小説
 週に一回、放課後図書室に通うようになった。部活のないその日は図書室で勉強をしてから家に帰るのだ。
 勉強が特別好きなわけでも、得意なわけでもない。今のところ進路としては大学に行くことを考えているのだが、だからといってどの分野を学んでいくかは考えていなかった。成績は平均前後。良い科目もあれば苦手な科目もある。

 そんな私がどうして図書室へ通うようになったのか。
 テストで赤点を取ったわけでも、急に勉学に目覚めたわけでもない。週に一日だけ少し特別な女の子になれるから私は図書室へ通うのだ。不純な動機かなと、自覚はしている。

 夏が終わって少しずつ肌寒さを感じ始めた頃。
 授業で借りた本を返しに図書室へ行った日のこと。ある間違いから私は図書室へ通うようになる。

   ○

 掃除が終わり落ち着きを取り戻した図書室は普段来ないせいか少し居心地が悪い。
 司書のお姉さんはどうやら書庫の方にいるらしく、カウンターには用事があれば書庫へ、と書かれた紙が置いてある。
 特別急いでいるわけではないからもう少し待っていようと空いている机を探す。滅多に利用しない図書室を見渡すと、思っていた以上に人がいることに気付く。静かに本を読んでいる生徒や赤本を広げてシャーペンを動かしている生徒がいる。三年生が多いようで、邪魔にならないように図書室の奥の方へ進めば誰も使っていない四人用の机があった。
 どうして人がいないのか不思議なほどひっそりと設置してあるその机に近付き、ここで少し本を読んで時間を潰そうと決める。

 机に鞄を置いて一番近くにある本棚へ向かうと、そこには図鑑が並べられていた。
 その棚から一番手に取りやすい位置にある植物の図鑑を取って机に戻る。読めるものであれば、何でも良かったのだ。
 すると、桃色の髪をした男子生徒が机の傍にある窓の近くに立っていた。男子生徒は窓の向こう側を見ており、逆光な上後ろ姿しかわからないが、私は桃色の髪を見て同じクラスメイトの小湊春市くんだと思った。

「あれ、春市くん?」

 小湊春市くんはほんわかしているようで案外しっかりした男の子だ。私にとって春市くんはクラスの男子の中で一番話しやすい男の子だった。
 野球部は今日も部活ではないのだろうかと、不思議に思い声を掛けながら近付くと春市くんはゆっくりと振り向いた。

「何、春市のクラスメイトか何か?」
「へっ」

 思わず変な声が出た。
 春市くんだと思っていた桃色の髪の男子生徒が、春市くんではなかったのだ。
 それに気付いて背筋が伸びる。
 えっ、桃色の髪なのに? 春市くんじゃない?
 焦りながらもいろいろと考えている途中、ふと春市くんが以前三年生にお兄さんがいると言っていたことを思い出した。

「あ、あの、すみません。も、もしかして春市くんのお兄さんですか?」
「どもりすぎじゃない?」

 先輩は少し呆れたような表情をした後、小さく頷いて「そうだよ。俺は小湊亮介」と言った。名前を教えてもらったため、私は聞かれてもいないが「春市くんと同じクラスの名字名前です」と返すも、あまり興味もないようだ。
 先輩は何か考えたように視線を外した後、「こっちに来なよ」と窓の方を指差した。よくわからないまま従い窓へ近付いて外の様子を見ると、少し遠くに野球部が使うグラウンドが見えた。すぐ近くには練習着の野球部員や他の運動部員が移動する姿も見える。

「春市はもうあっちだよ」
「えっ?」

 先輩はすっと横を通り、持っていた参考書とペンケースを机に置き、静かに椅子に座った。先輩が座った場所は私の鞄が置いてある斜め向かいで、何もなかったかのようにペラペラと参考書をめくり始めるので拍子抜けしてしまった。

「あの、先輩の特等席だったから、ここには人がいなかったんですか?」
「はぁ? なにそれ。そんなわけないじゃん。まぁ、似たようなものかもしれないけど……」

 先輩がそう言った後、窓の外から運動部の野太い声が少しずつ大きく近付いてきた。
 部活が始まったのだろうか。部活のランニングだったようですぐにまた野太い声はどこかへいってしまった。

「ここ、図書室で一番アレが近くに聞こえるんだよ。ずっとランニングしてるわけじゃないから少し経ったら静かになるけど、気になるヤツは気になるんじゃない」
「はぁ、そうなんですか……」

 そうして、先輩はまた参考書の方へ視線を移した。
 私はもう一度、野球部が使うグラウンドの方へ視線を向けるが、ネットが張ってあるせいでどうにもよくわからなかった。ふうと一度息を吐き、自然と抱きしめていた図鑑を持ち直す。

 先輩があの机を使うなら、もう帰ろうかな。
 そう思い、図鑑を本棚へ戻し、机に戻ってあまり音をさせないように気を付けて鞄を手に取った。

「もう帰るの?」

 勉強をしていた先輩が突然声を掛けてきた。
 声を掛けられたことに驚いて思わず自分の鞄から手を離してしまう。ごとっという音が響いて慌てて辺りを見渡すが、一応、大丈夫なようだ。

「ここに来たなら勉強してきなよ、勉強して損はない」
「えっと、じゃあ、あっち、行って勉強します」
「どうして?」
「せ、先輩の邪魔にならないように……」
「俺、そういうの気にしないってさっき言ったじゃん」

 どうして先輩がそんなことを言うのかがわからなかった。
 私は先輩のことをよく知らない。その上クラスメイトと見間違えてしまってとても気まずい思いをしているのだ。

 先輩は「ねえ」と笑った。
 先輩は笑っているのに、怒っているようにも思えないのに、どうしてか行く道を塞がれてしまったような気になった。穏やかな声はほんの少しの甘みを含んでおり、勘違いしそうになる色気があった。春市くんと話す時には感じたことのない気持ちに胸の辺りがざわざわする。
 反抗してはいけないような気になり、私は静かに椅子を引いてゆっくりと座った。それを見ていたのか、先輩はクスっと笑う。

 正直、先輩が怖かった。
 よくわからない先輩。反抗してはいけない雰囲気を持った先輩。優しい同級生のお兄さん。
 けど、何もせずにずっと座っているわけにもいかない。とりあえず先輩の言う通り勉強でもしていれば気が紛れるかもしれないと、鞄の中から問題集を取り出した。


「うーん」

 明日授業であたる可能性のある問題を解いているうちに、自然と声が出てしまう。

「シャーペンの音、全然しないなと思ったらわからなかったのか」
「はい、数学の予習で……」
「教えてあげようか?」

 そう言って先輩は手を出してきた。問題集を渡すと、前後のページを軽く見て「ああ」と、小さく声を漏らす。

「ここの部分でさ――」
「えっ、ちょっと待ってください。そっち行きます」

 先輩は問題集を上下逆に置き、ルーズリーフに書き込みながら私に見やすいように説明しようとした。
 それを見て、教えてもらうのに手間を取らせてしまうことになると気付く。それは駄目だろうと、隣に移動して自分のノートにいろいろと書き込んで説明してもらうことにした。


「――ってこと。わかった?」
「はい!! すごいです先輩!! めちゃくちゃわかりやすかったです!!」
「先輩なんだから当たり前だろ」

 呆れた顔で先輩は言った。
 教えてもらっていた時は気付かなかったが、隣の席というのは思った以上に距離が近かった。今更その事実に気付き顔に熱を持つ。先輩は急に静かになった私を不思議に思ったのか、はたまたわかっててわざとなのか、ぐっと顔を近付けてからくすくすと笑った。

「顔真っ赤」


 ひどいと、思う。意地悪だ。
 ただ、先輩はその後優しい声で「その問題で悩むなんて、数学あんま得意じゃないんだね。……毎週この時間は図書室で勉強してるから、もし何かあれば教えてあげるよ」と言ったのだ。
 初対面でよく知りもしない私に何故、という気持ちが大きいものの、私はその優しい声につられてついつい頷いてしまった。

「ま、毎週来ます!!」
「そう、言ったからには頑張らなきゃね」

   ○

 結局あれから毎週先輩と同じ机で勉強をするようになった。
 勉強するといっても勿論やることは別々で、全く会話をしない日もある。
 初対面の時は怖いと思った先輩だが、ふとした時に気にかけてくれる優しさとか、わからないところを教えてくれる優しい先輩を知ると怖い先輩像は消えていなくなった。……まぁ、時々意地悪なことも言われるのだけれど。

 私はその時間だけ、少しだけ特別な女の子になれる。
 この時間、先輩と同じ机で勉強出来る女の子は私一人しかいないのだから。私は先輩と勉強する度に先輩を好きになっていった。


 そして先輩と同じ時間を過ごしていくことで最近気付いたことがある。
 私は、不思議と先輩の言葉の通りに従ってしまうのだ。癖なのか、先輩の声とかオーラとか、そういうもののせいなのか。原因はわからないが、先輩の言葉にいつも頷いてしまうのだ。

「小湊先輩聞いてください。私、今まで先輩が言ったことに対して反抗したことないんです。なんか絶対従っちゃうんです」

 お互い休憩をしている時、不意にそう話しかけると先輩は少し嫌そうな顔をした。

「何それ、じゃあ俺がキスしてよって言ったらキスすんの?」
「……。あぁ……そうかもしれません。でも先輩の口からキスとか、そういう言葉を聞くとは思いませんでした。先輩えっちですね」
「はぁ!? 馬鹿じゃないの? あとそんなの全然えっちじゃない」

 頬を少し染めて眉を寄せた先輩は少しレアだ。

「生意気だなぁ」

 先輩は怒ったのか、私の顎に触れ、親指で下唇をむにゅっと触った。

「名字、年上をからかうのはどうかと思うよ」

 先輩は私の唇を親指で撫でる。私を見る先輩の様子がいつもと異なり、なんて返せばいいのかがわからなかった。もう一度、先輩は私の唇を触る。

「そんなこと言わないに決まってるじゃん。だってキスするなら俺からする方が絶対楽しい」
「はぁ、そういうもんなんですね」
「ほんと生意気。何で今そういうことを言うのかなぁ」

 先輩は顎から手を放し、今度は両手で私の顔に触れた。掴むというよりは包むように、と言った方がいいのだろうか。頬と耳を撫でるようにしてぐっと顔を近付けた。休憩する前に先輩に英語を教えてもらっていたため、私は先輩の隣の席に座っていた。そのためにこんなことになってしまったのだ。いや、私は先輩が好きだからイヤだなんて思わないものの、やはり好きな人がこんなにも近い距離にいるのはとても心臓に悪い。

「……最初会った時、春市のことが好きな女子なんだと思ってた。どんな性格か気になってからかっていったら、いつの間にかこっちが好きになってた」

 先輩は不本意だというような顔をした。しかし、すぐに得意げな顔をして「でも知ってるよ、名字も俺が好きなんでしょ」と微かにかすれた声で言った。胸の辺りがきゅっとして、苦しいのに嬉しいという気持ちでいっぱいになる。

「名字、顔真っ赤」

 いつかのように、そう言って先輩は笑った。当たり前だろう、と思う。好きな人と近距離にいて、好きだと言われて、何も思わないわけがない。先輩に顔を掴まれてしまっているため、私は頷くことは出来なかった。

「はい、先輩が好きです」

 私の言葉を聞くと先輩は嬉しそうに笑った。

「知ってるよ」

 耳元を撫でていた手がゆっくりと離れた。また少し離れた距離に寂しさを感じるも、心臓は未だどきどきとうるさい。
 先輩は満足したような顔をして笑った。その笑顔を見てつられて私も笑うと頭に軽くチョップされ「はやく宿題片しなよ」と言われた。時間を確認すると、普段よりもだいぶ多く休憩を取ってしまっていたことに気付いた。

「先輩、私今なら簡単に問題が解けそうです」
「そう、単純で羨ましいね」

 そう言いながらも先輩はいつもよりずっと優しい顔で笑うから、やはり調子に乗ってしまう。ああ、今までこんなにも嬉しくて幸せだと思うことはなかった。どきどきして、わくわくして、ここが図書室でなければ嬉しくて叫んでいたに違いない。

 問題を解きながら先輩をちらりと見ると困ったような顔をして私の頭を優しく撫でて「はやく終わらせな」と促した。
 先輩が言うのだから、やらなくてはいけない。気持ちを引き締めるためにゆっくりと伸びをする。窓から見えるオレンジ色の空がいつもよりもずっと綺麗に見えた。

request by 羊毛さん(深海メトロポリス)
title by サンタナインの街角で
20160823
20170908修正
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