小説
※学園卒業後の滝夜叉丸。少し艶っぽい話。




 名字名前は家のことをしたり、買い物をしている時にふと十三歳のある日のことを思い出すことがある。おぼろげな記憶の中、綺麗な髪を一つに結った少女の顔が丁寧に礼を言った姿が忘れられないのだ。
 着物は裕福な家の育ちを思わせ、眉と目は芯の強さをよく表しているように思えた。人見知りで、特に異性が苦手な名前は、その凛とした少女に憧れを抱いた。会話したのは短い時間だったが、今までに感じたことのない気持ちをその少女に抱いたのだ。そのことを名前は一度も他人に話したことはない。秘密を胸の奥に大切に仕舞い、淡い憧れをただ一人の思い出にする理由も、名前にはまだよくわかっていなかった。

 名前がその少女に出会ったのは町へ買い物に行った帰り道であった。腕を抑えるようにしてこちらへ歩いてくる少女を見て思わず名前は「大丈夫?」と声を掛けた。
 人見知りの名前がその少女に声を掛けた理由は、上等な着物に泥が付いており、少女の手に切り傷があったからだ。名前は今でもこの時のことを思い出すと、どうしてあの時はあんなことが出来たのだろうと自身の行動に驚いてしまう。名前が見ず知らずの相手に声を掛けることが出来たのは、生まれてこの方その時だけだった。
 少女に駆け寄り切り傷の手当てをするからと木陰へと移動させ、名前は持っていた手拭いを近くの川の水へ浸した。
 医療の知識の無い名前はとりあえず傷口の血を洗い、手拭いを傷口へ巻き、着物に付いている泥を払ってやった。
 怪我をしたにも関わらず少女の表情はしっかりとしており、その強さも名前が少女に憧れを抱いた理由の一つであった。怪我の手当てをしている最中、少女の前髪から覗くまっすぐな目が名前の顔をじっと見ており、その目に思わずときめいたのも名前は今後誰にも語ることはないのだろうなと思っている。

   ○

 あの少女との出会いからもう数年が経ち、人見知りで異性が苦手な名前も結婚することになった。父親以外の男性と話すことが滅多にない名前は結婚なんて上手くいくのだろうかと心配で胸がいっぱいであった。
 話に聞くと相手は両親が山賊に狙われたところを助けてくれた命の恩人らしく、何かお礼がしたいと言った両親に「もしもあなた方に子がおり、その子が心優しい娘ならば私の妻にしたい」と言ったようだ。昔話のようだが事実らしく、変な人だなと名前は思った。だが、両親の命の恩人の言葉を無碍にすることは出来ない。山賊に狙われていた所を助けてくれるような人なのだからきっと優しい人に違いない。不安を紛らわせるようにして良い方面へと気持ちを向ける。名前にはそれが精いっぱいだった。

 式も無事終わり、名前はとある長屋へと足を踏み入れた。
 仕事の都合で暫くの間はここに住むのだと申し訳なさそうな声で言われ小さく頷く。未だにちゃんと顔を見ることは出来ていないが、式の間、視界に入った彼の親族の着物は皆上等なもので、所作から全て綺麗でしっかりとしていた。

「平滝夜叉丸さん」

 名前からしても、わかりきっていることだ。とても良い家柄の人なのだ。名前は再び不安がぶり返す。どうしてこの人と結婚してしまったのだろう。きっとこの人だって後悔しているに違いない。
 そんなことを考えて気持ちがごちゃごちゃしていた時、優しくて低い声が「名前」と呼んだ。

「私の名を、初めて呼んでくれたな」

 嬉しそうな声に思わず顔を上げると優しい表情をした青年がいた。髪は艶があり綺麗で、眉は太くしっかりとしており、目にも力強さがあった。
 彼の顔を見た時、名前はあの少女を思い出した。男性の顔を見て思い出すなんて失礼かもしれないと名前は思ったが、それでもその少女のことを思い出させた顔を見ると、この人となら上手くやっていけるかもしれない、なんて名前は思ったのだった。

 嬉しそうな男の表情に思わず心臓が驚いたように大きく音を鳴らす。すぐに視線を外すと「そういえば、名前は男性のことが苦手だと言っていたな。ご両親が心配なさっていた」という優しい声が聞こえてくる。思わず胸の辺りを抑えるようにして手を当てる。再び不安が募っていく。

 己は、この人と夫婦になってしまったのだ。名前はふと、その事実に気付かされる。
 夫婦となったのだから、子を産まなければ己の意味がないのではないか。目をまともに合わせられない自分にそんなことが出来るのだろうか。そんな不安が胸のうちにどんどんと膨れていく。
 そんな不安で顔を青くしたり赤くしたりする名前を見て、滝夜叉丸は彼女に気付かれないように小さく笑った。変わらずに可愛らしい、と思っていたのだ。

「名前、疲れていないか? 私は久しぶりに親族の者と会い緊張してしまった。もし名前が疲れたならゆっくり休もう。もし眠れないなら、私の幼い頃の話をしよう。私の過去の素晴らしき数々を妻である名前も知って損はない。むしろ誇れるはずだ。頼りがいがあって美しい男を独り占めできるのだから」

 どうする? と、目を細めて笑う滝夜叉丸に名前は驚いた。変な人だ、と思ったのと同時にとても優しい人なのだとも気付いた。こちらの心配に気付き、色を感じさせない提案に先ほどの不安は薄らいでいく。

「滝夜叉丸さんのこと、教えてください」

 そう言えば、滝夜叉丸は大きく頷いて少し近付いて座ってくれないかと言った。時間も時間だから、あまり大きな声を出せないだろうと苦笑いをする滝夜叉丸の話は尤もだ。
 近くに座り直すと再び綺麗に笑う滝夜叉丸に胸の辺りにぽっと明かりが灯るような心地がした。
 滝夜叉丸はそれから名前がうとうとするまで彼の素晴らしき過去について語った。寝仕度をして、別々の布団に入った後、おやすみなさいと言い合う。彼はその日、名前に触れることはなかった。名前は布団に入って瞼を閉じた後、心の中で彼の名前を呟いた。とても優しくて綺麗な人だと思った。きっと彼でなかったら、私は駄目だっただろうとすら思った。

   ○

 月が幾つか替わり、名前はようやく滝夜叉丸の顔を見て話しをすることが出来るようになっていた。食事をする時は笑うことも増え、手と手が触れても話が出来るようになった。滝夜叉丸から触れられると、名前は頬が熱くなって心臓が煩くなる。幸せでもっと触れてほしいと思うほどだった。
 滝夜叉丸はとても優しく、名前が嫌がらないように距離を縮めていった。仕事で疲れていても名前と話すことは欠かさないようにしていた。一日でもそれを怠ると、また彼女との距離が離れてしまうのではないかという不安もあった。手と手が触れ合って頬を染めてはにかむ名前を見て、言葉に表すことの出来ない幸せを知った滝夜叉丸はそれを失うのが怖かったのだ。


「滝夜叉丸さん」

 距離があった布団は少し前から隙間もなく並べられるようになった。
 布団に入ろうとしていた滝夜叉丸に、名前はそう彼の名を呼んで恥ずかしそうに笑った。どうしたんだと声を掛けると一度視線を外した名前は小さな声で「好きです」と言った。

 彼女の言動に、今まで己を否定するようなものは一切なく、ここ最近は嬉しそうに笑う彼女の表情を見て嫌われていないこと、むしろ好かれていることを理解していた滝夜叉丸であったが直接好意を示す言葉を言われたことはなかった。
 顔を真っ赤にした名前はもう一度、幸せそうな顔をして「好きです」と呟く。今日はどんな話をしようと思っていた矢先であった滝夜叉丸は、名前の思わぬ言葉に驚いてしまった。嬉しさのあまり、何も言葉に出来なかった滝夜叉丸は布団に座っている名前を思わず抱きしめる。
 きゃっという小さな悲鳴が名前から上がる。まずい、と思ったがすぐに滝夜叉丸の背中に名前の手が触れた。互いの息が耳にかかる。熱い吐息を感じて胸が締め付けられた。嬉しさに勢いがついたのと、互いの香りにお互いに驚いて釣り合いが取れなくなり、滝夜叉丸が名前を押し倒してしまった。

「ああ、すまない。痛いところはないか?」
「は、はい。布団の上なので……」

 気まずい空気を感じるも、滝夜叉丸は名前の上から退くことが出来なかった。恥ずかしそうに顔を真っ赤にする名前が視線を外すことなくこちらを見ていたからだ。そしてようやく気が付いた。彼女の「好き」に、未だに返事をしていないことを。

「私も、名前がとても好きだ。愛しくて、大切にしたい。毎日共に食事を取って、笑って、私のことを見ていてほしい。私の全てを知ってほしい。そして名前のことをもっと教えてほしい。名前すら知らないことを知りたい。私の知らない私を、名前に気付いてもらいたい。心優しい名前に会ったあの時から、いつだって私の心は名前のものだったよ」

 唇と唇がゆっくりと近付いて、離れる。それが何度か繰り返される度に滝夜叉丸の長くさらさらとした綺麗な髪が揺れてさらさらと流れていく。頬や額に滝夜叉丸の唇が触れる度、心臓が破裂するかのようにどくどくと煩く動く。

「十三の時、実習帰りにへまをした私は怪我をしたまま歩いていた。その時怪我の手当てをしてくれたのが名前だ。私は女の格好をしていたし、だいぶ前のことだから名前は覚えていないかもしれないが……私はあの頃から貴女が好きだった。まさか今度は私が名前のご両親を助けるとは思わなかったが……。すぐわかったんだ。直感でもあったが、きっとこのお二人の子が貴女だって」

 名前の首に口付けをした滝夜叉丸はゆっくりと顔を上げ、名前の目を見る。

「私はずっと、名前のことが好きだったんだ」

 心の奥にしまっていた秘密が少しずつ胸の奥を照らしているように胸いっぱいに幸せな気持ちが溢れる。彼の名前をもう一度呟くと、嬉しそうに再び唇を寄せた。

「覚えています、覚えています。滝夜叉丸さんのことを、ずっと覚えていました」

 今まで夫婦でなかったわけではないが、それでも今ようやく本当の夫婦になれたような気がして名前はもう一度彼の目を見て好きです、と囁いた。

title by サンタナインの街角で
20170105
20170107 修正
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