企画小説
 初対面で友好的に接してくる人ほど、案外厄介で用心しなくちゃいけない人なのよ。
 昔母に言われた言葉をふと思い出したのは、目の前の男がまさにそれを体現しているような言動を取っているからだった。



 怪我をした。神社からの帰り道のことだ。
 近々姉が出産する。めでたいが、不安でもある。私に出来ることはほとんどなく、しかしだからといって何もしないではいられなかった。
 姉と、生まれとくる子のためのお守りを求めに神社へ出掛けることにして、早朝に家を出た。山を超え、いくつかの川を越えて辿り着いた神社で目的を果たすも、帰り道で雨に降られた結果、ぬかるんだ泥に足を取られ、転んでしまった。
 胸元に大切にしまったお守りに被害は無かったためほっとしたものの、怪我は痛い。
 雨もひどくなってきたところで虚しくなりながら辺りを見渡すと運よく廃寺を見つけることが出来て、そこで出会ったのが私と同じように雨に濡れた男だった。長い髪からポツポツと雫を落とした男が私の怪我を見て声を上げた。

「大変だ!! 手当てをしないと!!」

 廃寺は雨漏りがひどく、中を見るも人が寝起きをしている様子もなく、ほこりっぽい。山賊の類の根城にもなっていないようだった。

「怪我を見せてくれるかい?」

 雨音を聞きながら男に足を差し出す。こんな年齢になってまでどこを怪我しているのだと思われそうだな、なんて考えながら着物を払って膝を見せれば「痛くない?」と目の前の男は眉を寄せた。
 平気ですと、頷きながらかすり傷のある手の平も見せれば男は「まず泥を洗い流そうか」と腰を上げ「手ぬぐいを濡らしてくるよ」と外へ出た。

 どこからか桶を見つけてきた男は、綺麗な水が入ったそれを使って綺麗に泥を洗い流してくれた。
 聞いてもいないのに「この裏に湧き水が流れてたんだよ」と言い、喉が渇いたのならのなら飲み水も持ってくるよと笑う。

 入口の戸の傍に置いてあった荷物を広げた男は手早く私の怪我を処置する。手慣れた様子に関心しつつ、しかし胸の辺りに占めるのは違和感だった。
 両親は昔、尊敬していた人に裏切られたことがあるのだという。そのせいか、母はよく「初対面で友好的に接してくる人ほど、案外厄介で用心しなくちゃいけない人なのよ」と言った。優しい顔をして、安心させておいて、裏切る人がいるということを忘れないでね――と。
 誰しもが裏切るために近付いてくるわけではない。けれども、そういう人がいることを忘れてはいけないのだと幼心にも理解した。

「早く晴れてほしいね」

 男が私の膝に薬を塗りながらそう言った。男の声は随分と甘く、優しい音のように聞こえる。

『初対面で友好的に接してくる人ほど、案外厄介で用心しなくちゃいけない人なのよ』

 母の言葉を思い出す。
 この男は、どうだろう。怪我を治療してくれているにも関わらず、用心すべきかどうか考えてしまう。
 だって、あまりにも親切すぎはしないだろうか?

 私と同じように転んでしまったのか男の着物が泥で汚れていて、手には傷跡がいくつかあった。男の濡れた髪が揺れる度に薬の匂いがして、長い指が器用に包帯を巻いていく。
整った顔立ちをした優男の慣れた動きに圧倒される。もしかして医療に携わっているのだろうか。
 治療の合間に平気だよ、傷は残らないから安心してねとなだめるような言葉を掛けてきて、まるで子ども扱いだなと思った。背格好を見るに、年齢はあまり変わらないはずなのに。しかし場所のせいもあるのか、手当てを受けている間、何度かこの男は仏様なんじゃないかと錯覚しそうになった。そんなはず、ないのに。

「はい、これで良し」
「……はあ、ありがとうございます」
「どういたしまして」

 あっという間に終わってしまった治療にお礼を言えば男は笑った。
 濡れた髪を掻き上げる仕草に少しどきりとしながら「なんで、こんなことを」と言えば、えっ、と驚いた顔をされる。

「どういう意味?」
「ど、どうしてこんな丁寧に手当てをしてくれたんですか」
「えっ、だって、ぼくは保健委員だし」
「は?」

 ホケンイイン?
 なんでもないような顔で喋る男の言葉に首を傾げれば、男は慌てたように「怪我をしている人がいたら、当然のことでしょ?」と言う。

「お金とか、体とか、そういうのが目的ではないんですか?」
「はあ!? 君、何言ってるの」

 あり得ないといった風に顔を真っ赤にさせて一気に壁まで後ずさる男に拍子抜けする。なんだ、じゃあこの人は用心しなくちゃいけない人じゃないのか、と。
 膝を手当てしてもらうためにはだけていた着物を直してから奥で体を縮こませてしまったその人に向かって「お名前、何て言うんですか」と聞けば、真っ赤な顔をそっぽに向けながら「善法寺伊作、です」と返事が返ってきた。

「善法寺さん……改めて、治療してくださってありがとうございます」

 丁寧に礼を言えば、善法寺さんは顔をこちらに向けて「いいえ」と首を振る。
 私が姉のためにお守りを求めたのと同じように、善法寺さんの手当ても見返りを求めない感情から生まれたものなのかな。ホケンイインというのがよくわからないけれど、当然だという風に人を診る姿は好感がもてる。


「ホケンイインだと怪我の手当てが普通なんですか?」
「えっ? ああ、うん。ぼくはそう思ってるよ」
「何でって、聞かれたことないんですか?」
「……あるよ」

 軒下に出て空模様を見ていると、善法寺さんも同じように軒下に出てきて座った。残念なことに少し距離を置かれてしまっているが、話しをする時はちゃんとこちらを向いて話してくれる。

「善法寺さんはお医者さんなんですか?」
「ううん、違うよ」

 私の質問に善法寺さんは嫌な顔せず答えてくれる。先ほどよりも控えめになった雨音と一緒に優しい善法寺さんの声が耳に入ると胸の辺りに満足感を感じた。

「最初、怪しい人なんじゃないかって思いました。私じゃとても払えないようなお金を求められるのかなとか、こんな人気のないところだから何をされても助けはこないぞって言われるんじゃないかとか」
「君、そんなこと思ってたの? 危ないよ、そんな時は逃げなきゃ」
「いつもなら、してたと思います。私も危険な目にあいたくはないですから。けど、頭ではそんなことを考えつつ、この人なら大丈夫だなって思ってたんだと思います」

 他人の心を読むことが出来ないけれど、人の本質を見抜ける人になりなさい。
 いつか父はそんなことを私に言った。私は私の勘を信じ、怪しいかもしれないけれど大丈夫だと思ってされるがままに善法寺さんの手当てを受けたのだ。

「それに、善法寺さんって顔がいいから、騙されたとしても、それも経験かなって」
「……それ、嬉しくないし本当にこれからは気をつけなよ」

 半分冗談で言った言葉にも真面目に答える善法寺さんはため息を吐いた。
 霧雨になった空を見上げ、軒下から手を伸ばす。ぬかるんだ道に憂鬱だが、長々とここにいてはすぐに暗くなってしまう。帰りが遅くなれば家族は心配するだろうし、冗談でなく危険な目にあう可能性が高くなっていく。それだけは避けなければいけない。
 善法寺さんの方に顔を向ければ、空を見上げる善法寺さんの横顔は手当てをしてくれた時よりも少しだけ幼く見えた。


「善法寺さん、今更ですが、私は名前と申します。もしどこかでまた会ったら、その時はお団子でもおごらせてくださいね。お礼をしたいので」

 流れる雲の隙間からお天道様がちらりと現れて、この時間の終わりを知らせた。
 もしもが本当にあるのかはわからないけれど、あってもなくても私の中で善法寺さんは特別な人になったことには変わりはない。

「ありがとうございます。本当に、この御恩、一生忘れません」

 体を横に向けて頭を下げれば大げさだよと肩をすくめる善法寺さんに笑って腰を上げる。
 荷物をまとめて寺を出れば、後ろから善法寺さんに声を掛けられた。

「名前さん、お元気で」

 手を挙げて言う善法寺さんにもう一度頭を下げて転ばないように歩みを進める。
 善法寺さんは「また」とは言われなかったなと思いながら空を見上げれば、雲は流れ、青い空が広がっていた。

20(二十万打企画)
20200519
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