花街と呼ばれるこの区画で、わたしは今夜も異形の相手をする。

それは腹の肥えた三ツ足の老いぼれ爺だったり、ギョロリとした単眼を額に持つ若旦那だったり、眼窩の落ち窪んだ狐男だったりする。異形とはいっても大半は人に近い形をしていて、そいつらの仕事の愚痴を聞き、生活を慰め、夜に花を持たせてやるのが花街に務めるわたしたちの役目だ。
この街に来たその日、姐さんに教わった。真に気をつけなければならないのは人の振りをした鬼であると。
『鬼はウチらと寸分違わぬ姿で現れ、女を惑わし、最後は気に入った者を喰らうんだ。いいね、ナオ。けして鬼に心を許してはいけないよ。』
もう何十年も前に説かれた言葉を今でも鮮明に覚えている。弱い者を思いやる慈悲に満ちていて、けれど否定を許さない凛とした女の声だった。来たばかりで右も左も分からない幼子同然だったわたしは、まだ人柄も知らない姐さんの言いつけにコクコクと頷くしかなかった。


その傷はどうした、と男は言った。
伸ばされた手がツツと頬を撫でる。黒の皮革手袋ごしに触れた男の指は、案外穏やかで、優しい。

「見苦しい姿でごめんなさい。わたしが悪いの」
「そんなことは聞いてねえよ。どうした、つったんだ」
「……ぶたれたのよ。よくあることだわ」
「誰に」
「言わない」

袖で口元を隠してふふ、と笑った。よくあることよ。もう一度同じ言葉を添えて。
男がこの見世を訪れたのは今夜が初めてだ。気だるげな足取りで敷居を跨ぎ、偶然にも視線が合ったわたしを「じゃあお前で」となんの感慨もなく指名した。制服を着ているからにはどこかの団体に所属しているのだろうが、長年この見世から出たことのないわたしにはとんと予想がつかない。
部屋に招くと男は目深に被っていた制帽を取った。無造作な黒髪と端正な顔立ちが現れる。わずかに前髪のかかった瞳は、わたしの苦手な日没の色をしていた。

「ここの女は皆、お前みたいに意固地になってるやつばっかりなのか」
「……あなたこういう見世は初めて? どんなところでも女は似たり寄ったりよ」

男はつまらなそうに溜め息を漏らした。
なんだろう、妙な感覚だ。この男には部屋に入ったときから欲というものが感じられない。
ここへ来る異形の者は大抵世の中に不満のある者ばかりだ。金を出してそれを発散する。特にこの見世は値段も手頃で客の要望に融通が利く。話相手、歓迎。酌相手、歓迎。閨の相手、金次第。
だというのにまったくといっていいほどわたしに手を出そうとしない。話相手といえば話相手だが、男が楽める話題には思えない。
この男、なんのためにわたしを指名したのだろう。不安というより不審がわたしの中に芽生える。
いいね、ナオ――。
姐さんの声が不意に甦った。
鬼はウチらと寸分違わぬ姿で現れ――女を惑わす。
……いやいや。そんな欲深い鬼に、この男は見えません、姐さん。

「お前」
「はい?」
「ここから出たいと思うか」
「ここ……とは、この部屋のこと? それとも別の場所を示してる?」
「好きなように解釈しろ。どうだ、外が見てみたくはないか」
「そうねえ……難しくってわたしにはよく分からないわ。ここで食べる飯も存外おいしいのよ。立派なお召し物をした殿方には理解できないかもしれないけれど」

くく、と渇いた音が聞こえた。
わたしのすぐ正面……男が笑ったのだ。

「そうか。そいつはいいことを聞いた。これでお前を無理矢理連れ出せる」

男は立ち上がり、再び制帽を深く被った。ツバの影になった部分で橙色がぎらりと光る。

「行くぞ」
「行く……って、どこへ」
「そういや花街は極楽の街とも言われてるんだっけか」
「答えになってないわよ」
「喜べ。お前が行くのは地獄だ」

脈絡のない言葉とともに腕を引かれた。わたしの頬を苛立ちまじりに叩いた痩せぎすの狐男とは比べ物にならない、芯のある力強さが手首に伝わる。
力任せに立たされたのち、男が身を屈んで顔を覗きこんできた。
橙の双眸がじいっとわたしを射抜く。燃えるような日没の色。夕方はいつだって寂しい。一方的に暮れていく日々の色に、わたしは独り置き去りにされるような錯覚を覚える。ここは夜の街だというのに。この寂しさは幼い頃から成長しないわたしのこころの一部なのだろうか。
心臓がうるさかった。どくどくと波打つ鼓動がまるで男を恐れているみたいだ。
捕まれたままの腕がさらに引き寄せられ、わたしの身体は男の中にすっぽりと収まってしまった。

「なに……ねえ、やめて」
「嫌だっつったら?」
「困るのよ。わたしはこの見世で働いてるの、契約してるの。分かるでしょ」
「分かるかよ。俺は面倒なことは嫌いなんだ」

薄い唇が寄せられた。狐男にぶたれて腫れていた部分を吸われ、僅かな痛みと熱がこもる。
唇は口の端を伝い、顎、首筋へと這っていく。途端に刃物で刺されたような痛みを覚えた。首のつけ根に歯を立てられたらしい。それも戯れるような甘噛みではない、肉を食い千切るかのごとく皮膚をかじり取られる。

「痛、ぁ、」

涙が滲んだ。痛みに一瞬身体が硬直する。
男は楽しそうに口角をあげ、わたしの血液まじりの舌でぺろりと舌舐めずりした。

――まずい。
ここにきてようやくわたしは気づく。
鬼は、女を惑わした鬼は、最後、相手をどうするんだっけ?

耳殼に噛みつかれる。今度は甘噛みだ。歯形が残らない程度に食まれたあと、焦らすように舌でくすぐられる。
突っぱねてもすぐに腕を封じられて身動きがとれない。

「……っ」

次第に視界が蕩けてくる。初めは痛みしか感じなかったはずの傷口に愉悦が混じり始めている。ガクンと腰がくだけた。当たり前のように抱えこまれる。ああ、だめだ、これはまずい、

「お前にゃ極楽は似合わねえよ」

男の低い声が、わたしのどろどろの脳みそを最後の仕上げみたいに掻き混ぜる。



…………
一目惚れした田噛さん

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -