小説
くノ一になることを目指し、この学園に入学した私も生徒となって四年目だ。
ここで迷子になることもなくなった。
級友に「名前にも苦手な人とかいるの?」と質問されるくらい、いろいろな人と仲良くすることが出来て学園での生活を十分謳歌しているつもりだ。けど、級友のその質問には「少し苦手な人はいるけど……」と答えた。正直「少し」ではないような気もするが、私にも苦手な人がいる。態度にこそ表さないようにしているが、その人を見かけると消したい過去を思い出してしまう。他の人ならなんてことないことになるのかもしれないが、私にとってはとんでもないことなのである。
「名字じゃないか」
私は、竹谷先輩が苦手だ。
○
竹谷先輩を意識してしまうようになったのは、入学して一年が経った夏頃からである。
その日は比較的涼しい風が吹いていた。育てていた朝顔に水をあげた後のことだったように思う。
自分が育てている朝顔を見ながらその日の予定を立てていた時だ。腕の辺りからずずずと何か這う動きを感じた。明らかに人間のものではない生き物の感触と温度に悲鳴をあげる。全身に鳥肌が立ち、身体が動かない。呼吸がどんどんと荒くなり怖いと思いながらも、ソレが何なのかを確認するために、ソレがいる左手に視線を向ける。
何度か見たことのある蛇がいた。
左手に巻き付いているその蛇は、確か今年の新入生が大変可愛がっているペットの蛇であったように思う。じっと見極めているようにこちらを見ていた。
怖い。
怖い。
どうすることが一番良い方法なのかがわからず、唇を噛みしめる。交わってしまった視線を外していいものなのかもわからなかった。
「あーっ、いた!!」
どのくらいの時間、蛇と視線を合わせていたのかはわからないが、額の汗がつうっと流れた後、急に声がした。
「おいおい、大丈夫か?」
少年の声がするものの、未だに視線を外すことが出来ないでいると「悪さしないから大丈夫だって聞いたから、そんなに怖がらなくて大丈夫だぞ」とすぐ耳の間近で声がした。その言葉に安心し、ようやく声がするすぐ横の方に顔を向けた瞬間、ごつんと頭に何かがぶつかった。
「いっ……!!」
不運だと思った。頭と頭がぶつかったようだった。声の主がどんな様子でこちらを見ていたのかはわからないが、体制を崩したのか次にはどんと身体を押され、私は彼に押し倒されてしまった。
その時だ。
その時私は蛇がしゅるしゅると腕から何事もなかったかのように離れていく感触と共に、胸に別の違和感があった。
「いってて、悪い……」
上に覆いかぶさる髪がぼさぼさの少年の手が、私の胸に触れていた。
これは紛れもない事故である。わかっている。わかってはいたが、少しずつ膨らみかけているその小さな胸に異性の手が触れていたという事実に頭は正常に働かなかった。
自分でも聞いたことのない悲鳴が口から出た。上に覆いかぶさる少年の腕を払いのけ、どうにか彼の下から逃げ出した。
○
その少年が竹谷先輩だった。
後輩の飼っている蛇を探していた優しい竹谷先輩には悪いことをしたと思っている。先輩は悪くない。蛇に気付かなかったのは私であったし、もっと知識があればそんなことにはならなかったはずだ。私はその日から、次が起きないようにと生物に対する知識を貪り食うように学んだ。もう蛇は怖くない。
しかし私は、竹谷先輩だけは未だに苦手意識を持ち続けていた。
あの数日後、先輩は――あの時何故私が恥ずかしく思って急に逃げ出したのかはわかっていなかったようだが――ちゃんと謝ってくださったし、今後は蛇の管理も気を付けてくださるようだった。
先輩はいい人だということはわかってはいるが、どうしても胸を触られたという意識が先に出てしまう。
気にしなくていいと言ったものの、先輩は飼育している生き物と同じつもりなのか、最後まで責任を取ろうとしているのだ。
先輩は、責任を取ろうとしている。
私が困っていることがあれば助言をしてくださる。
どこかを怪我すれば、突然現れ怪我の具合を尋ね、町で可愛い簪があればそれを贈ってくださる。
美味しい甘味があると噂が学園に流れれば一緒に行こうと誘われる。
先輩が苦手だった。
最初こそ気にしなくていいのに、ぐらいだった彼の行為が、時間を経るごとにまるで胸を触った罪滅ぼしのように思えてしまったからだ。
委員会の活動中に発する、彼らが飼う生物に対して言う「最後まで責任を取る」という彼の言葉が私の胸をちくちくと攻撃した。
先輩が苦手だ。
でも優しくて責任感のある先輩のことがとても好きだ。
話をする時に少しだけ屈んで表情を確認しながら話を進める先輩が好き。
ぼさぼさに傷んだ髪をゆらしながら歩く先輩の後を追う委員会の後輩の姿を見ると動物の親子みたいに可愛いと思う。そんな姿を見た後に、真剣な顔をして実習に向かう準備をしている姿を見ると胸の辺りが締め付けられる。
虫を食べていたという噂を聞いた時は正直ちょっと驚いてしまった。
先輩の様子を遠くから見るのは好き。
照れくさそうにする表情とか、頑張ってる姿とか、遠くから見る分には胸の辺りはそこまでおかしくならない。
近くにいる先輩は苦手だ。
私の心配する先輩も、贈り物を差し出す先輩も。私の気持ちをおかしくさせるから。
「名字、これさっき町に出た時に買ってきたんだ。行列が出来ててうまそうだった」
「だから先輩、いつもいつも、申し訳ないと……」
先輩は町に出るといつも何かしらの贈り物を渡してくださる。
もう大丈夫だと断っても困った顔をしながら差し出されるとどうしていいかわからなくなるのだ。
「お前が何を考えているのかはわからないが、これは純粋にお前に渡したい贈り物だ。名字が、好きだから渡しているんだってわかってるか?」
「えっ?」
ずいっと、甘味の包まれた紙を渡される。
真っ赤になった頬を隠すように顔を横に向ける先輩は、確かに罪滅ぼしのために贈ってくださっているようではないように思った。
「せ、先輩は私のことが好きなんですか?」
「ああ」
「ずっと、こういうものを贈ってくださるのは……?」
「女子は、贈り物を喜ぶと聞いて……」
いつもとは違う、ぼそぼそとした声で先輩はそう答えた。
なんだか急に胸のあたりがどきどきとしてきた。嬉しくて、ずっと悩んでいたことが馬鹿らしく思えた。罪滅ぼしじゃなくて、好きだからこういうことをしてくれていたのか。
「名字はくノ一になる勉強をしているから、もうわかっているのだと思っていたんだが……」
「わかりませんよ。いい方にも、悪い方にも考えてしまうんです……好きな人からの行為って」
その言葉に先輩は驚いたように私の方を見た。
「そうか、同じだったからわからなかったのか」
title by サンタナインの街角で
20160526
20170908修正