企画小説
 久しぶりに、岩ちゃんの泣き顔を見た。
 春高の、烏野との試合が終わった後のことだ。
 コートに立ちすくんだ岩ちゃんは、悔しそうに俯いていた。
 目を真っ赤にさせて、何かを言おうとするも言葉が出ず涙ばかりが溢れるのを堪えるような表情をしていた。腕で強引に涙を拭い、体育館から去っていく表情に胸が痛んだ。


 だからあの日、私は家に帰ってくる岩ちゃんを待っていた。彼に声を掛けなければならないような気がした。自分勝手だとは思うけれど、それでも何か言っておかないと自分の気が済まないような気がした。

「岩ちゃん、泣くなら私の胸貸すから!!」

 でも、多分これは正解の言葉じゃない。

   〇

 岩ちゃんとは幼馴染で、家が隣同士の私たちは今でこそ家の行き来こそ無くなったが、高校生という年頃の割に仲の良い友達でいられている――と思う。きっと岩ちゃんだって、そう思ってくれているに違いない。

 小学生の頃は毎日のように岩ちゃんの後をついてまわった。学校から帰ったらすぐに岩ちゃん家のインターホンを鳴らす。そうすると、岩ちゃんは私に付き合ってくれるのだ。
 岩ちゃんは私を一度も邪険に扱うことはない。それがまた嬉しくて、調子に乗ってよく怪我をした。そして怪我をすれば必ず岩ちゃんと徹くんに叱られた。

 岩ちゃんが徹くんとバレーをはじめてからというものの、バレーの試合は必ず見に行くようになった。
 バレーに励む二人は楽しそうで、小学生の頃は私も一緒になって練習をしたけれど、中学生で二人がバレー部に入ってからは観戦専門になった。
 二人が勝つ姿を沢山見た。負ける姿だって何度だって見てきた。喜んでガッツポーズをする姿も、泣き顔も見てきた。けれども今日の烏野高校との試合は、こっちが辛くなるほどの泣き顔だった。悔しくて悲しくて、胸が痛んだ。中学以来の泣き顔に、胸が締め付けられた。

 だから、久しぶりに泣いた岩ちゃんに何か言わなくてはいけないと思った。
 励ましの言葉はむしろ言ってはいけないような気がして、顔を見た瞬間に口から出たのが「岩ちゃん、泣くなら私の胸貸すから!!」という、励ましの言葉よりも必要のない極めて失礼な言葉だった。

 自分の胸に自信を持ったことなんて一度としてないし、岩ちゃんは硬派である。そんなことで喜ぶ人じゃないし、女の子の胸で泣くのなんてありえないと拒否するタイプだ。
 ドン引かれる未来しかない。けれども、月明かりに照らされてぼんやりと光る白いジャージを着た岩ちゃんを見た時、私はついそんなことを言ってしまった。
 ジャージのポケットに手を突っ込み、少し俯いて歩く岩ちゃんを見て、母性がくすぐられたというか……。そんな言い訳が頭をぐるぐると駆け回る。岩ちゃんに伝える気はないのだから、意味のない言い訳だ。

 私と岩ちゃんの間には、今まで性別なんてものは存在していなかったような気がする。人間には性別が存在することは勿論理解している。けれども私は、岩ちゃんを岩ちゃんとしか見ていなかった。岩ちゃんが男の子だということは百も承知なのに、男の人として見たことがなかったことに気付いたのだ。

 多分私は初めて、彼を男の人として見た。
 自分自身に驚いて顔を上げると、彼は何も言葉を発しないまま固まっている。

「……」
「……」

 と、突然岩ちゃんは困ったように眉に皺を寄せ、大きなため息を吐いた。
 少し腫れた目だ。岩ちゃんは私と目が合った瞬間視線を外す。

「……名前は何を言ってんだ」

 頭をガシガシと掻いた後、岩ちゃんは無駄に大きなため息を吐いて私に軽くデコピンをした。

「痛い」
「……そんな痛くしてねぇ」
「岩ちゃん、あのね――」
「名前、もう家に戻れ。風邪ひくぞ」
「えっ、うん。あの岩ちゃん――」

 あっという間に玄関の戸を開け、家に入ろうとした岩ちゃんに私は少し大きな声で「お疲れ様、おやすみなさい」と声を掛ける。岩ちゃんは振り返りこそしなかったけれど、扉を閉める手を止め「おやすみ名前」とぶっきらぼうな声で返してくれた。

   〇

 年を越し、私が見る岩ちゃんのジャージ姿といえばお揃いの学校ジャージになった。まぁ、学校指定のものだからお揃いも何もないんだけど。
 バレー部の白いジャージを着た岩ちゃんを、私はあの日以来見ていない。体育だって毎日あるわけではないから、最近は制服姿の岩ちゃんばかり見ている。

「あっ、名前ちゃん」
「徹くん、おはよう」
「おはよー」

 高校生になってから、岩ちゃんとは同じクラスになったことはない。一緒に遊ぶことも無くなった。部活が違うから登下校も別で、休日だって岩ちゃんには部活があった。試合を見に行くことはあれど、だからって特別何かするわけではない。岩ちゃんが部活を引退したからって、遊ぶようになるわけじゃない。今度は私が勉強で忙しくなっていた。
 寂しいとは思わないけれど、幼馴染から普通の友達になっていくような気がした。彼氏彼女という関係ではないから毎日連絡することもない。
 会わない日がどんどん増えていって、きっと高校を卒業したら友達でもなくなるかもしれない。知り合い、顔見知り――実家を出たら、そんな呼び名すらなくなってしまうのではないか。

「名前ちゃん、最近疲れた顔してない? 勉強疲れ?」
「えぇ、そうかなぁ」
「無理しちゃダメだよ」
「徹くん、有り難う」

 ……徹くんのジャージ姿はよく見るんだけどな。

   〇

 放課後、徹くんに誘われて家の近くにある体育館にやってきた。
 少し体を動かしたら気分がすっきりするよと言われたのだが、まさかそこに岩ちゃんがいるとは思わなかった。

「岩ちゃん、なんだか久しぶりだね」
「ああ」

 学校のジャージでも、部活のジャージでもない岩ちゃんがバレーボールを持って私の前に立っている。
 久しぶりの対面に少し胸がざわざわとした。恥ずかしい、でも会えて嬉しい。そういった気持ちを岩ちゃんに抱くようになるとは思わなかった。びっくりである。
 既にジャージに着替えていた私は、軽くストレッチをしてからコートの中に入ってみる。ネットが既に張られており、準備は万端である。

「私、昔と違ってバレーは授業でしかやらないんだけど」
「体は覚えてるでしょ」
「その言い方ちょっと、ヤダ」

 久しぶりの徹くんのトスにドキドキしながらスパイクを打つ。強く打ったつもりだけれど、鼓膜を震わせたのは想像していたものよりもずっと軽い音。当たり前かぁと思いながらも、じんじんと痛みを訴える手の平を見て感動すら覚えた。久しぶりの感触だったからだ。

 ネットは低くてどう見ても私向け。岩ちゃんは徹くんにボールを投げ、徹くんが私の打ちやすいようにトスを上げてくれる。私が打ちやすいゆっくりなトスだ。
 二人からしたら、面白くないはずなのに。
 それでも、私のためにと付き合ってくれる二人から回ってきたボールを打ち逃さないように地面を蹴り、誰もいないネットの向こう側へとボールを打ち込む。
 額に流れる汗を腕で拭い、荒くなった息と心臓の音は久しぶりの感覚だった。

 ちょっと休憩ーと、水分補強するために体育館の端に座り込めば岩ちゃんもやってきて隣に座り込む。ペットボトルに入っているスポーツドリンクを飲んだ後、岩ちゃんに「飲む?」と差し出せば、ため息を吐いて「自分のがある」と彼はそっぽを向いた。

 隣のコートでバレーをやっている大学生グループに声を掛けられた徹くんは、ちょっと付き合ってくると言って試合に混ざってしまった。岩ちゃんはいいのと声を掛ければ、別にとそっけない言葉が返ってくる。

 ジャージを脱ぎ、Tシャツ姿になった岩ちゃんは壁に寄りかかって小さく息を吐いた。

「俺は、名前の前でもう泣かない。だけど、もしも名前が泣きたくなった時は――」


 卒業をしたら、家を出る。
 年が明けてから二人にそんな話をした。お正月に会った時のことで、大学生になったらなかなか会えないと伝えたら徹くんは大げさなリアクションを取り、岩ちゃんはそうかと小さく呟くだけだった。

「――いつでも言え。慰めに行く。名前が言うなら俺の胸を貸してやるから」

 少し早口で、顔を真っ赤にした岩ちゃんは私の頭をガシガシと撫でまわす。

「だから、安心しろ」

 岩ちゃんの低くて優しい声は、いつも私を安心させてくれる。
 うんと頷けば軽く背中を叩かれ、岩ちゃんは私に自分のジャージを被せてきた。
 頭に被せるようにして覆われたジャージによって視界は暗いし岩ちゃんの匂いがする。ジャージ一枚覆われただけでさっきまで遠くに聞こえていた徹くんの声はこもったようにしか聞こえなくなって――


「そう簡単に離れてやんねーよ」

Thank you from the bottom of my heart.(十万打企画)
20181116
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