企画小説
 桜が散った春の、まだ薄ら寒い夜のこと。
 露天風呂から上がって自室へ戻る前に、名前の部屋へと足を進める。一日掛かりの遠征を終えてすぐに風呂に入ったこともあり、今日は名前とふたりで話す時間がなかった。習慣となった夜の挨拶をするのもそうだが、名前と少しでも話しがしたいと、そう思いながら歩いていると部屋に辿り着く前に名前を抱えた一文字則宗の後ろ姿を見つけた。
 驚いて声を掛けると、一文字則宗がゆっくりと振り返って「おお、主の部屋へ向かう途中だったか?」と楽しそうに目を細める。どうやら俺の習慣を知っているらしく、頷けば「僕の代わりに名前を部屋まで運んでくれ」と名前へ視線を落とした。

 名前を見る一文字則宗の表情は、花のように柔らかそうな髪に隠れてしまって窺うことができない。
 どんな顔をしているのか、わからない。困った顔をしているのか、呆れているのか、それとも……もしも特別な想いを抱いた表情をしていたらどうしようと、何故か思ってしまった。
 小さく息を吐いてから一文字則宗との距離を縮めると、白い羽織から微かに花のような香りがした。こういったものに明るくないが、安いものではないのだろうということは俺でもわかる。そういう嗜みをする刀だとは、今の今まで知らなかったが違和感は覚えなかった。

「……名前はどうしたんだ」
「一緒に酒を飲んだんだが、酔っ払って寝てしまってな……片付けもあるからお前さんが運んでくれると助かるんだが……」
「……わかった」

 承諾すれば、一文字則宗は歯を見せて笑顔を作り、胸元に顔を埋める名前を見て「困ったもんだ」と一言。しかし、言葉に反してその表情は柔らかい。それを告げると「うははは、言われてしまったな」と笑われた。
 一文字則宗は平時以上に楽しそうに笑っている。名前と同じように酒に酔ったせいなのか、それとも俺が知らなかっただけで名前がいる時は普段からこうなのだろうか?

「名前を部屋に運んだら、俺も片付けを手伝った方がいいのだろうか」
「……いや、平気だ。お前さんは遠征で疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」

 一文字の刀が集まっている時、一文字則宗がそれほど大きな体躯をしているとは思ったことはなかった。しかし、特命調査の監査官として目の前に立たれた時は喋らずとも圧があったし、仲間となって以降、本丸で重要な会議をする際に口にする一文字則宗の言葉は精神の熟練さがひしひしと感じられた。そしてそれ故か、一文字則宗という刀剣男士はこの本丸において古株では決してないものの、名前に随分重宝されているように見える。
 酒を飲みながら色んな話をしたのだろう。一文字則宗は口にこそしないが、名前とふたりきりだったことが伺えた。他に刀剣男士がいたのならば、一文字則宗が名前を部屋に運ぶことにはならないだろうから。
 名前が酒を飲んで寝た姿を見たことがなかった。眠ってしまうまで何を話し込んだのだろうと気になったが、それを一文字則宗に尋ねる気にはならなかった。

「悪いなぁ」
「いや、問題ない」

 一文字則宗にもう一歩近付いて、起こさないよう慎重に名前を受け取ると、一文字則宗は静かに礼の言葉を口にした。こちらを見下ろす青みがかった瞳は思いのほか優しく、「じゃあ、夜更かしするなよ」と言って背を向けた。

「おやすみ」

 俺の言葉に一文字則宗は振り返ることはなかったが、一瞬歩みを止め、ひとり笑うように背中を丸めた。


 一文字則宗と同じ釜の飯を食うようになって一年になるが、会話をした数はあまり多くない。同じ隊に配属されたことも何度かあったため、戦術や刀を扱う時の癖は把握しているが一文字則宗が名前と酒を交わす仲だという話は聞いたことがなかった。
 胸に靄が掛かったような違和感を覚えながらゆっくりと廊下を歩いて名前の部屋を目指す。

 腕にぬくもりを感じながら寝息を立てる名前の寝顔を見る。安心しきったその表情を見ていると、胸が締め付けられるようだった。
 一度立ち止まり、名前の頭に自身の頬を擦りつけるようにくっつける。起こしてしまうからやらないが、本心はもっと名前とくっついてしまいたかった。名前にくっつくと少し酒臭さを感じるが、不快に思わないのはどうしてだろう。

 焦るような気持ちは消えてくれない。
 名前は俺だけの主ではなく、みんなの主だということはちゃんとわかっている。それでも、名前ともっと話したい、触れあいたい、特別な刀になりたいと、知らぬ間にそう思うようになっていった。
 欲があるのは一概に悪いことでもないらしいが、その扱いに困ることもあった。感情を制御するのに苦労して、仲間に迷惑を掛けた。多分、今もあまり良い状態ではないのだろう。

 角を曲がって名前の部屋に辿り着いたところでもぞりと名前が動いた。何かの拍子に起きてしまいそうな名前に気をつけながら中に入り、羽毛布団を捲ってベッドに寝かせてやる。
 酒を飲んだせいでほんのり頬を染めた名前を見下ろす。ニットにジーンズという、寝ることに適さない名前の服装を見てどうしたものかと考える。本来であれば、寝巻きに着替えさせた方がいいのかもしれない。けれども、目覚めて男士に着替えさせられていると気付いた時、名前は混乱するだろう。寝心地は悪いだろうが、仕方がない。
 靴下だけでも脱がそうと口ゴムをつまんで静かに脱がすと、名前の足の爪に色が塗られていることに気付いた。
 肌の色によく合った桃色が爪に塗られている。主張しすぎない桃色を見たら、突然乱のことを思い出した。乱はよく名前を見て「可愛い」とはしゃぐが、今ならなんだか乱の気持ちがわかる気がした。自分の指に色が塗られてもなんとも思わない。兄弟のであっても特に意識を向けることはない。けれども多分、名前のだから「可愛い」という気持ちが沸いたのだろう。

 布団を掛けて名前の顔を覗く。髪を梳くようにして整えれば、気持ちよさそうにもぞもぞと動いて名前が俺の手を掴んだ。
 ぎょっとして動きを止めると、名前の目がうっすら開く。とろりとした瞳が、俺を見る。

「あれー……骨喰くんだ」
「起きたのか?」
「……うん」

 そう言いつつ、名前はまた瞳を閉じる。寝るかと問えば、お風呂入りたいと口だけ動かした。どうやら、まだ覚醒しきっていないらしい。
 こんな状態で風呂に入らせる訳にもいかないが、そもそも名前は本当に起きる気があるのだろうか。

「骨喰くんがいるの、ふふふ、嬉しい」
「酔っているのか」
「んー? 知らなぁい」
「どれくらい飲んだんだ」
「わかん、ない……気持ちよく、なるくらいかなぁ」

 時々こちらに視線を向けて、けれどもほとんど半分寝たような状態で口を動かす名前は見ていて心配になる。握られたままの手を一度離させて様子を窺うも、名前は俺の心配なんて気付かないように俺の名を口にした。

「酔うと、名前はそうなってしまうんだな」
「ん……怒ってるの?」
「怒らないが……驚いている。どうしてそこまで飲んだんだ? 普段はこうはならないだろう」
「勇気を出して、それで、頑張ったから……なんか、それで……」
「勇気を、出した……?」

 目を瞑って口だけ動かす名前を見て、胸の辺りが騒いだ。
 何のために勇気を出したのだろうと、そう思うのと同時に別れ際の一文字則宗の姿を思い出してしまった。

「……骨喰くんを、渡すことは出来ませんって……伝える勇気」
「……は?」

 意味の分からない言葉に、驚いて思わず声が大きくなる。
 想像していた話ではないようで、そして俺自身が関わっているようで、悪いとは思ったものの眠たそうな名前の肩を揺らす。

「名前、悪いが起きてくれ。説明をしてほしい」
「え、え……?」


 夢と現実の狭間で気持ちよさそうにしている主をこちらの都合で起こすのは忍びないと思いつつ、聞かない訳にもいかなかった。名前を起こして問えば、名前はゆっくりとベッドの上に座り、俺が起こしたことを怒るでもなく話しをしてくれた。

「――二週間くらい前、かな……親戚から手紙が届いたの。法事の時くらいしか会わないけど、ちょっと強烈な人で……まあ、その、わかりやすく言えば苦手な人。その人のお孫さんが最近審神者になったらしくて、なんの偶然か、お孫さんは私を演練で見かけたらしいの。その手紙を読んだ時は、ちょっと驚いたよ」
「その時、向こうは話しかけてはこなかったのか?」
「うん。私も私でお孫さんに会ったこともなかったから全然気付かなくて……親戚のその人が、私の写真、お孫さんに見せてたみたい。『名前ちゃんは審神者の先輩なんだから、何かあったら頼ったらいい』って、そう言ってたらしくて、私はそんな話、聞いてなかったんだけど……」
「図々しいな」
「……うん、昔からそういう感じで、苦手で……けれども親戚だから無下にも出来なくて、内容に、困ってたの」
「……」
「お孫さん、女の子なの。で、演練で私の傍にいた骨喰くんが気に入ったって、その人にそんな話をしたらしいの。で、可愛い孫のためにっていろいろ調べたら刀の譲渡の制度を知ったらしくて、骨喰藤四郎を孫に譲ってくれないかって」
「……知らなかった」
「手紙読んだ時、怖かった。どうしようって、心臓がバクバクした。本当は、骨喰くんに知られたくなかった……」

 名前は膝を抱えて縮こまる。

「私、その人の『孫のためのお願い』を今まで何度も聞いてきてたの。おもちゃとか絵本とか、洋服とか、そういうのを譲ってきた。本当はあげたくないものもあって、けれども家族もその人にお世話になったからって、お姉ちゃんだから出来るわよねって言って私を納得させようとするの……私は確かにその子より年上だけど、その子のお姉ちゃんじゃないのにって、ずっと思ってた」
「……」
「また、私の大切なものをあげなくちゃいけないのかって、手紙を読んですぐは諦めようとしてた。けど……けど……どうしても、骨喰くんを譲りたくなかった」
「……ああ」
「骨喰くんを、その子にあげたくなかった。私の大切な刀。大好きな刀。誰にも渡したくない。例え私が死んでも、私だけの刀でいてほしかった。みんな……前の主がいて、譲渡なんて当たり前なのかもしれないし、私は特別な主なんてなれないのに、そう思って、馬鹿みたいだなって思ったけど、諦めたくなかった」
「……そうか」
「それで、その時の近侍だった則宗さんに話をしたの。則宗さんは監査官だったから、政府の事情も詳しいし、何か上手に……不満を持たれないように断ることは出来ないかって、相談して、それで、今日諸々と処理が終わったから、則宗さんとお酒、飲んだの。ありがとうってお礼に、良いお酒を渡したら、なんだか一緒に飲むことになって……」
「そうだったのか」
「……怒らない? 嫌にならない? 私のこと、変だって思う?」
「思わない」
「本当?」

 どうしてそう不安に思うのか、俺にはわからなかった。主に固執されて嬉しくない刀なんていないに決まっているのに、名前は人間だからかその気持ちに気付けないのかもしれない。
 窺うように俺を見るので、なんだか胸の辺りがきゅーっと締め付けられた。そんな顔をしなくてもいいのに、と思ったのだ。

「名前、これからも名前の刀として在ることを、俺は嬉しく思っている。俺も名前が好きで、大切で、ずっと一緒にいたい」

 俺の言葉に、名前は瞳を揺らした。眉を寄せ、泣くのを我慢するような顔をする。

「名前、ありがとう。どうか、そんな顔をしないでくれ」

 ベッドの傍らで膝立ちをして手を大きく広げると、名前は俺を見て驚いたように目を大きくさせ、ぽかんと口を開けた。それでも構わずに頷いてみせれば、眉を下げて困ったように笑った。
 どうやら俺がしたいことに、名前はきちんと気付いているらしい。

「私、お風呂入ってないんだからね」
「ああ、さっき聞いた」

 名前はちょっと口を尖らせたものの、こちらを向く潤んだ瞳は安心したように見える。
 ぐっとこちらに寄ってきた名前がそっと腕を伸ばしてきたので、我慢できずにこちらから抱き着けば、名前はくすぐったそうに声を出して笑った。

   〇

「一文字則宗」
「ん? どうした」

 名前が酔っ払ったあの日から、数日が経った。今日は朝から日差しが強く、屋根のない畑での作業では汗が滲み、仕事を始めて三十分も経たないうちにジャージを脱ぐはめになった。
 汗が滲み、土で服も体も汚れた。作業を終えたところで汗を流そうかと風呂に向かえば、縁側を歩く一文字則宗を見つけた。一文字則宗の名を呼んで傍に駆け寄ると、目を細めて笑う一文字則宗は俺の言葉を待つように口角を上げる。

「先日――名前が酔っ払った日、いろいろと話を聞いた。名前への助言、感謝する。ただ……あの時、俺はあんたに妬むような気持ちを抱いた。今日はそれを謝罪したい」

 頭を下げてすまないと言えば、一文字則宗は扇子で口元を隠して笑いつつ「何でお前さんが謝るんだ」と言った。
 おかしそうに笑う一文字則宗の体が揺れ、柔らかそうな髪も揺れる。面白いなと、一文字則宗は目を細めた。

「言わなければ、俺の気が済まない。それに、あの日あんたに会わなければ、俺は自分の気持ちに気付くことはなかっただろう」
「……お前さんの気持ちとは?」
「……わかってて聞くのか」
「うははは、良い性格をしているだろう?」
「自分で言うものではないだろう」

 楽しそうに笑う一文字則宗を前に、名前への気持ちを明かせば一文字則宗は頷いて優しく微笑んだ。こちらを見る瞳は、先日と変わらず優しかった。

「――そうだ、お前さんには伝えておこう」

 そう言って小さく微笑んだ一文字則宗は、その青い瞳を閉じて秘密を語るような口調で話し始めた。
 聞けば目の前の一文字則宗は、元監査官という立場を使い名前の親戚である審神者の本丸を訪れたらしい。

「――僕は、どうして骨喰藤四郎が欲しいのかと聞いたんだ。手間を掛けずに強い刀が欲しかったのかと問えば、わかりやすく動揺していたが一番の理由はそれではないと言われた。強い刀なら他にもいくらでもいるから、まあ確かにそれだけが理由じゃないんだろう」
「そうだな」
「じゃあ一番の理由は何だと問えば『あの場にいた刀剣男士の中で一番審神者を信頼し、意識しているように見えた』『人間相手にそこまで強く意識してくれる骨喰藤四郎が本丸にいてくれたのならば、心強いと思った』と言った」
「……」
「だから、言ったよ。わかってるじゃないか、と。だからこそ、骨喰藤四郎を譲る訳にはいかないと付け加えてな」

 一文字則宗は目を細め、俺を見る。

「他の人間相手では、ああはならないと言えば、漸く理解したようで謝られた」
「そうか」
「申し訳ないと何度も謝られ、最後には上等な菓子折りまで貰った。別に悪い人間じゃなかった。主が苦手な親戚の方は知らないがな、うははは」

 肩をすくめて笑う一文字則宗は「主が異なる本丸に足を踏み入れて、改めてこの本丸が僕には居心地がいいと思った」と言った。
 風が吹いて一文字則宗の髪が揺れる。道場がある方角から手合わせをしている声が聞こえてくると、一文字則宗が優しく目を細めた。

「……」

 今日の一文字則宗からは、あの日の夜のような香りが漂ってこない。少し考えて、一文字則宗が午後の出陣部隊の隊員として出陣する予定であることを思い出した。

「午後の出陣、あんたの活躍を期待している」
「うははは、土産を楽しみにしてろよ」

 俺の言葉に一文字則宗は頷いた。準備のために自室へ戻るという一文字則宗を見送り、風呂へと向かう。
 台所の方から兄弟の声が聞こえ、名前が笑う声が聞こえた。その楽しそうな声を耳にしただけで、俺の胸には幸せな気持ちが溢れてくるようだった。

Thank you very much!(10周年&30万打企画)
20221112
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