企画小説
 二十四節気でいうと、もう既に秋らしい。
 けれども未だむしむしと暑い日が続いており、西日を受けるだだっ広い地学室に一人でいると、余計に暑さを感じてしまう。
 いつになったら涼しくなるんだろう。そう思いながら背を伸ばして黒板に張り付いていた資料と磁石を取った。

   ○

 放課後、掃除のために生物室へ行くも先生はいなかった。
 クラスメイトの一人がロッカーから箒を取り出して部活で遠征に行くのだと言えば、もう一人がバイトだと言い出す。じゃあ先生が来るまでに終わらせてしまおうということになり、私たちは普段よりも簡単に掃除を終わらせることにした。
 元より今日の部活は休みであった私は、先生に掃除が完了したことを伝える役割を引き受けて職員室へ向かったのだけれど、そこで何故か地学室の掃除も頼まれてしまう。

「あの、先生、実は他の皆帰っちゃって……」
「えっ、そうなの? じゃあ、黒板掃除だけでいいから頼まれてくれない?」

 ごめん、とすまなそうな顔をして書類の数を数える先生の頼み事を断ることは出来なかった。黒板だけでいいなら、と断りを入れると「助かるよ、有り難う」と言って先生はご褒美にと飴玉を一つくれた。


 生物室の近くにある地学室は、たまに掃除を頼まれる教室でもあった。聞いた話では、頻繁に使用しない教室のため掃除はたまにしか行わないらしい。
 教室の端には段ボールが積み重なっていて、普段掃除をしている生物室より整頓されていない印象を受ける。

 今日はここで授業があったようだ。黒板には資料と一緒に雑に消された絵と文字が書かれていた。
 職員室を出た時はさっさと終わらせて帰ろうと思っていたけれど、いざその汚れた黒板を前にすると溜息をつきたくなる。

 磁石で貼られていた紙の資料を取ってからチョークで書かれた文字を消していく作業は、普段ならなんとも思わないが一人ということもあって虚しさが募っていく。
 上まで届かないため椅子に乗って文字を消していくも、黒板消し自体が汚いため黒板は薄く白みがかってしまう。

「黒板消しクリーナー、どこだろう」

 椅子の上から辺りを見渡していると、突然「なんだ、名字じゃねぇか!!」と大きな声が教室に響いた。

「西谷くん!?」

   ○

 同じクラスの西谷くんは、一年生の時からの知り合いだ。
 入学式の日、教室に入ると一番最初に目に入ったのが彼だったのだ。
 逆立てた髪の毛と少し小柄な体を見て、その数日前にテレビで見た鳥に似ているなと思った。なんという鳥だったかはもう覚えていないけれど、そんな第一印象を抱いたのが強く記憶に残っている。

 最初は、特に意識なんてしていなかったのだ。


 烏野に入学してから最初の学校行事の時、西谷くんはクラスの中心となって行事を盛り上げてくれた。
 西谷くんは声が大きくていつも楽しそうに笑うから、クラスが嫌な雰囲気になることは一度も無かった。サボることもなく一生懸命で、率先して作業を手伝う男の子でもあった。そういうのを見て、ただのうるさい人ではないんだと知った。
 去年の文化祭でも、準備段階の時からそういった姿をよく見かけた。クラスTシャツを着た彼が、あちこちを駆け回る西谷くんの姿を思い出す。他の男の子と同じようにふざけることだってあるし、うるさくして注意されることもあるけれど、彼は悪ふざけをして周りに迷惑をかけることはなかった。

 西谷くんは熱い人で、努力家でもある。
 バレー部に入っていて、守備の人だということを本人から聞いた。そういう人を、リベロというらしい。
 夏のある日、部活の休憩中だという彼に会ったことがある。声を掛けられて少し話していると、動きの大きい西谷くんの腕にある痣がいくつも見えた。白いTシャツから延びる腕にあるそれを見て、私は何も考えずに痛くないのかと尋ねていた。
 西谷くんは最初こそ不思議そうに首を傾げたが、すぐにへっちゃらだと言って笑った。自慢している風でもごまかしている風でもないその表情を見て、何故か私はかっこいいと思った。

 西谷くんは、多分、とても女の子が好きだ。
 それを隠す気はないようで、女の先輩の名前を呼んで喜んでいる姿を見かけることが多々あった。いつからか、それを見ると少しだけ悲しくなるようになった。

 いつの間にか、同じ教室で彼と過ごすうちに彼を好きになっていった。
 友達には、西谷くんのことを好きだという気持ちはバレてしまっている。「名前とは真逆のタイプだね」と言われて、思わず「真逆だから好きになったんだと思う」と答えてしまったことは今でも鮮明に覚えている。今思い出しても、とても恥ずかしい。

 西谷くんは優しい男の子だ。
 時々元気すぎるなと思うことはあるけれど、太陽のように明るい所が好きだ。綺麗な、可愛い先輩に己をアピールする西谷くんを見て、胸が痛む程度には私は彼が好きなのだ。
 純粋に女の人が好きなのか、それとも本当に好きな女の人がいるのかがわからないけれど、それでも私は西谷くんがとても好きだ。

   ○

 一人掃除をしていた地学室に顔を覗かせた西谷くんが、何故かズンズンと元気に入ってきた。目の前までやってきた彼は「一人で掃除してるのか?」と首を傾げている。
 掃除の班が同じではないから彼がここにいる理由がわからない。それ以前に、彼を前にすると私の頭の回転は随分と遅くなる。
 制服でなくTシャツとジャージという姿を見るに、今日は部活らしいということはわかったけれど、だからこそ何故ここにいるのかと頭を働かせる。

 達筆な黒文字で百戦錬磨と書かれた白いTシャツを着て私を見上げる西谷くんは「先生探してるんだけどよ」と、持っていたプリントをひらひらとさせる。
 それを見て、今日中に提出と言われていたものだと気付く。西谷くんが探している先生のことは見ていないと答えれば、そうかと彼は肩をすくめた。

「それ、やってやろうか?」

 職員室にはいなかったの?
 そう聞こうと口を開けば、西谷くんがそう言って私に手を差し伸べてきた。
 彼は私が手にしている真っ白になった黒板消しを指指して苦笑いをする。「クリーナー、あっちにあるんだぜ」と、教室の端を顎で示す彼に私はただ「えっと」とか「うん」としか言うことが出来ていない。西谷くんは「俺も前にここの掃除したから知ってんだ」と言ってくれたものの、先生を探している上にこれから部活の彼にそんな手間を掛けさせるわけにはいかない。それに、ただでさえきちんと反応出来ていない私には、教室に彼と二人きりなんて状況に耐えられるはずがない。

「だ、大丈夫だよ。有り難う。私は今日部活無いから」

 だから、西谷くんは先生を探した方が――そう言って椅子から降りようとした時、ふとバランスを崩した。




「……」
「……」

 そんなに高い椅子でもなかったけれど、けれども椅子から落ちそうになった時はまずいと思った。けれども今は、別の意味で大変まずいことになっている。

「だ、大丈夫か? 怪我、無いか?」

 普段よりもずっと近い距離からする西谷くんの声と、普段は感じることのない彼の体温。
 手に持っていた黒板消しはパタンと大きな音を立てて床に落ち、粉を散らしている。

 バランスを崩して椅子から落ちそうになった瞬間、西谷くんは落ちそうになった私を助けるために両手を開き、なんと、抱きしめたのだ。

 今、背中に彼の腕が回っていて、自分の顔のすぐ近くに彼の頭がある。彼の逆立てた髪が首にあたってチクチクしている。柔軟剤の匂いと共に少し汗の匂いがして、でもそれが不快ではないからなんだか少し安心した。

 彼が着ているTシャツを握りしめている自分の手が微かに震えている。ちょっとした高さであったけれど、それでも心臓がひゅんとして胸は一瞬で恐怖心でいっぱいになった。

 私の体を支えるために西谷くんは私を抱きかかえてくれていて、私も同じように彼の体に腕を回していた。彼に抱きかかえられているため足は宙に浮いていて、どんなに恥ずかしくたって彼を抱きしめている腕を離すわけにはいかなのがまた恥ずかしいさを倍増させた。
 夏だから互いの体温が少し熱くて、それでいて心臓は今までにないくらい音を立てている。きっと、このうるさい鼓動は彼にも伝わってしまっているはずだ。

「に、西谷くん、有り難う」

 そう言えば、彼はゆっくりと私を床に下ろしてくれた。自分の足で立つと腰が抜けて思わず座り込んでしまう。

「びっくりした……」
「……俺も」

 いろんな意味で、びっくりした。未だに心臓がうるさくて、それでもって顔が上げられない。体をめぐる血液が沸騰してしまったかと思うくらいに体が熱い。これは、蒸し暑いこの教室のせいではない。

 クラスメイトと並んでいると小柄に見える彼が、あんなにも逞しい体をしているとは思ってもいなかった。Tシャツ越しの彼の体は、自分のものとは全く違うもののように思えた。筋肉は引き締まっていて、私の体を支える腕はびくともしていなかった。

 彼と同じクラスになって二年。隣の席になったこともあるし、何かの拍子に体が触れてしまったこともある。けれども、今までとはくらべものにならない距離に彼がいた事実に心臓は未だどくどくとうるさい。

「ご、ごめんね」
「なんで名字が謝るんだよ。むしろ俺の方が謝った方がいいヤツだろ、これ」
「そんなこと、ないよ」

 事故とはいえ、彼に抱きしめられたことを恥ずかしいと思うのと共に、ちょっとだけ嬉しいと思ってしまったのは私が彼を好きだからだ。けれども、西谷くんは違うかもしれない。

「立てるか?」
「うん」

 そう言って、腰の抜けた私に西谷くんは手を差し伸べてくれる。そういう所も優しいなと思う。好きだなと、思ってしまう。

 女の子が好きな雰囲気を出しつつも、西谷くんは紳士的なところがあった。それが、私なんか眼中にないから出来る行動なのかはわからないけれど、それでも嬉しかった。
 勇気を振り絞って彼の手を優しく掴むと「そんなんじゃ立てないだろ」と笑われる。

「怪我、してねーか?」
「うん」
「掃除、手伝おうか?」
「大丈夫。黒板掃除すれば終わりだから。西谷くんは、先生見つけるの頑張ってね」
「ああ!!」

 勇気を振り絞って顔を上げれば、西谷くんの笑顔がある。彼のほっぺも少しだけ赤くて、なんだかまた心臓がうるさくなってくる。
 彼のことが好きだという気持ちは、募るばかり。けれどもその気持ちの行き先は正直いって全くわからない。西谷くんはわかりやすいように見えて、案外わかりにくいところもあるからだ。でも多分、そう思うのは私が彼に恋をしているからなのだろう。
 
Thank you from the bottom of my heart.(十万打企画)
20180904
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