企画小説
 高校の自習室の机は少し大きくて、隣の席との間には遮りがある。自習室は三年生しか使えないようになっているし、ここで無駄話をするような生徒はいないため快適だ。そのため、私は夏頃から放課後には自習室で勉強をすることが多くなっていた。

 寒い冬の時期に下校時間まで自習室を使用している生徒はほとんどいなく、毎日のように時間ギリギリまで居座る生徒は私含め数人。
 その中で一番親しくなったのが潮江文次郎くん。
 いつからか、クラスも違うのに挨拶をするようになった。いつも見る顔に仲間意識が芽生えたのかもしれない。ひょんな所で互いに自己紹介をし、言葉を交わすようになった。
 志望校の話になったことはないけれど、机の上に置かれている赤本を見たことが何度かあった。それはきっと彼も同じだろう。
 志望校の話題を避けていたわけではないけど、勉強をする空間で出会ったからこそ彼と話しをするならばもっと別の話がしたかった。
 そんな私たちが話すことといえば、その日あったことや食事の話が専らで、潮江くんの軽食の殆どがおにぎりなのを疑問に思って質問したことが始まりなのだけど、その話を友達にしたら色気が無いと呆れられた。


 自由登校になった今でも私は学校へ来て勉強をしていて、今日も潮江くんとお昼を食べてから勉強に励む。
 机の上に置いた腕時計で時間を確認しながら過去問に取り掛かる。授業があった時よりも自習室を使う生徒は減ったが、使い慣れた静かなこの部屋を好む生徒も私や潮江くん以外にもいるようだった。
 暖房器具の音やページを捲る音、シャーペンで文字を書く音。そういった音のする自習室でひたすら目の前に広げられた問題に向き合う時間も、あと少し。


 ドアの開け閉めがされる音が聞こえた所で一度机の上に置いておいた腕時計を確認する。
 まだ大丈夫だ。
 上半身で伸びをしてからもう一度シャーペンを握る。
 さぁ、区切りの良いところまでいってしまおう。

   ○

「名字、下校時間だぞ」
「嘘!?」

 時刻を確認してからまだ十五分も経っていないのに、突然声を掛けられた。

「何で俺が嘘を言う必要がある。窓の外を見てみろ」
「えっ、ええ?」

 少し離れた席で勉強をしていたはずの潮江くんに声を掛けられ、驚きながら体を反らして窓の外を見ると、確かに空は暗かった。登校した時には冬空特有の薄い青色が広がっていたというのに。
 驚きながら自習室内を見まわしてようやく、お昼過ぎには五人程いたはずの自習室に私たち二人しかいないことに気付く。皆もうとっくに帰っていたらしい。

「なんで!?」

 ついさっき時間を確認したはず、と机の上の腕時計を取り時刻を確認する。すると、驚くべきことに秒針が止まっていた。

「止まってる……」
「ああ、それで気付かなかったのか」

 潮江くんは納得がいった、と言うように持っていたコートを着始めた。そろそろ帰らないと先生に注意されるぞ、と言いながら。

「名字は明日が第一志望なんだろ。早く帰らなくていいのか」
「うん。いつも通りでいたくて、でも、えぇ、もう既に気持ちがいつも通りじゃない」

 志望校の名前を潮江くんに言ったことはないけれど、今日、昼食を食べた時に明日が本命の試験だという話をしていたのを思い出す。それを知っているから潮江くんは下校時間まで居座っている私を心配して声を掛けてくれたのかもしれない。

 ああ、と思わず頭を抱える。
 ここまで暗くなる前に家に帰る予定だった。こんな時に電池が切れてしまうなんて。ついてない。私は保健委員長の善法寺伊作くんじゃないんですけど!!

「帰ったら時計屋さんは閉まっちゃってるだろうし、お財布に五百円も入ってないし……。どうしよう」
「家族の借りたらどうなんだ」
「ああ、家族の……」

 泣きそうになっていると、潮江くんはマフラーを首に巻きながら落ち着いた声で言葉を掛けてくれる。普段よりずっと優しい声だ。
 潮江くんは言葉にこそしないが、優しいその声は私に落ち着けと言っているようだった。一つ息を吐いてから焦る鼓動を落ち着かせるように目を瞑る。

 家族の腕時計かぁ。
 父親の時計は借りる勇気がない。何かあってからでは大変だし、借りる時が面倒な気もする。
 母親の時計は小さくてシンプルだ。借りることは容易いだろうけれど、文字盤があまりにもシンプルで、時間を見るという点では正確に判断しがたく受験向きではない。

 ああ、どうしよう。
 丁度良いものが家にあったっけと考えるも、こういう時は全く思い浮かばないものである。

「無いのか……?」
「う、うん。多分」

 黒い大きなリュックを背負って帰る準備万端といった様子の潮江くんは小さく溜息を零した。私も思わず溜息をつく。
 最悪だ。本命の学校の試験前にこんなことになるなんて。時計が止まる前に電池交換に行けば良かった。
 こんなことで動揺してどうすると思うものの、明日の試験に対してどんどんネガティブな感情を抱き始めて思わず目頭が熱くなった。受験生の精神はびっくりするくらい脆いのだ。


「じゃあ、これ貸す」

 カチャっと小さな音がしたと思えば、潮江くんは私に銀色の物を差し出した。

「明日、これ使え」

 そう言って差し出されたのは、潮江くんが今の今までしていた腕時計。
 普段は彼の手首にあり、自習室では机の上に置かれているその時計を私は何度見ただろう。
 高校の入学祝いで貰ったのだと教えてくれたのは勿論潮江くん本人で、潮江くんが時間を確認する時の視線や仕草が私はとても好きだった。
 暗くなったから途中まで一緒に帰ろうと私を誘ってくれた潮江くんが、私が帰る準備をしている間に腕時計を外してハンカチで優しく磨いているのを何度も見てきた。だから私は、潮江くんがその腕時計をとても大事にしていることをよく知っている。

 だから、そんな大切な腕時計を私に貸すと言った潮江くんに驚いた。
 声も出せずにいると、ほら、と腕を掴まれる。

「別に高いものじゃない。お前が今までしてたのとそんな変わらないだろう」
「え、えぇ!?」

 潮江くんは動揺して情けない声を出している私のことなんて全く気にしない上に、掴んだ私の腕に時計をつけようとする。けれども銀色のベルトは随分と長くて、バックルも意味を持たないまま。
 彼が一度私の腕から手を離すと、私の腕には彼の銀色の腕時計がぶら下がっていた。

「……そうだな、普通に考えて、無理だよな」
「ああ、いや、でも嬉しいけど、でも、あの……」
「まぁいい。それを明日持ってけ。時計としての意味なら果たしてくれる。お前のそれよりかはケースも大きいし、見やすいだろ。明後日、自習室に来るんだろう? その時返してくれ」
「えっ、えっ、本当に?」
「嘘は言わん」

 驚いた。まさかまさかである。
 腕にある重さを実感した途端、心臓がばくばくと音を立て始めた。潮江くんが暖房を先ほど切ったはずなのに頬の辺りが熱くなる。

「名字」

 そう私の名を呼んだ潮江くんは私の腕にぶら下がった腕時計を一度外し、私の手の平を開かせ、腕時計を押し付けてきた。
 潮江くんのごつごつとした指が私の指をなぞり、最後には時計と私の手を包むようにして優しく握る。
 優しくも少しだけくすぐったさを感じるそのなぞり方に思わず胸の辺りがぎゅっと締め付けられ、自分の顔が真っ赤なのを自覚しながらも顔を上げる。彼の真意を確かめるように彼の瞳を見ると、彼は顔を赤くしながらも真剣な顔でこちらを見ていた。

「お守りだと思ってくれ。明日は名字がやってきたことギンギンに出し切る気持ちでいけ。お前の頑張りを俺はちゃんとわかってる。だから、大丈夫だ」

 うん、と頷けば良しと言って潮江くんは笑顔になった。私を包む彼の手は、随分とあたたかくて優しかった。

Thank you from the bottom of my heart.(十万打企画)
20180109
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