企画小説
知らない男の匂いがする。
主である名前とすれ違った時、大倶利伽羅は眉を顰めてそんなことを思った。
朝餉に向かうらしい名前は、寝間着に寝癖がついた頭で大倶利伽羅に声を掛けてきた。「おはよう」と言った言葉はいつもよりも少し嬉しそうで、でも特別何か違った風でもなかった。
この本丸の燭台切光忠は香水をつける。香水が、つける者によって香りが変わることを大倶利伽羅は知識として知っていた。以前燭台切が太鼓鐘貞宗とそんな話をしていたのを聞いたことがあるからだ。
しかし、そういった次元の話ではない。
この本丸の刀剣男士の匂いとも、男士が持っている香水の匂いとも全く別の、知らない匂い。それが自分の主からしたことに大倶利伽羅は言葉に出来ない感情でいっぱいになった。
あの匂いはなんだ?
大倶利伽羅は、去っていった名前の後ろ姿を見る。大きなサイズのTシャツは、何度も洗濯を繰り返したせいで色が少し褪せていて歌仙兼定が文句を言っていたものだ。首元が緩んで形が崩れていて、雅じゃないといつもの口癖を繰り返していた。
人の恰好にとやかく言うつもりはないが、流石にあの恰好で本丸を出た訳ではあるまい、と大倶利伽羅は考えた。刀剣男士の知らぬ間に、あんな恰好のまま本丸外で逢引しているとは考えられない。
しかし、どう考えても鼻についた匂いは本丸の刀剣男士にはない香りで、大倶利伽羅は胸に靄が掛かったような心地のまま内番のために畑に向かった。
〇
キャラクターをイメージした香水というものがあると、最近知った。というのも、好きな漫画のキャラクターイメージ香水が発売されたらしいのだ。
香水を購入したファンの感想をネットで読んだ時、興味が沸いた。発売された全キャラクターの匂いをサンプルで嗅いだというファンのレポを食い入るように見て、そうして一つ香水を購入した。勿論一番好きなキャラクターのもので「完全にメンズの香水」という感想を見て最初は躊躇したが、いくつもの感想を読めばどんどん興味が沸いて、いつの間にか購入ボタンを押していた。
香水が届いた日の夜、部屋の中で数回、宙に香水を振りかけた。
プシュ、と部屋に霧が舞う。すんと匂いを嗅げば、今までなかった男の人の匂いに思わずにやけてしまった。自分の部屋に今までになかった匂いは暫くすると感じなくなってしまい、少し残念に思いながらも満足感で満たされる。
「幸せだ……」
普段から香水をつけるようなタイプのキャラクターには思えなかったけれど、彼が初めて香水を購入するとしたら、こんな匂いに違いないと思った。
香水が届くまで、好きなキャラが香水をつけるかどうか正直疑問を持たなかったわけではない。が、ふんわり香る匂いに一瞬で世界に感謝した。布団の上で大の字になりながら最高のプレゼントを買った自分を褒め、余韻に浸った後に友達に感想のメッセージを一方的に送った。
〇
手合わせを終え、汗を流すために風呂場へと向かう途中、大倶利伽羅は主である名前と鉢合わせた。
お疲れ様と笑う名前は先日とは異なり寝癖はなく、うっすらと化粧をしている。襟のあるシャツとスラックス姿の名前を見て、大倶利伽羅は今日は書類仕事を終わらせるつもりかと察する。名前がどちらかというと形から入るタイプの人間なのと、以前「仕事が出来る女の人っぽくない?」と太郎太刀を前にはしゃいでいたのを見たことがあるからだ。ちなみにその時の太郎太刀は「はぁ」と少し戸惑った反応をしていた。
そんな名前とすれ違う瞬間、また知らない匂いがしたことに大倶利伽羅は気付く。しかもそれは、先日のものとも異なる匂いだったため大倶利伽羅は思わず「は?」と声を漏らしてしまった。
以前の、どう嗅いでも男物とわかるようなものではなく、若い男が漂わせるような甘ったるい香りに大倶利伽羅は混乱し、眉が寄る。眉間の皺が深くなるのを感じながら振り返れば、名前はぱちくりと瞬きを繰り返しながら「どうしたの?」と首を傾げた。
「どこか、行ったのか」
「ううん」
どこにも、と首を振る姿に名前が嘘をついていないことがわかる。
じゃあなんなんだ、と思いながらも大倶利伽羅は口にしない。
「え、どうしたの? 大倶利伽羅、買い物行きたかったとか?」
「違う」
なんでもない、と振り返り風呂場へと向かう。
先日のように、また大倶利伽羅の胸の辺りは靄が掛かったようにどんよりとした。
この本丸に大倶利伽羅が顕現してもう五年は過ぎただろうか。
なれ合うつもりはないとはいいつつ、五年も共に生活をすれば名前の好きなものや嫌いなもの、趣味特技に諸々と勝手に頭の中に入っていく。
この五年の中で、名前に香水をつける習慣などなかった。だから、大倶利伽羅はわからない。どうして名前があんな匂いをさせているのか、と。
ただ甘ったるい香りだったのなら、何も思わなかっただろう。女物の、ありふれた花の香りだったり、シャボンだったり、そういうのだったら違和感は感じなかったはずだ。形から入るタイプの人間だと知っていたから、何かあったのだろうと思っただろう。
けど、それとは全く違う。先日のは特に、名前が誰か特定の男のものであると言われているように大倶利伽羅は感じた。
〇
イメージ香水に喜んで友達に感想を送ったら、次の日の夜に香水が入った荷物が本丸に届いた。
荷物の送り主は香水の感想を送っていた子で「良かったら使ってほしい」とのことだった。
話を聞けば、友達が推している男性アイドルが使用している香水らしい。同じものを使いたいと思って購入したものの「一度使ってみたけど、ふとした瞬間香る匂いに人間の体を保てくなりそうだった」という。
きっと以前の私なら「人間の体を保てなくなりそうだった」という友達の言葉に大げさなと笑っただろうけれど、今はなんとなく友達の心情が理解出来た。匂いに気付けば自然と口元が緩み幸せな気持ちになるものの、きっと人に見られたらだらしない顔をしているに違いないと気付いてしまったのだ。開けた形跡のないパッケージについて聞けば、彼女はその香水を複数買いしていたらしく、そのうちの開封していない一つを送ってくれたらしい。
結局、あのイメージ香水は夜寝る前につけるだけにしていて、他では使わないようにしている。へらへらしているところを男士に見られるわけにはいかないからだ。
友人から受け取ったは香水を試してみれば想像よりもずっと使いやすい香りで、話を聞いていたせいか友人の分も使っていきたいと思うようになった。
自分に合っているのかはよくわからない。けれど、審神者として仕事をする時につけるようになったら燭台切は「身だしなみを整えるのはいいと思うよ」と笑ってくれたし、和泉守兼定もすぐに「いい香りじゃねぇか」と反応してくれた。この二振りは特に、お洒落をするとわかりやすく反応してくれて、自分のことのように喜んでくれるツートップだ。ちなみにわかりにくく反応してくるのは歌仙である。
匂いに敏感な男士もいるだろうからと、香水をつける時はきつくならないよう足首にワンプッシュだけつけることにした。けど、大倶利伽羅は嫌いな香りなのかもしれないと、最近気付いてしまった。すれ違う瞬間、いつも眉を寄せるのだ。
自分にとっては好きな香りでも、周りの誰かにとって不快な香りかもしれない。友達から貰ったものの、彼ら刀剣男士に嫌な思いをさせてまでつけようとは思っていない。だから、大倶利伽羅には確認しておこうと思った。今日は丁度買い物のお供をお願いしていたから、いいタイミングで……なんて思って買い出しのメモを取りに仕事部屋へ向かうも、何故か机の上に見知らぬ香水瓶が置いてある。
「……?」
仕事用の机で、私だけしか使わない机で、そんな机の上にちょこんと小さめなガラス瓶があるなんて、どういうことだろう。男士の誰かが、近くで落ちているものを私のものだと勘違いしたとか?
赤い色をしたガラス瓶と金色のキャップがキラキラとしてかっこいいそれを手に取る。今日は友達の香水をつけていないから匂いが混ざる心配もない。好奇心から手首につけて匂いを嗅いでみることにした。周りには誰も聞いていないと知りつつ「借りまーす」と、念のために断りを入れながら。
「んー?」
どこかで嗅いだことのある匂いで、男士のものなのは間違いないはずなのに正解がわからない。
非番の日の燭台切から香る匂いが普段と違うこととか、数珠丸の部屋は高級そうなお香の匂いがするとか、そのくらいのレベルで生きてきた私には、誰の匂いがどんな香りをするか、なんて考えたこともなかったのだ。
「うーん」
わからない。
けど、買い物のお供に待たせている大倶利伽羅のことを考えたら持ち主を探すのは帰ってきてからの方がいいだろう。
どんな香りかと聞かれたら言葉にするのが難しいけれど、嫌いな匂いではなかった。むしろ好きな香りといっていい。私が持っているイメージ香水とも友達から貰った香水とも違った雰囲気のもので、男士がつけているものだからか馴染みのある香りは自分がつけても違和感もないような気になってくる。
忘れずに買い出しメモを取って玄関へ向かえば大倶利伽羅が壁に背を預けて待っていた。
目を瞑り、腕を組む大倶利伽羅に「お待たせ」と声を掛けて急いでスニーカーを履けば「待っていない」と言われる。
なれ合うつもりはないとか言いながら、お願いすれば文句を言いながらもちゃんとこうして一緒に万屋行ってくれるんだよなぁなんて思いながら腰を上げれば大倶利伽羅が玄関の引き戸に手を掛けながらこちらを見下ろしていた。満足気に見えるのは口角が微かに上がっているからか。
「……そっちの方がいい」
ぼそりと呟いた言葉の意味がわからず「え、何?」と返せば鼻で笑われる。
「行ってきまーす」
玄関を出てながらそう言えば、行ってらっしゃーいと至る所から言葉が返ってくる。そうして大倶利伽羅の横に並べばハッと気付く。
ふわりと香る匂いは、まさしく先ほど机の上に置いてあった香水のもので、驚いて大倶利伽羅へと顔を向ければ、さっきりもわかりやすく口元に笑みを浮かべていた。
20(二十万打企画)
20200704