きちぎった。あまりの力技に面食らう。愛玩目的の手錠とはいえ、相手に圧をかけるためか厳重な造りが施されていたというのに。苦もなく破壊してみせた甚爾の腕力を垣間見て内心肝を冷やした。
手首に纏わりつく本体部分まで壊されると自分の骨まで折られそうだったので、両手が自由になったところで身を引いた。

「……ありがと」

聞こえるか聞こえないかくらいの声量で一応礼を述べたが、返ってきたのは脈絡のない台詞だった。

「何で俺と組む気になった」

組む気なんてさらさらなかった。甚爾はナオの身内を殺した相手だ。恨む気持ちこそあれど協力に至る心情など持ち合わせていない。

「……時雨さんに言われたから」
「父親の次は時雨かよ」
「はあ? どういう意味」

甚爾が何を言っているのか理解できない。
純粋な疑問と訳の分からない言葉で詰る不遜な態度に腹が立ち、挑むように顔をあげた瞬間、ナオは強い力でベッドに押し倒された。
突然反転した視界に動揺していると、その動揺さえも喰らうような負荷が身体に加えられる。甚爾の膝がナオに腹部に乗り上げた。

「何してるの……」
「たぶんだけどさあ、お前」

軽薄に笑った甚爾が、無骨な指をナオの細い首にかける。

「手枷よりコッチのが好きだろ」



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