「田噛、まだ寝ないの? めずらしいね」



1日を終えて入る風呂は夏だろうと暑かろうと心地いい。
濡れた髪をタオルでがしがし拭きながら廊下を歩いていると、談話室から灯りが漏れているのに気づく。
こんな深夜に誰だろう。今日は夕飯時には同僚全員が仕事を終えて顔を揃えていたし、特務室には基本的に夜勤なんて勤務体制はない。夜更かしをする輩といえば晩酌を好む長男気質の男がいるけれど、確か今日は休肝日とかいって早々に部屋に戻っていたはず。
とすれば――誰だろう。
好奇心というか、誰かと会話したいというか、夜の心地よさを他人と共有したいというか。なんだかよく分からない欲がわたしの中で頭をもたげた。
ポタリ、水分を含んだ髪から水滴がしたたり落ちた。鎖骨にあたったそれは部屋着にしているシャツ素材に吸いこまれる。
隙間からそっと部屋を覗く。別にこそこそしているつもりはないけれど、こんな血なまぐさい職場にいると同僚の無防備な姿に魅力を感じてしまうらしく、つい覗き見みたいな真似をしてしまう。
視界の正面に、こちらに背を向けたソファがある。ちょこんと座る後ろ姿が目に入った。ちょこん、なんて可愛らしい擬音はきっと正面から見た彼には似合わない。低血圧の悪人が朝無理やり起こされたような目をしているし。腰を並べればわりと背丈はあるし肩幅もある。つまりこれは贅沢に大きなソファサイズの問題である。
座っているのはいつもよりぼさぼさしている黒髪を気にするふうもなく雑誌を眺める同僚だった。
改めて時間を確認する。0時14分。寝たがり屋の彼が起きているには信じられない深夜帯。

「田噛、まだ寝ないの? めずらしいね」

がちゃりと音をたてて扉の残りの隙間を広げた。
ア?と記憶に違わない人相の悪い目つきで田噛に睨みあげられる。

「もう日付変わってるよ」
「……寝れねえんだよ。暑苦しくて」

苦々しげに吐いた言葉通り、眠いのに寝つけないようで、田噛にしては珍しくぼうっとファッション雑誌なんて読んでいる。
いや、この様子じゃ内容なんて頭に入っていないのかもしれない。文字と写真を目でなぞっているだけだろう。背後から覗きこむと、興味なさそうにぺらぺらとページを捲ったり戻ったりしている。

「冷房があるじゃん。今年から部屋に1台ずつ支給されたやつ」
「壊れた」
「……。ご愁傷さま」

だからこんな時間にこんなところにいるのね、と納得した。談話室にも冷房はあるので涼んでいたようだ。
よりによって夏日の熱帯夜にタイミングの悪いことだ。田噛はいつもすました態度で大抵のことは要領よく済ませてしまうが、要領のよさだけではどうにもならないこともあるらしい。

「確かに最近の暑さは寝れたもんじゃないよねえ。扇風機と氷嚢だけじゃ足りないもん」
「つーかさっきからポタポタ水落ちてきてうぜえ。離れろよ」
「あちゃ。ごめん。ドライヤー使うのも暑くって」
「何のためのタオルだよ。髪くくってろ」
「はいはい悪かったですよ。にしてもなんか意外なの読んでるね。その雑誌おもしろい?」

田噛の辛辣な物言いは性質みたいなものだから今さら気にならない。けれど機嫌を損ねてしまうのは本意ではないので、水滴が飛ばないように距離をとりつつ髪をぬぐった。
雑誌の中身を指摘すると、しかし田噛は機嫌を損ねたように口許を歪めてページを閉じる。
それから聞こえるか聞こえないかくらいのぼそっとした声で呟いた。

「こういう男が好きなんだろうな」
「うん? 誰が?」
「失恋した」
「……だから誰が?」
「俺が」

間。
聞き間違いかと疑った。
あの田噛から、何よりも睡眠欲重視で物臭の権化みたいな田噛から、恋などという単語が出てくるなんて。しかも。

「……失恋、って。うそだあ」
「嘘じゃねえ」
「だって……田噛、もてるじゃん。他の部署の女の子から言い寄られてるのよく見るもん」
「見てたのかよ」
「えっ、あっ。いやね、盗み見してたんじゃなくてね。なんていうか結構、大胆な場所で告白されてるから……ねえ?」

お伺いするように田噛を見る。面倒くさそうにハアと溜め息をついて立ち上がるところだった。
失恋したと宣言したわりに感傷に浸っている色はない。やっぱり冗談なのかなとさえ思わせる普段通りのマイペースなテンポ。
そのテンポのまま田噛は脈絡のないことを言った。

「今日お前の部屋で寝る」
「……ええ?」
「まさか冷房壊れてるなんて言わないだろうな?」
「こ、壊れてはないけど」

田噛がはんと鼻で笑った。一足先に談話室を出ていく。すれ違い様に「馬鹿正直な奴」と言われるのが聞こえた。
……わたしの部屋の冷房も壊れてるって、うその1つでも言ってやればよかった。



当たり前だけど自室のベッドはシングルベッドだ。もともとが支給品だし、わたし自身部屋の装飾にあんまりこだわりがないからシンプルなまま使っている。
枕は当然のように田噛にとられた。な、なんて図々しさ……呆れを通り越して感心する始末だ。
女の子と夜を一緒にするとき、いつもこんな感じなのかな。だとしたらそりゃあフラれるよ。なんてワルグチを心の中で唱えていると、思いの外すぐ耳元で田噛の声がした。

「寝ぼけて蹴ったら殺すからな」
「それわたしの台詞なんだけど……誰が寝床提供してると思ってるの。あと誰の枕勝手に使ってるの」

枕なしって寝づらい……ぼやきはあっさりとスルーされた。
同じベッドに、同じタオルケット。二人で共有するにはどっちも狭くて小さい。田噛とはただの同僚同士で熱っぽい夜を過ごすにはお互い現実味のない存在だろう。身体を縮こめて壁際に寄ってはみるけど、すぐ後ろに横たわる田噛の腕や足が妙に生々しかった。
「ちょ、頭に顎乗せないで。タオルケットも独り占めしないでよ。……わたしで遊ぶな、ばか」ちまちま感じる身体への違和に、田噛の二の腕を摘まんで抵抗する。明らかに談話室でだれていたときより元気を取り戻している。やっぱ冷房壊れてることにしておけばよかった。明日、起きれるかなあ。

「なんで断らなかったんだよ」

一通り玩具で遊び終えたらしい、田噛は甘える猫のようにわたしのうなじに顔を寄せて言った。髪が肌に触れるのがくすぐったい。
……呻きのように聞こえたのは、気のせいだろうか。

「断るって」
「俺がお前の部屋で寝るって言い出した時」
「それは気遣ってくれてるの? だったら最初から遠慮してほしかったなあ田噛くん」
「……木舌に、怒られるだろ」

言い聞かされるように一語一語をはっきり言われて、わたしは「ああ、そうかもね」とのんびり笑った。

「いつから付き合ってんだ」
「1週間前くらいかなあ」
「平腹が、ナオはずっと木舌のことが好きだったからこれで大団円だって言ってた」
「ふは、何それ。大団円の意味わかってるのかな」
「……分かってないだろ」

分かってない。
そう繰り返して田噛は口を閉ざした。
急に静かになるものだから、気になって後ろを振り返る。田噛はタオルケットを被って丸まっていた。

「……寒いね。冷房の温度、上げる?」

ん、と寝息のような返事が聞こえる。肯定なのか否定なのか判断がつかず、結局リモコンには手を伸ばさなかった。
密閉された冷たい部屋の中、冷房の低い機械音だけが延々と続いている。

「似てるから。大丈夫だろ」
「誰が?」
「お前と木舌」
「……うん?」
「断れないところ。流されやすいところも」
「悪口?」
「かもな」

おやすみ、と聞こえた。
おやすみ、と返した。

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