企画小説
六月となり、雨の日が多くなった。
今日も朝からしとしとと雨が降っている。天気予報によると午後からは晴れるようだが、昼を過ぎたにも関わらず、未だ空には灰色の雲が広がり、お天道様を見ることは叶わない。
本丸内で、主である名前を探している刀剣男士がいた。
普段仕事をしている部屋へと向かう途中に兄弟刀と出会えば「今日こそ主さんに気持ちを伝えるの?」とからかわれ、前の主を同じとする刀には「今日も主に会いに行くのか?」とにやり顔で見送られた。
他の刀剣男士には、主に対しての好意は筒抜けであった。しかしながら、意中の相手である名前にはどうにも気持ちが伝わっていない。主従関係を結んでいるのだから一等優しい気遣いを勘違いされてしまっても仕方ないと思いつつ、難儀な感情を抱いてしまったと笑うしかなかった。
「大将――」
今度の出陣のことなんだが、と部屋を覗き込んだところで薬研藤四郎は口を噤む。名前が、部屋の真ん中で仰向けになって寝ていたからだ。
寝顔を見て数秒、今朝名前が「友達におすすめされたドラマが面白くて朝まで見ちゃった」と話していたことを薬研は思い出す。それと同時に「遠くにいても主さんの声はちゃーんと聞こえるんだね」と、以前からかわれたことも思い出した。
その感情に気付く前、薬研はヒトの体はそういうものなのだと思っていた。名前は主だから無意識のうちに彼女に意識を向けているのだと、そう思っていた。ただ、全ての刀剣男士がそうでないと知った時、薬研は随分と驚いたものだ。
他の刀剣男士は、主の些細な言動が気にかかるものではないのか。名前を呼ばれても胸が熱くならないのか。つい姿を探してしまうものではないのか。
兄弟刀にそれとなく尋ねると、どうやら違うらしい。主として慕っている気持ちはあるが、そういうのではないのだと伝えられた時、薬研は己が名前に恋をしているのだと気が付いた。
刀が人間に恋をする――絵物語のような話だと思いつつも、胸に抱いた優しい恋心を大切に育てることにした。
今の俺は男で、大将は女なのだから、別段おかしなことではないだろう。薬研は次第にそう思うようになった。
白衣を身に纏った薬研は、ポケットに手を入れたまま名前の顔を覗き込むようにして前屈みになる。
「名前……」
気持ちよさそうに寝ている名前を見て、主の名を思わず口にする。無意識だった。薬研は辺りを見渡し、誰もいないことに安心しながら顔を真っ赤にさせて己の口を覆った。
雨の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
○
「主、そろそろ起きて仕事の続きをしよう」
肩を優しく触られ、名前は現実へと戻される。
これ以上寝ていたら夜眠ることが出来ないよ、という初期刀の歌仙兼定の言葉を聞いてもぞりと起き上がる。と、名前の肩からずるりと何かが落ちた。
「薬研の白衣だね。話したいことがあると君を探していたけれど、起こすのは忍びないと思ったんだろう」
きっとそうだ。そう言って朗らかに笑う歌仙は、花を見る時と似た表情をして名前を見ていた。
休憩ーと、半ば無理やり部屋を出た名前に対して、今日の歌仙は一つも小言を言わなかった。
名前が部屋を出る際に、薬研の白衣を手にしていたからだ。本丸にいる時、薬研は白衣を着ている。午後から部屋に籠ると言っていたような、と朝に交わした言葉を思い出した名前は、普段薬研が作業部屋として使っている本丸の一番端にある部屋へ向かう。
縁側を歩いていると、堀川とすれ違った。雨が止んだ今がチャンスだと万屋へ出掛けるつもりらしく、お財布を持った堀川は名前に少しだけ肩をすくめてみせた。
「主さん、この先滑りやすくなっていたので気を付けてくださいね」
それじゃあ、と軽く頭を下げて足早に歩いていった堀川に名前は手を振る。堀川は相変わらず心配症だなぁなんて笑っていると、するりと足が滑る。
どうやら誰かが雑巾がけをしてくれたらしい。靴下を履いていた名前は見事に滑り、バランスを取ろうと努力した結果、手に持っていた薬研の白衣が宙に浮く。
ぽちゃん、という音をさせて白衣は軒下の水溜まりの上に落ちてしまった。
もし傍に歌仙がいたならば、鬼のような顔をして私を見ていたかもしれない。そんなことを考えながら名前は桶に水を溜める。
傍らに洗濯板を置き、洗剤を用意すればあとは簡単。雨が降っていない今やるしかないと、名前は泥で汚れた白衣を水に浸す。
今日は運が悪いなと思いながら洗濯板を使って汚れを落としていく。水を入れ替えて洗剤を流すことを繰り返せば、汚れは綺麗さっぱり洗い流すことが出来た。
水を絞ってから丁寧に白衣を広げ、雲の隙間から現れた太陽に照らすように掲げてみる。
真っ白だ、なんて感動していると、あることに気付く。あれ、白衣のポケットに何か入っているぞ、と。
何故今の今まで気付かなかったんだろう。疑問に思いながら白衣に影を作るものを取り出せば、どうやら紙のようである。そこで再び頭を抱える。またやってしまったのではないか、と。
学生の頃、名前はポケットにティッシュを入れたまま洗濯機を回したことがある。プリントを入れていたのを忘れてスカートを洗濯をしたことがある。どちらの時も服を干す時に激しく後悔をした。ティッシュは言わずもがな、プリントは部活の顧問への提出物だった。
厄日かもしれない。石切丸にお祓いしてもらった方がいいだろうか。名前は眉をひそめながらよじれた紙を広げる。どうやら四つ折りにされていたもののようだ。
白い紙を破らないように慎重に開く。二枚を一緒にして折られたその紙を広げ、あぁ、と悲鳴にも似た声を洩らす。水性ペンで書かれたらしいそれは、水によって滲んで何が書いてあるのかがわからなくなってしまっていた。
薬研藤四郎という刀は「大将への祝いだ」なんて言って鯛を手掴みで持ってくるような豪快な刀で「雅なことはよくわからん」などと言うこともあるが、決して大雑把な刀ではなかった。
名前は薬研がメモを取る姿をよく目にした。どうやら薬の調合に関すること以外にも、何気ない拍子にメモを取っているようなのである。何を書いているのかは、名前も知らない。けれどもメモを取っている時の薬研の表情はいつも優しくて、楽しそうであった。
だからきっと、これも大切なものだ。そう思った名前は、濡れたままの白衣と既に読むことの出来なくなった紙を手に持って駆けだした。
横腹が痛くなりながらも足を止めずに走った名前は、薬研の作業部屋が見えた所で少しずつ走るスピードを落とす。薬研のいる作業部屋の障子戸は微かに開いている。
「薬研!!」
勢いのままに発した刀の名は途中裏返えり、恥ずかしくも思ったが障子戸から顔を出した薬研はいつものように「なんだ、大将」と首を傾げた。
「白衣、有り難う。けど、実は返そうとした途中で転んで汚しちゃったの。それで――」
「転んだ!? 大将、怪我したのか」
転んだ、という言葉に反応した薬研は目を見開いてそう尋ねた。短刀にしては低い薬研の声は凄味すらあり、名前は話したいことはそこではないのだ、と思いながら首を振る。
久しぶりに全力で走ったせいで名前の呼吸は荒い。肩を上下させ、額に浮き上がった汗を腕で拭えば薬研は何とも言えない表情をさせる。名前は薬の匂いを嗅ぎながら、どくどくと煩い心臓を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をした。
「そうか、なら良かった」
「いや、あの、良くはないんだ。白衣汚して、洗ったらね、白衣のポケットに紙が入っていることに気付いて……。ごめん。その紙に何が書いてあるのかがわからなくなっちゃったの。薬研は普段からメモをよく取ってるから、もし大切なことだったら――」
名前がそう言葉にすると、驚いた顔をした薬研が名前から視線を外した。
「ああ、ああ……それか。いや、そういう類のものじゃないんだ」
薬研にしてははっきりしない珍しい態度に、名前は少し驚く。
掛けていた眼鏡を一端外し、息を吐いた薬研はそのまま名前に顔を向けた。
「仕方ないことだ。何より、大将がやったことなら俺も諦めがつく。気にするな。いーってことよ」
名前は、その時初めて薬研藤四郎という刀に嘘をつかれた。
○
どうやらメモ紙の一枚目には桃色の水性ペン、二枚目には紫色の水性ペンが使われていたようだ。
滲んだ文字はどう頑張っても名前には判断することが出来なくなっていた。
それ、悪いが大将が捨ててくれないか。
一週間前、薬研の白衣を洗ってメモを駄目にしたあの日に薬研からそう言われたものの、名前は未だメモ紙を捨てることが出来ずにいた。
あれから、薬研は名前との接触を減らしていた。
休みの日は部屋に籠り、薬を作っているらしい。名前と顔を合わせれば前と変わらない顔で会話をし「大将変わりはないか」と心配するのだが、以前と比べたら随分とあっさりとしたものに変わった。
白衣に手をつっこみ、決して名前に触れることはない。白衣からのびる白い足は、いつでもその場から離れられるよう、片方の足は名前とは別の方へ向いていた。それらは全て、あの日以来変わってしまったことだった。
○
「ここには何が書いてあったの」
聞いてはいけないことかもしれないと思いながらも、名前は薬研の部屋に突撃してそう尋ねた。驚いたように口をぽかりと開けた薬研は、状況を把握するとお腹を抱えて笑い出し、それでこそ俺の大将だと言って名前が差し出したボロボロのメモ紙をゆっくりと受け取った。
「俺は、大将のそういうところが一等好きだ」
ああ、だから好きになったんだ。
くくく、と涙さえ浮かべて笑う薬研に名前は少しだけ恥ずかしくなる。何故薬研がそこまで笑うのかがわからないのだ。
「はっきりしていていい。わからないところを素直に聞くのがいい」
愛おしそうに薬研は名前を見つめる。名前の目の下にはうっすらと隈があり、随分と悩んだ様子も見えた。そういうところも好きだ、と薬研は小さく呟いた。
「ごめんね、薬研。今私と顔合わせたくないかもしれないけど、でも、薬研とこのままなの嫌だって思ったの」
メモの内容によっては、何か手伝えることがあるかもしれないと思って。
そう言った名前のまっすぐな瞳を見て、ああ綺麗な人だと薬研は思った。俺が勝手に距離を置いていただけなのに。弱気になって諦めていたのは俺だ。ぎゅっと握られた名前の手を見ながら薬研は胸の奥がぢりぢりとあつくなるのを感じた。
「そんなんじゃない。実はあれ、大将が書いたものなんだ。大将と、俺の名を書いたもので――」
「え……?」
そう伝えれば、名前は目を丸くした。まさか自分が書いたものとは思ってもいなかったのだろう。
「生まれて初めて筆を取った時のことを大将は覚えてないかもしれないが、結構感動するもんでな。その時の記念として大将が書いたものを持っておきたかったんだ。お守りみたいな効果もありそうだろう?」
「私の字にそんな力ないよ」
困ったような、でも嬉しそうな顔で名前はそう言った。そうか、そうだったのか。そう言って安心したように笑った。
「大将と俺の、大切な思い出だったから柄にもなく落ち込んじまって引きこもっちまった。大将がそこまで悩んでいるとは知らず、すまなかったな。大将にはちゃんと説明しとけば良かった」
「ううん。違うの。私の不注意が招いたことだから、でも聞けてよかった」
そう安心したように微笑んだ名前を見て、薬研はああやっぱりこの人が好きだと気持ちを再確認した。
実際のところ、薬研は名前に対する気持ちを諦めようとしていた。あの紙をお守り代わりにして、告白をしようとしていたのだから。
名前がメモ紙を駄目にしてしまった時、薬研は己の恋心も駄目にされたかのような気分になった。名前本人から諦めろと言われているような気がした。種の違うものが結ばれることは無い――名前にそんなつもりはなくとも、そう示されたように思ったのだ。
白衣に忍ばせていたメモ紙は、名前との思い出の一つであった。
己のためだけに書かれたその紙を持っていると、薬研は胸の辺りがあたたかくなる。
何かあるごとにメモを書く癖がついたのも、その出来事がきっかけだ。刀であった己が筆を取って何かを書き残すことが出来るなんて、思ってもいなかった。
名を書いてもらった時からきっと、薬研は名前に恋をしていたに違いない。
薬研藤四郎と口にしながら字を書く名前を見て、胸が高鳴った。己の名を口にする唇から目が離せなかった。耳にする名前の声に体が震えた。その時はそれが恋だとは気付かなかった。何せ全て初めてであったのだから。
「良かったら、また俺の名を書いてくれや大将」
名前から距離を置けば、次第に恋心は消えてなくなるに違いない。そう思っていたが、どうやら見当違いであったらしい。離れれば離れるほど、愛おしく思う気持ちは募っていった。
うじうじと部屋に引きこもっていた己が恥ずかしい。男らしくない。そう吹っ切れた薬研は右手で名前の左手に優しく触れる。ああ、大将だ。思わずにやける口元を隠すように手で覆うと、名前は薬研が珍しく甘えていると勘違いをしたのか、反対側の手で薬研の頭をゆっくりと撫でた。
「大将、勘弁してくれ」
薬研の赤く染まった耳を見て、名前は一層嬉しそうに笑ったのだった。
Thank you from the bottom of my heart.(十万打企画)
20180623
20181121修正